詠み人知らず
【6】
南風が頬を撫ぜる
通り雨の土砂降りは駄々をこねる子供のようで
鳴き続けるセミに真理を垣間見た
天高く耀うは琴座のベガ
夕涼みの束の間、二人の間に言葉はいらない
【7】
まだ八時を過ぎたばかりだというのに、宵越しの蒸し暑さに全身が汗でじっとり濡れる。
ギャラリーまでは長い坂道。自転車を漕いで進む気力は到底湧かず、今朝はだらだらとハンドルを押して歩く。
寝起きに浴びたシャワーの意味が全くなくなったところでギャラリーが見えてきて、そこでやっとペダルに足を乗せる気になった。漕ぎ出すとあっという間に景色が過ぎ去り、結局は時間ギリギリでタイムカードを押した。
今日は開店準備をする必要はないので、ギャラリーの中だけ拭き掃除を済ませると、一息つくためにクーラーの前に直立する。冷風で髪が乾くと、体も幾分軽くなったような気がした。
ルカはキッチンでオレンジを絞りながら、朝食のパンが焼き上がるのを待っている。
「こんな日に限って寝坊するなんて」
「ミナトもギリギリだったじゃないか」
「起きたのはいつも通りの時間だよ。ただ、今朝の暑さは異常だ。足に力も入らない」
こうしてルカが俺のことを下の名で呼ぶようになって久しい。呼び名を変えた意図は聞いていないけど、どうとでも好きなように呼べばいいと思っている。
あれから学校へも行っていないし、トウマとの間で不便さを感じることもない。そして何より、理由を聞くほどの理由もそこには無かった。
「ミナト、いい加減クーラーから離れないと風邪引くよ」
ルカからそう言われたところで、クシャミが出た。
「誰かが俺の噂をしてるな」と言いつつソファに座ると、朝食をトレーに載せたルカに不思議そうな顔をされた。
「クシャミをすると噂されるのか?」
「逆だよ。噂をされたからクシャミが出る」
「へー。変なの」
納得しないまま、ルカが俺の分のジュースを手渡してくれる。飲んでみると思いのほか酸っぱくて、暑さにやられていた頭が一瞬で正気に戻った。
「それミカンじゃないよ。オレンジだから」
今や俺のことなど何でもお見通しのルカが、しかめ面をする俺にそう言って小さく笑う。その瑞々しい笑顔を見たついでに、俺はドアの横に掛けられているカレンダーに目をやった。メアリーの帰国日に二重マルを書いたのは俺だけど、カウントダウンをしながら増えていくバツ印はルカが書き込んでいるものだ。
もすうぐメアリーが帰ってくる。そしたらルカの朝食にも、ハムエッグとサラダが追加されるだろう。
「そうだミナト、昨日の夜、メアリーから電話があったよ。今日はよろしくってさ」
「うん。一応フレームも片っ端から拭いておいたし、準備なら大丈夫」
「あと、午後も休みにしていいから、遊んでおいでって」
「どうする?ルカどっか行きたい?」
「プール」
「よし、じゃあ映画でも見に行こう」
「なんでそうなる」
「映画館ならバスで一本だ。全く汗をかかずに行ける」
「そんなに恥ずかしかったら鍛えればいいのに」
「こんな暑さじゃ筋トレなんて不可能だ……って、やばい、もうこんな時間じゃん」
急いでギャラリーに戻って入り口の鍵を開けると、ちょうど庭先に真っ黒なSUVが入ってくるところだった。きっとあの車がメアリーの客人だ。
「ルカ!お客さんが到着したよ!」
慌てて奥の住居スペースまで聞こえるように大声を出す。しかし返ってきたのは、なんとも呑気な返事だった。
「オーケー!歯磨きしてくるから、後はよろしく」
「はぁ?」
ルカが受付に半分だけ顔を出す。
「ミナトがメアリーに頼まれたんだろ?」
「ルカがメアリーの代理だろう?」
「俺は単なる留守番だもん。代理とかは関係ない」
今さら何言ってるんだよ、と文句をこぼしつつ、俺は急いで表に出る。車に近づき、夏の盛りだというのにブラックスーツを着込んだ運転手へ空いてる場所に車を停めるよう伝えると、邪魔にならないように軒先まで戻った。
一回の切り返しで駐車された車の後部座席から降りてきたのは、高級そうなワンピースを靡かせた、女優みたいな人だった。大きなサングラスを外し、ゆるくウェーブのかかった長い髪をかき上げると、涼しげな眼で射るように俺を見る。
とんでもない人がやってきた。
真っ先にそんなことを思った。
「おはよう。君がハルくんね」
いきなり名前を呼ばれ、俺は素直にうろたえる。発するオーラだけで飲み込まれてしまいそうなほど、それは文字通り凛々しく堂々とした佇まいだった。
「え……あ、お、おはようございます。はい、ここでアルバイトをしている榛名です。柊理央様ですね?」




