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七月三十一日  硫化水素

 七月三十一日

 奴の存在に気付いてから七日目、ついに恐れていた事態が発生した。

 相手の目的が分からない以上、下手に刺激しないように相手の出方を窺っていたのだが、結局、奴は何も仕掛けて来なかった。一週間、ただじっと見ているだけ。まあ、それだけでも十分、精神的ダメージを食らっているのだが、私自体に直接危害を加えることはなかった。これで、奴の目的が私の命などではなく、覗きという行為そのものにあることがはっきりした。

 だから、いつかはこうなるだろうと確信していた。むしろ遅すぎたくらいだ。

 昨晩、奴は浴室の天井裏から私を覗いていた。ゴソゴソと物音がしたので天井を見上げると、換気扇の隙間から奴がこちらを見下ろしていた。

 私は、思わず上げそうになった悲鳴を必死に飲み込み、洗髪も早々に風呂を出た。おかげで今日は頭皮が痒い。

 一刻も早く奴を抹殺しなければならない。私は思案した。そして閃いた。最近、巷を賑わせた硫化水素は使えるのではないか、と。

 早速、私は町の薬局へ入浴剤とトイレ用洗剤を買いに行った。入浴剤は販売が自粛されているとも聞いていたが、この古ぼけて潰れかけた薬局では普通に店頭に並んでいた。

 風呂掃除をするふりをして洗面器にトイレ用洗剤を入れて置き、入浴のさい、浴槽に入浴剤を入れるついでにその洗面器にも垂らしてやれば、奴にさとられることなく硫化水素を発生させることが可能なはずだ。

 部屋に戻りトイレに入る。トイレの天井をためつすがめつ観察し、奴が覗けそうな場所がないことを確認すると、薬局の袋からトイレ用洗剤と風呂用洗剤を取り出した。トイレ用洗剤の濃い緑色の容器はあまりにも特徴がありすぎて、それをそのまま浴室に持っていくのは不自然だと思ったからだ。

 風呂用洗剤の中身をトイレに流し、空の容器にトイレ用洗剤を詰め替える。途端、強烈な刺激臭とともに、刺すような痛みが両目を襲った。

 私は激痛に呻きながらトイレから飛び出し、部屋の外へと避難した。後ろ手に玄関のドアを閉め、新鮮な空気を吸うと鼻や喉の粘膜がひりひりと痛んだ。

 何故だ? 泡立つ液体、立ち上る気体。空の容器の中で明らかに化学反応が起きていた。

 嫌な予感がして洋服のポケットから財布を取り出し、薬局で貰ったレシートを見た。私が買ったのは、風呂用洗剤ではなく風呂用漂白剤だった。硫化水素の原料にばかり気を取られて、風呂用洗剤のラベルをよく見なかったのが拙かった。

 危うく自分自身が抹殺されるところだった。

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