企画展準備
「ミナト、機嫌が悪いな」
「え?」
歩きながら自転車の鍵をポケットの中で弄っていると、ルカが坂崎鮮魚店で買ってきたエビ団子を、そう言いながら俺の口へ押し込んでくる。
丘へ続く道は真っ黒く濡れ、昼間だというのに建ち並ぶ家の窓からは光が漏れている。
「テスト、そんなにダメだったのか?」
揚げてから相当の時間が経っているであろう、柔らかなそれを奥歯で噛み締めると、中から旨味の塊が溢れだして、暇を持て余していた胃にすとんと落ちていった。
「いや、違くてね」
「なに?」
「うん」
どう言えばいいか分からずに黙りこくると、やっぱりルカはそれ以上聞かずにいてくれて、ギャラリーに着くまで、傘に落ちる軽快な雨音だけが間を持たせるように二人の真ん中で響き続けた。
「おかえり、ハル。今日のおやつはガトーショコラよ」
久々……と言っても、ほんの数日振りに聞くメアリーの声は、凹んだ気持ちに急速浸透していき、その芯のある声がリビングへ入るよりも先に、俺をフラットな精神状態に戻していった。
メアリーに差し出された完璧な円形にナイフを入れると、きっちり円の中央で切り分け、エビ団子を五つも食べたルカにはやや小さく、自分の分は常識的な大きさで、皿に移すと固めの生クリームとミントを添えた。
「メアリー、大変なんだ。ミナトの機嫌が悪い」
「もう悪くないよ」
いつもより甘みの効いたメアリーのガトーショコラは、口に入った途端にエビ団子の塩気の記憶と相まって、壮大な美味さを発揮する。ストレートティーで一旦正気に戻ると、今度は生クリームをフォークに載せた。
「機嫌が悪くならないなんて、ハルにはあり得ないわね」
ギャラリーの方からメアリーに意見を求める声がして、それに通る声で応えつつ、メアリーが笑う。
「またその素敵な顔のことかしら?」
「ち、違いますよ」
「ミナトの顔がどうしたって?」
遠慮なく覗き込んでくるルカから視線を背け、どうしてこうもイケメンばかりが俺の隣に来るんだろうと、まるでイケメンを目立たせる為のボランティアみたいな自分の存在に、また気分が暗くなった。
「ハルはこんなに素敵な顔をしてるのに、自分の顔が大嫌いなのよね」
メアリーの言葉に、ルカが疑問符を浮かべた表情になる。
「大嫌い?」
「そう。ハルは自分の顔の全てが気に入らないのよ」
「メアリー」
ルカにしつこく顔を観察され、うんざりしてメアリーを見る。
「ルカ、やめろって。近いから」
「何が気に入らないんだ?変なところなんて何もないじゃないか」
「ありがと。そう言って貰えると嬉しいよ」
無邪気に絡みつくルカを何とか引き剥がし、ケーキで空腹を落ち着かせると、俺とルカはスタッフが無駄なく動き回るギャラリーに向かった。
画家が一枚一枚にメッセージと情熱を込めた、世界にたったひとつの作品たち。それを慎重に梱包から解き、メアリーから指示された場所に掛けていく。
今回は特に大きな作品が多いから、ルカと二人で持ってもすぐに腕が重くなった。
作者は国立芸大を主席で出た期待の若手で、到着予定は色々とずれ込み明日の午後。俺は学校だから気楽なものだけど、画家先生の出迎えはいつも緊張する。
奇人変人なんでもござれなこの世界。
大丈夫かな、ルカ。
「ミナト」
「うん?どうしたルカ」
今日の分の仕事が済むと、真っ白な軍手を外しながらルカが俺に振り返る。
「展示会が終わったら、ハルの学校へ行ってもいい?メアリーもアメリカに行っちゃうし、時間あるから」
「うん。俺もそろそろ誘おうと思ってたんだ」
俺の返事に笑顔が咲いたルカが、率先して外した軍手を受けとる。
そう言えばルカ、半月ちょっとで格段に日本語が上手くなったな。メアリーの話によれば、俺がいない時は辞書を肌身離さず持ち歩き、練習用のノートをもう四冊も日本語で埋めてしまったらしい。
これなら学校へ連れて行っても、トウマと難なくコミュニケーションが取れるだろうし、何ら心配することはない。
むしろ……。
「もうすぐ夏休みでみんな暇だし、メアリーを送ったついでにおいでよ」
「うん!」
ご機嫌なルカに、俺は漠然と不安が入り交じった焦りを感じた。




