02 ある放課後の水曜日(1)
水曜日の放課後。雨は降っていないが、やや灰色に曇った風のない日。
一体どこの誰とどのように交渉したのか、やる気に満ちた愛は文化祭で披露するライブに向けた練習場所として、特別教室棟の三階にある地学室を手に入れてきた。なので私たち三人は早速ということで、ともに連れ立って教室からそのまま地学室にやってきたのだ。
これから毎週、水曜日はここで文化祭に向けてバンドの練習をするのである。
やたら元気のいい愛は私たちを追い越して一番に部屋の中へ入り込むと、重そうに抱えていた荷物をどかっと床に降ろして、ううーんと伸びをした。
「さてと、着いた着いた。使わせてもらえてラッキーだとは思うけど地学室って意外と遠くて困っちゃうね。私は家からお兄ちゃんがいらないってくれたギターを持ってきたし、雪は持ち運びが便利なキーボードが弾けるからいいけど……」
昔から仲がいいらしい大学生の兄からもらってきたというギターが入っている黒色のケースを左手でなでながら、ちょっぴり気まずそうに言葉尻を濁して、ちらりとこちらへ目線を送る愛。
その先は言われなくてもわかる。
「私は楽器なんて無理だよ」
「練習する気は?」
「来年の文化祭なら考えてもいい。でも、今年の文化祭に出るんだったら本気でやっても間に合わなそう」
たぶん楽器の才能はないだろうから、なんて投げやりに言ったら苦笑された。
最初から演奏者として期待されていたわけではないらしい。
「大丈夫。ゆかりは真ん中で歌ってくれればそれでいいから。どうしても何か演奏したいってんなら、リズムに合わせて手拍子くらいならしててもいいよ」
「うんうん。楽器できないんだからしょうがないね」
やはりそれしかないのか。
リコーダーやピアニカなどなど、そういったものを練習させられた音楽の授業以外だと楽器なんて一度もろくに触ったことがない。だというのに、それを知っているはずの愛からバンドに誘われた時点でわかってはいたけど、それしか選択肢がないにしたってボーカルか。
いったいどれくらいの人が文化祭のステージを見に来るのか知らないが、たくさんいるであろう聴衆の前で歌うのは技術的な問題よりも精神的な意味で難易度が高い気がする。
つまり恥ずかしい。
でも、そんなことを口に出してしまえば、また弱音を吐いたと笑われてしまうだろう。
ここまで来たからには腹をくくるのも一興だろうか。たとえ失敗するにしたって、もじもじと恥ずかしがらずに思い切りやったほうが青春のいい思い出になってくれるに違いない。
それに私だって歌うことそのものは嫌いでもないのだ。
実のところ、人前でさえなければ大好きな趣味である。
ここまで来たからには逃げられそうにもなく、もはやなるようになれと覚悟を決める。
「わかった。せっかくの文化祭だからね。……私、やるよ」
「待ってました!」
結局は頷くことにした私の答えを聞いた愛が嬉しそうに飛び跳ねる。
模試の結果から絶望的と思えていた志望校に受かった受験生じゃあるまいし、さすがにリアクションが大げさなんじゃないか。ガッツポーズをするほどか。
あまり大ごとにはしたくない私としてはそう思えるけど、この無邪気な喜びようを見ていると、ライブに対して前向きになってよかったと思える。
「で、バンドといってもどんな曲をやるつもりなの? 昔ながらの定番曲でも、最近人気の新しい曲でもいいけれど、最初に決めなくちゃ練習もできないでしょ?」
「もちろん、そのつもり。今日は第一回目の記念すべき練習日だからね。演奏する曲はみんなで一緒に決めたくてさ、こんなんがいいんじゃないかなって私なりの独断でスマホに候補の曲を入れてきたんだよ。……あれ?」
「どうしたの? 何か探してるみたいだけど」
「うーん……。肝心のスマホだけど、たぶん教室に忘れてきちゃった。しまったなあ、教科書とかと一緒に机の中だよきっと。あーあ、女子高生にあるまじき失態だね」
「愛ってばドジ」
ふーやれやれ、と言わんばかりにわざとらしく肩をすくめた姿が面白かったのか、大事なスマホを教室に忘れてきた愛を眺める雪は嬉しそうにニコニコと笑っている。
