第2話 曾祖父は被災地で死んだ
「はー、秀平先輩ってそんなにひいおじいちゃん子だったですねえ…」
じゅうう…とストローでバナナ牛乳をすすりながら、助手席で二水が言う。信号待ち、僕はふわふわした三つ編みの頭の方へ眼をやった。黒縁眼鏡の中の意外に黒目がちな大きな瞳は、牛乳パックにしか焦点が合ってない。まさに一心不乱、と言うやつである。
しかし、なぜだろう。このバナナ牛乳を飲んでいるときだけ彼女の返事は、いつも空々しく聞こえるのは。
「なーそんなに美味いかバナナ牛乳?」
「いっ、いえそんなごとっ…(器官に入ったらしい)…全ぜっ…ごほっ、全然!」
と聞くと、二水はあわててストローから口を離した。いやそこまであわてなくても。
「個人的な用事なんだから、無理してついてこなくたって良かったのに」
皮肉でも何でもなく、僕は言った。確かにここへ来る第一の目的は、大学の研究室が斡旋してくれたボランティアだが、これはそのついでのまったくの私的な用事だ。しかしこの二水がどうしたことか、どうしてもついてくる、と言い出したのである。
「なっ、何をおっしゃる水臭いことを!先輩の用事は、二水の用事ですよう!」
「そうなの?」
二水はがくがくと首を振って、大仰に頷いた。
「はっ、はいっ、そう!そうなのですよう!二水はもおっ、どこまでも先輩にお供しますですよ!」
「そ、そう。…悪いね、本当に」
やっぱり何度見ても、この娘は不思議な子だ。
僕は今、研究室の後輩の二水と曽祖父が住んでいた町にいる。
福島県二荒郡海神町。
人口は少ないながらもこの漁師町は、県内有数の漁港を有する海産資源の町だった。平成二十三年の東日本大震災では地震後の大津波に見舞われ、多くの人が避難生活を余儀なくされた。
曽祖父が亡くなって二年後、平成二十九年の春だ。海神町の避難警報が解除になった。そこで僕たちの家では、曽祖父の遺産相続の問題がようやく持ち上がってきていた。
もちろんこの話は曽祖父の生前から、進められてきたものではあった。うちでは早くから祖父が亡くなり、曽祖父がそれを一手に管理している年月が長かった。そのためその内容については、家族の誰も関心を払わずに来たのだ。
秀平家は明治の頃は地でも有数の大農家で、曽祖父の代は事業をしていたらしく、まずは資産のとりまとめからやらなくては、分割協議には入れないそうな。曽祖父はあらかじめ知り合いの弁護士を頼って、その手の書類をまとめていたらしかった。
震災後、曽祖父があんなことになってしまったので、親族の誰も話の続きを聞けず、困っていたらしい。
「いいから、おれが死んだら誰か書類を取りに来い」
迎えにきた大叔父に、断固とした口調でそう言いつけたその言葉が、曽祖父の遺言になった。
「ははあ、厳しい、ひいおじいさまだったのですねえ」
今度は二水、運転する僕の顔ばかり見ている。何につけ、一点集中型の子なのだ。ハンドルを操りながら、今度は僕の気が散ってくる。
「でも、普段はうるさいことは何も言わない人だったよ。僕もほとんど怒られたことなかったし」
昔の男、と言うのはそう言うものだったのだろう。がみがみと口やかましいことは言わなくても、誰もが曽祖父の考え方を尊重した。でもその曽祖父の考え方、と言うのを、本質的には、多くの人が理解できなかったのだ。だから今、困ったことになっているのだ。
「何しろ遺産の相続について、曽祖父が何を、どう言った方針で誰と、どこまで進めていたのだか、誰も判らなくなっちゃってさ」
それでも最近やっと曽祖父と付き合いのある弁護士とコンタクト出来たらしいのだが、震災後のことはやっぱり書類を見ないとはっきりとしたことが言えないらしい。
「では、ひいおじいさまは、ずっとそのご自宅で相続の書類の準備を?」
「いや、よく判らないんだ。でも何回かはその弁護士の先生のところに、相談の電話が掛かってきたみたいなんだけど」
何しろ被災ほどなくのことだ。ただでさえ交通の便も悪いのに、百歳近い曽祖父が一人、出歩けるはずもない。
「…それでも、ご実家を離れたくなかったんですね」
二水は同情するように、声をひそめて言った。
ただひ孫の僕からすれば頑固もここまで来ると、偏屈だ。僕以上に思い出深いことの多い自宅だ、もちろん離れるに忍びなかった想いは、今にして察してあまりあるが。