愛犬アトム
「ま、こんな感じかな」
「よーく分かったよ」
こんな時間にここを通るのは、いつ以来だろう。いつもは誰かに話し掛けられるのが嫌で、混み合う時間を避け、一本奥の細い道を自転車で迂回していた。
期待値だけは高かったのに、あっという間に没落してしまった俺のことなど、きっと商店街中の誰もが知っているに違いない。そして明らかに異色を放つアメリカ人のルカのことを、きっとルカが次にここを通る頃には、この界隈の誰もが知っていることだろう。
そんな世間の狭さが嫌で、今もなお堂々と顔を上げることの出来ない俺を、メアリーはどう思っているのだろう。
大好きだなんて、冗談だって言われる価値はない。
「ここからバスに乗って大型スーパーに行こうと思うんだけど、その前に俺の家に行こう」
「お、妹を紹介してくれるのか?」
「残念だけど今日は学校だよ」
「みんな学校じゃないか。つまらない」
「忙しいんだよ、日本の学生はさ」
商店街のアーケードを抜けると、途端に古い家屋が建ち並び、新興住宅地とはまるで雰囲気の違う、昔ながらの地味な住宅地がアーケードを後ろから支えるように広がっている。
いくつかの角を曲がるとすぐに土手に出て、そこからは土手の規模にしては小さな川に沿って、自宅へ向かった。
「田舎で驚いたでしょ?」
土手から眺める家々の屋根はニューヨークみたいな輝きの欠片もなく、錆の目立つ飾り気のない景色に、今さらルカを案内するのが恥ずかしくなってくる。俺がルカなら、遊ぶ所もないこんな街にメアリーが住んでいたことに、ガッカリを通り越して失望するんじゃないだろうか。
「こんなにいっぱい家があるのに?アメリカじゃもっと田舎は沢山あるよ」
「メアリーが東京に住んでたら、色々あって楽しかったのにね」
「そしたらハルがいないじゃないか」
ルカの軽やかな笑い声が、静かな水音に絡む。
「どういうこと?」
「俺はハルに会うために日本へ来たんだ。それに、この街は好きだよ。まだ知らないことばかりだけど、きっと好きな物が沢山あると思うんだ。そんな予感がする」
流暢な英語でそう言って真っ直ぐこちらを見つめるルカに、俺は照れ臭くなって視線を外す。確かに客観的に見れば大した名所も名物もないありふれた田舎かもしれないけど、海があって富士山が見えるこの街は、俺にとって大切な場所に違いない。
ルカにもっとこの街を知って欲しい。
そして、もっと好きになって欲しい。
誰かに対してこんな感情を抱くのは、ルカが初めてだった。
「ルカ、ありがとう」
「何?」
「ここに来てくれて……さ」
ルカが不思議そうに頬笑む。
「ハルに帰れって言われないように頑張るよ」
「俺よりも先にメアリーに、だな」
「言えてる」
しばらく歩いて土手を下りると、俺たちは更に古い家屋が立ち並ぶエリアに入っていく。背丈よりも高い塀に囲まれた家々の中を迷路のように右へ左へ曲がっていくと、俺の気配を察してか、木塀の向こうからアトムの鳴き声が響いてきた。
「アトム、ただいま!」
返事をしてやると吠え返してきて、鼻で鳴く音が遠くへ消えていく。きっと家の中にいる母さんに、俺の帰宅を知らせに行ったんだろう。
「ハル、犬飼ってるのか?」
「うん。大食らいで甘ったれな奴なんだけど、メアリーには気に入られてるんだ」
ぐるりと塀を半周して門扉に入った途端、裏庭から全速力で駆けてきたアトムが、やんちゃな前足で俺の胸元に飛び込んでくる。
どうやら丸一日も俺が帰らなかったことを心配していたらしい。怒ったような安心したような、そんな表情のアトムの夏毛に変わりつつある頭を、俺のことを忘れなかったご褒美に、思いきり撫で回してやった。
「シバイヌだ!」
「うん。アトムって言うんだ」
「アストロボーイ!こんにちは!」
見慣れない風貌のルカに声を掛けられて戸惑っているのか、アトムはルカを見ながら小さく唸って威嚇音を出す。しかし尻尾は元気にくるくる回っている所を見ると、満更嫌でもないのかもしれない。
「アトム、この人がルカだよ。ずっと話してたろ?」
アトムは小首を傾げたと思ったら、ワン!と吠え、ルカに居直って大人しく座る。
「俺の話を思い出したな?」
「きっと俺が男で驚いたんだよ」
「確かに」
「ハル、俺も撫でていい?」
「うん。ほらアトム、ちゃんと挨拶して」
ルカがゆっくり手を差し伸べると、アトムはいつもの気の抜けたような笑顔でルカの手を受け入れ、威嚇していたのも忘れて、小刻みに動きながら全身くまなく撫でさせる。
「どうやら気に入ったらしい」
「良かった。これからよろしくな、アストロボーイ」
再びワン!と景気良く返事をしたアトムの足を玄関で拭いていたら、俺たちの話し声を聞きつけた母さんが奥の階段から降りてきた。