指こそ差されなかったものの馬鹿にされたと感じたのか、そんな雪の様子を見た愛はちょっとむっとしたけど、なにをー! と叫んで憤慨するほどでもなかったようだ。すぐに表情を明るいものに切り替えると、問答無用といった勢いで雪の腕をつかんで引っ張った。
「いくらロックをかけていると言っても、プライバシーの塊を誰もいない教室に置いたままにはしておけないからね。今から急いで教室まで取りに行ってくるよ。すぐに戻るから、ゆかりはここで待ってて。ほら、雪は笑った罰に私と一緒!」
「えー、笑っただけじゃんかー」
「いいから行くよ、ほらほら!」
「笑っただけじゃんか~」
「ゴーゴー!」
やいのやいのと言い合いながら、お互いに腕を押し合い引っ張り合って、愛と雪の二人は地学室を出て教室に向かった。保育園から一緒だったという幼馴染の二人はいつもあんな風に騒がしく、ぶつかっているのかいちゃいちゃしているのかわからない感じで仲がいい。
そんなこんなで取り残された私は暗い地学室で一人になる。
二人がいなくなった途端にびっくりするほど静かになって、ここが校舎の一番外れであることを思い出した。
「候補曲か……。二人はどんな曲が好きなんだろ」
一人でいたって別にすることはない。
退屈しのぎに自分のスマホを手に取って、イヤホンも付けぬまま音楽プレイヤーを起動する。表示されたライブラリには、ずらりと三十曲近いタイトルが並んでいる。定額で何十万曲と聞けるストリーミングサービスにも入っているが、このライブラリはそれとは別で、どれもこれも私が気に入ってネットで購入した好きな曲ばかりだ。
友達にさえ公言していない趣味を隠す意味もかねて、万が一これらを誰かに覗かれてもいいようにと、あえて数を減らして厳選してあるマイベスト。
私だったらこの中からどれを選ぶだろう。
「あっ……」
特に意味もなく眺めているだけのつもりが、うっかり指が触れて再生を始めてしまった。しかも好きな曲ばかりを集めた渾身のライブラリの中でも特に好きな曲の一つだ。
ちゃらっちゃ、らっちゃっちゃん。
この軽快なイントロから歌唱部分への入り方が実にいい。
そんなつもりがなくとも実際に曲が流れ始めてしまったからには、すぐには再生を止めたくないファンとしての心理が私の指を音量アップへと動かす。
ふんふんふんと、最初は控えめなハミング。それだけでとどめておくつもり。
だけど学校で遠慮なく好きな曲を聞いていられる機会なんて私にはめったになくて、人目を気にせず自由に歌えるチャンスなどもっと少ない。
たった一曲、ほんの一曲分だけなら、最初から最後までフルで歌ったって五分もかからないのだ。
寄り道とおしゃべりの常習犯である愛と雪は何をするにも時間がかかり、渡り廊下で特別教室棟を出て自分たちの教室まで行って戻ってくるだけでも、少なく見積もって五分以上はたっぷりと時間をかけてくれるだろう。
いつだって二人は賑やかだから、たとえ彼女たちの専門家である私の予測が外れても、三階まで戻ってくれば地学室へと入ってくるより前にすぐわかる。
なら、少しくらい羽目を外したって――。
「いいじゃない!」
たまたま歌詞と気分がシンクロして、思いがけず楽しくなってきた私は小声で叫んだ。
スマホをマイク代わりに口元へもってきて、ここが辛気臭い地学室ではなく盛大に飾り付けられたライブ会場のつもりで歌うと、これがもう気持ちよくてたまらない。
上がり調子のメロディーにつられて少しずつ声が大きくなっていく。
なんということだろう。この曲の作詞と作曲を担当したクリエイターたちの策にまんまと溺れた気もするが、名曲に罪はないし、歌う私にためらいもない。
大丈夫。ここへ来る途中、こうなることを見越して隣の教室に、そのまた隣の教室にも誰一人いないことはばっちりと確認済みだ。放課後だから運動部の声や吹奏楽部の演奏が校舎一帯を飛び交っていて、まぁちょっとくらい大きな声を出したって私の歌声が遠くまで響き渡ることはない。
「つまりそれって最高じゃん!」
はい、これはサビ前の跳ねるようなフレーズ。
ここから畳みかけるようにサビっていくわけだけれど、思春期の女の子が前向きに感じる「世界の楽しさ」を凝縮したみたいなアイドルソング――そう、これはアイドルソングなのだ――を手足の振り付けなしで歌っていられるだろうか?
