八月一日 天井裏
窓辺の文机で書き物をしていた須磨子は、後頭部に刺すような視線を感じて振り向いた。
赤褐色の頭部に、ぬらり、と黒光りする胴体。幾つもの節で形成された長い胴体から無数に生えた黄色い脚。尋常ならざる存在感と殺気を放って、右斜め後ろの壁に巨大なムカデがへばり付いていた。
背筋を悪寒が走った。不気味すぎて直視できない。だが、どこか物陰に逃げ込まれでもしたら後が厄介なので、目を逸らすこともできない。
須磨子はムカデの姿を極力視界に入れないよう、視線の端で捕捉しつつ、ムカデのいる壁と反対の壁沿いを、抜き足差し足で六畳間の入口脇まで移動した。
腰を低くしたまま、壁に吊り下げてある箒を手に取り、同じ経路を戻る。文机まで来た所で音を立てないように窓を開けた。それからまた、そろりそろりと慎重に歩を進めてムカデとの間合いを詰めた。
突然、ガサガサガサガサと乾いた音を立ててムカデが天井へ這い上がった。須磨子は、ひっ、と声にならない悲鳴を上げた。夥しい数の脚が蠢くたびに首筋がぞわぞわとした。
ムカデは天井に逆さまにへばり付いた状態でじっとしている。須磨子はへっぴり腰で一歩前進した。ムカデは微動だにしない。もう一歩進む。まだ動かない。箒の穂先の部分を持ち、柄の先でムカデを窓の外へと誘導する。じりじりとムカデが天井を這う。
やがて、ムカデの前方に奴の潜む節穴が現れた。須磨子は手を止め、一瞬考えてから、再びムカデを前方へ追いやった。穴の中にムカデを入れてやろう、と思ったのだ。
思惑どおり、ムカデは穴に向かって前進した。が、あと少しという所でムカデが進路を変え、箒の柄に絡み付いた。須磨子は悲鳴を上げて箒を振り回した。ズボッ、と鈍い音がして箒の柄が天井に突き刺さった。
床に叩き付けられたムカデが胴体をくねらせている。須磨子は箒を抜こうと懸命に柄を引っ張るが、柄の先の紐がどこかに引っ掛かっているらしくなかなか抜けない。そうこうしているうちに、体勢を立て直したムカデが須磨子の方へ這って来た。
「いやっ」
須磨子は渾身の力で箒を下に引いた。バリバリと天井板が割れ、次の瞬間、
――ドスン。
と、足下に小さな塊が落ちて来た。
夕食後の洗い物を片付けて、佐川善子は表へ出た。
夜の八時をとうに過ぎているというのに、日中の暑さがまだ引かない。額に噴き出た汗を拭い、家の正面の道路に出て右を向く。三軒隣のアパートの前にパトカーと救急車が停まっているのが見える。建物の周囲に立入禁止の黄色いテープが張られ、その外側に人だかりができていた。
食事中からパトカーや救急車のサイレンと人々の喧騒が聞こえ、すぐにでも見に行きたかったのだが、野次馬根性丸出し、と夫に揶揄されたので我慢していたのだ。
野次馬の中に見知った顔の集団を見付けて、善子は小走りに駆け寄った。
「こんばんは、どうしたんですか?」
「あら、佐川さん。それが大変なのよ」
と、近所の主婦連中を仕切っている田山が顔をしかめた。
「ここの二階に住んでた人が、床下に子供の死体を隠してたんですって」
「え、死体ですか」
「そうなのよ、それも三人も。恐いわぁ」
善子は木造二階建のアパートを見上げた。
外壁は白茶けて所々剥がれ落ち、地面に近い壁には蔦のような植物が絡み付いている。二階に上がる階段の手摺りは錆付き、全体的に老朽化が激しい。いつか倒壊するのではないかと、近所ではもっぱら噂の物件だった。
「でも、このアパートに子供なんていましたっけ?」
「最近引っ越して来たばかりらしいわよ」
「離婚ですって」
田山の左隣から、噂好きの鈴木が口を挿んだ。
「あら、いやだ。そうなの?」
田山が驚いて鈴木を見る。人目を憚ってか、鈴木は口元を隠して答えた。
「そうらしいですよ。子供を殺したのも、離婚のストレスと育児ノイローゼが原因じゃないかって」
「女手一つで子供を育てるのは大変ですもんね」
田山の右隣で落合が頷いた。善子は田山に訊いた。
「でもどうして死体が見付かったんですか? 床下に隠してたんですよね」
「ああ、それね。一階の天井が抜けて、上から死体が落ちて来たんですって」
「落ちて来たんですか」
「そうなのよ、落ちて来たのよ。想像するとぞっとするわ」
田山はぶるぶると大袈裟に肩を震わせた。鈴木が声を潜める。
「死体、結構酷かったらしいですよ、鼠に齧られてて。目玉とか肉片とかが天井裏に散乱してて、回収するのに手間取ってるみたい」
「うわ、悲惨。夏場だから腐敗も進んでるんでしょうね」
落合も声を潜める。
「ああもう、やだやだ。それ以上気持ち悪いこと言わないで。夜、眠れなくなっちゃうじゃないの」
両手で耳を塞ぎ、頭を左右に振りながら、田山が悲鳴を上げた。落合が苦笑する。
その時、アパートの一階の部屋から一台の担架が出て来た。立入禁止のテープを潜り、衆人環視の中、救急車の後部へと運び込まれる。一瞬だけ、担架に横たわる若い女の横顔が見えた。
「気の毒にねえ」
田山が眉をひそめた。




