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ギャラリーランコントル  作者: 津村
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駿河湾の海の底


 泥で汚れたボールがこちらに転がってくる。最初はアピールでもするかのようにタンタンとリズムカルに。それが徐々に小刻みに響くと、最後はひとつの長い音になって俺の靴先に辿りつく。


 梅雨時なのに間違えて履いて来てしまった、お気に入りの真っ白なスニーカーを汚すことなく止まったそれを、思いきり蹴り戻したのは高城さんだった。


 放物線を描くボールは分厚い雲の下を緩やかに飛んでいき、グラウンドの中央にいたエースストライカーの胸元に迷いなく帰っていく。


「高城さん、やるね」

「静岡の女だからね。このくらい当然」


 ふふ、と笑顔を返した高城さんと目が合いそうになったから、俺は慌てて視線を逸らす。何故かと聞かれても言葉にならないくらい、それは刹那的な憂いの感情だった。


 グラウンドの方々から「ナイスパス!」と声を掛けられ、高城さんは恥ずかしそうに小さく手を振って応える。暗い雲から再び霧のような雨が降り出したから、俺と高城さんは三歩下がって校舎の軒下に入った。


「ボールを相手に届けるってさ、素敵な行為だよね」


 柔らかな雨音を聞きながら、高城さんが放った言葉の意味を考えてみる。


 せっかく二人きりだというのに、俺はアプローチのひとつも出来ないでいた。


「時には涙が出るほど素晴らしいこと」

「そうかな?」


 かつてピッチを駆け巡っていた頃の心情を思い出そうとしても、それは南京錠で閉じられた箱の中にあるように、今ではすっかり取り出せなくなってしまっていた。


 鍵は紛れもなく自らで回し、捨てた。箱はとっくに駿河湾の海の底だ。


「私はそう思ったの。完璧なロングパスが目の前を通過していった時、とても美しいと思った。流れ星みたいに」

「そんな大袈裟な」


 一瞬だけ左膝にか細い痛みを感じた気がして、無意識に膝を左右に振る。


 高城さんは誰のパスを見てそう思ったのだろう。確かにスター選手のパスは芸術品だ。もしかしたら高城さんは、いつぞやの代表戦にでも行ったのかもしれない。


「ごめんね、こんな話。素人に言われても困るよね」

「そんなことないよ」


 高城さんが自身のことを素人と言ったことも、困るよねなんて配慮されたことも、俺は深く考えずに、ゴールが決まって歓声の沸くグラウンドを見た。


 そこにいつかの自分の姿はない。遥か深い海の底で、もうとっくに地球の一部になっているのかもしれない。


「ミナトー!高城サーン!」


 溺れかけていた俺を現実に引き戻す声がして、高城さんと同時に正門の方を見る。頭上高く傘を振りながら現れたルカに、高城さんがぺこりと頭を下げた。


 俺は二人きりの時間が終わったことすら気づかずに、めいっぱいに息を吸う。


「ルカ、迷わないで来られた?」


 水滴を払い落としたビニール傘を閉じるルカに、二人で近寄る。


「ノープロブレム!駅を越えたらすぐに見えたよ」

「良かった。ちゃんと傘もさして、ね」

「びしょ濡れだとまたメアリーに怒られるからね」

「メアリーは今頃もう東京か」


 俺の言葉に、ルカの視線が空へと浮き、そして再び俺に戻る。


「俺が悪さをしたらすぐに戻ってくるって言ってたよ」

「なら、寂しくなったら悪さをすればいいわけか」

「そんなことしたら、メアリーの顔を見る前に強制送還だと思うけど」

「それってどんな悪さだよ」


 中に入って昇降口の傘立てに傘をさすと、拝借した来客用のスリッパをルカに履かせる。「へぇ、日本の学校はこんな感じなのか!」とキョロキョロするルカを呼ぼうとしたら、さっそく割れんばかりの黄色い声が耳につんざいた。


「ルカ、こっち!」


 騒ぎが広がる前に、ルカの腕を掴んで階段を上ると、そのまま三階の会議室まで急ぐ。


 怠くなった左膝を庇いながら中に入ると、待ってましたと言わんばかりのトウマが、長机から立ち上がった。


 お決まりの余裕と爽やかさでルカに近づくトウマに、俺は王様に町一番の妹を差し出すかのような気持ちになった。あの人たらしのトウマのことだ、年下のルカに向かって何を言うか気が気じゃない。


「ハーイ、ルカ。ウェルカム!」


 万人を落としてきた笑顔で差し出されたトウマの右手に、ルカは躊躇いなく掌を重ねる。俺は長机に寄りかかってその様子を窺うも、なぜかルカに対して得体の知れない焦燥感しか湧いてこなかった。


 なんだろう?この感情は。


 ルカに対してはこんなのばっかりだな、俺は。


「高城さん、この前は漢字を教えてくれてありがとう」

「どういたしまして。ルカくん日本語うまくなったね」

「ありがとう。ミナトはあんまり褒めてくれないんだ」

「ミナト?」


 そう呟いてこちらを振り返った高城さんの笑顔が皮肉に思えて、俺は思わず口を開いた。


「ルカ、ここじゃ俺はハルだ。ミナトは目の前の人」

「同じ名前なの?」


 ルカが俺ではなく、トウマを見る。


「うん。俺はトウマミナト。漢字はえっと……ああ、ありがとう」


 高城さんが気を利かせて取り出したノートに、トウマがペンを走らせる。


「こう書くんだよ、藤間湊。中学まではトウマって呼ばれてたんだけど、何だかこの学校の人は俺のこと下の名前で呼びたがるんだよね」

「へぇ、そうなのか。じゃあ問題ないな」


 そう言って俺を見るルカの口角は右側だけ上がり、その唇の妙な色気に、何が問題で何が問題じゃないのか、俺は疑問を言えぬままぼーっとしてしまう。


「ミナト?」

「あ、ああ。手紙にも書いたけど、俺とトウマは中学までクラスが同じで……」


 サッカーチームも同じだったんだ。と言いかけたところで、意識もしてないのに急に声が止まる。


 すると、そんな俺をフォローするかのように校内放送のチャイムが鳴って、俺は名指しで職員室へ呼ばれた。


「なんだ?」


 ルカがスピーカーを目で探す。


「ルカを勝手に入れたこと?」


 呼び出しの理由を推測するトウマに、俺は首を振る。


「多分、というか絶対、進路調査の紙のことだと思う」


 教師が俺と話さねばならない理由なんて、所詮そんな程度のことだろう。


「まさか俺との結婚とか書いちゃった?」


 トウマのふざけた言葉に、高城さんがオーバーに口を押さえる。女子には悪いけど、とっても白々しい気持ちになって俺は長机から大袈裟に飛び降りた。


「行ってくる。すぐ終わるから、ここにいて」

「その間にルカを案内するのは?」

「うん。じゃあ念のため先生に言っておくよ」


 意外にもヒラヒラと手を振って見送るルカに、またひとつ自分自身に思うところが出来、廊下の端々から起こる冷やかしの声と共に、俺は姿の見えない凶器に脅され、うんざりしつつ廊下を進んだ。






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