いや無理だ。絶対に。
右手の邪魔をしていたスマホを近くにある適当な机の上に、ぎりぎり丁寧と呼べる感じで投げ置いた。
晴れて自由になった両手を素早く振ってダンシング。ちょっとだけ足の動きが遅れて、ふわりとスカートを揺らす。窮屈なファッションは心まで閉じ込めてしまうから、動きやすいように上着の裾も出した。あまりにも大胆すぎる格好になるのでボタンは外さなくていい。
ダンスの授業は当然ながら体操服でやるけれど、私の愛するアイドルグループは制服モチーフの衣装を着ているから別に制服で踊ったっていいのだ。教室を舞台にしたMVもちゃんとあったし、そういうところは抜かりない。
「ふう……」
一番が終わって二番が来た。間奏を利用した小休止で額の汗をぬぐう。
あまりにも突然だったので無意識にセンターの振り付けをやってしまったが、次は別の子のパートを踊ろう。実際のライブでは構成メンバーによって同じ曲でも少しだけ動きが変わってしまうこともあるのだが、ここでは一番売れた最もポピュラーなライブのDVDを教科書にして、地学室という限られた空間をやや狭く使うようアレンジしてやっていく。
もちろん踊るのは私が一番好きな女の子のところ。
いわゆる推しメンバーだ。
小柄で可憐な彼女はいつだって元気に歌って、一生懸命に踊ってくれるから、それはもう私の目を引き付ける。人気投票ではなかなか上位に食い込めないが、そういう機会には隠れているだけで私以外にもきっとファンは多いに違いない。最高のパフォーマンスを見せるためなら全力で全身を使い切るようにパワフルかつエネルギッシュな動きをする女の子で、それでいて、同性なのに守ってあげたくなる危なっかしさも備えている完璧な不完全さ。
かわいいの象徴。
ボーイッシュと評されることも多い私とは似ても似つかない、典型的にして最高峰のアイドル美少女だが、まさにそれが私にとっての偶像であり憧憬なのだから好きに真似したっていいじゃないか。自分に似合っている他の子のパートを踊れよ、とか、通り一遍の心無い批判は正直に言って余計なお世話である。
お前には向いてないとか、そんなの柄じゃないとか、ファンの前に神は平等だということを知らないならば、異教徒に対する宗教裁判をするよりも懇切丁寧な布教活動をしてあげたい。
とはいえ人間関係そのものがそうであるように、外見ではない彼女の内的な魅力を初見の人にいきなり理解してもらうには時間がかかるだろう。今までに努力してきた量や性格の良さだけならば、このアイドル戦国時代には実にありふれていて特別なものとは言い難く、なかなかセンターをとれない彼女の場合にはライブ映像を見てもらっても魅力が控えめというか、他の子に目を奪われてしまいかねない。
でもいいのだ。そんな彼女が好きだから。
胸も大きめだから男の子のファンがもっといたっていいのに、まだ未成年というか現役高校生で本人の恥じらいも法の壁も邪魔をするのか、水着グラビアをはじめとする露出が極端に少ないのもファンを獲得するにあたってのネックだし、テレビに出てもすぐマイクを別のメンバーに譲っちゃうところがかわいいのにそうじゃない!
もっと自己主張しよう! できないんなら私が応援せねば!
などと考えていると二番のサビ。さすがに疲れが出てきた。
でも一番の見せ場で気持ちのいい部分でもあるサビはいつも無意識に口ずさんでいて、そのたびに振り付けも何度だって復習できているので余裕はある。熱心な運動部員の朝練並みにこなれたルーティンだ。今さら間違うものでもない。
なのに少し足がもつれた。あるまじき慢心である。すべからく反省すべし。
だけどなんとか最後まで破綻なくフルでやり切った私。無観客ライブだったのが我ながらもったいなく思えてくるほど完成度は高かったはず。ここ数年では一番出来がいいとか有名なワイン並みに大げさな修飾をして褒め称えておきたいところだし、私の心は一人スタンディングオベーションで最優秀賞ゲット。
だけどこのまま二曲目に突入するのはちょっとまずい。
乱れつつある制服が本格的に汗をにじませかねないという問題で体力的にもまずいし、そろそろ二人が戻ってきかねないという問題で時間的にもまずい。
机の上に放置しているスマホからシャッフル機能でランダムに再生され始めた次の曲のイントロが、さざ波のように始まっていた。窓の外の雨音と聞き間違うように、ぽつぽつと。実際には雨は降っていないようだけれど、空を覆う厚い雲が、ちゃんと照明を付けていても部屋の中まで薄暗くさせている。
だから私は気づくのが遅れた。
曲を止めようとスマホに手を伸ばしたところで目が合った。
相手を石化させる力を持ったバジリスクに一睨みされた哀れなる気分で、ピタリと全身の動きが止まる。それを見て、反対に相手は余裕をもって動き出す。
「へえ、ずいぶんと楽しそうね?」
ああ、なんということだろう。よりにもよって藤川さんだ。