第1話 僕の曽祖父は満州にいた
今、僕の手もとに信じられないほどに若い曽祖父の写真がある。
それは僕が決して、手にすることのなかったであろう写真だ。具体的な撮影場所は明らかではない。でも、これはひと目で異国で撮られたものだと判断できるものだ。
丈夫そうなあごを崩してはにかんだように笑っている曽祖父が被っているのは、毛皮つきのコザック帽だ。さらには襟元の生地からみても恐ろしく分厚いコートや、丈の長い丈夫そうなブーツにまで白い毛皮が張ってある。
撮影されたのは昭和十一年(一九三六年)、中国は河北省天津とある。その頃、中国の各都市には租界、と言われる外国人居住区が設けられ、様々な特権を得て繁栄していた。代表的なのは上海だがここ天津にもイギリス、ドイツ、フランスはじめ各国が入り込み、我が日本もその例外ではなかった。
中国家屋に畳を持ち込み、無理やり和風にした街では寿司、天ぷら、ウナギなどの和食すらも食べられたと言う。それが、地元産ではない。この時代に空輸で東京から運ばせたものだ。さらにはキャバレー、芸者小屋、遊郭なども本土からの出店で、そこで働く和服姿の女性たちも、日本からの出稼ぎなのである。
昭和恐慌の嵐が吹き荒れ、身売りや餓死が相次いだと言われる当時の祖国の世相などどこ吹く風、この街では時代の徒花のようなバブル景気で湧きかえっていたのだ。
牽引したのは、言うまでもなく軍需であった。天津租界の歓楽街には軍人たちが毎夜、大金を落とし、それに群がる水商売や接待の御用商人などでごった返していたのだ。彼らも含め、この歓楽街を構成したのはいわゆる一旗組である。新天地に活路を求め、狭い日本を飛び出した、いわゆる大陸浪人と言われる人たちのなれの果てだ。
大正四年(一九一五年)生まれの僕の曽祖父も、その渦中にいたのだ。このとき、二十一歳、今の僕とほとんど同じくらいの年だ。曽祖父は単身、現地で乾物商を営む遠縁のつてを頼っただけだと言う。しかも堅気の仕事に合わず、数日で遠縁のもとを飛び出したと言うのだから、驚かされる。匪賊、と言われる野盗集団が横行するのが、当時の大陸である。
写真の曽祖父は、武装している。毛皮のコートにぶっちがいに肩がけされているのは実包が入った弾帯だ。左脇には銃剣をぶらさげているし、右腕の後ろからちらりと見えるのは、当時の日本兵の標準装備だった三八式歩兵銃だ。
だがそう言えば曽祖父は徴兵されたことがない、と誰かから昔、聞いたことがあった。本人からではないと思う。曽祖父はいつも言葉は少なく、さらに言えば自らの若い頃についてなど、ほとんど語りたがらなかったのだ。
「外地で苦労したからねえ」
と決まって言っていた曾祖母も、添い遂げたのは曽祖父がこちらに引き揚げてからのことでそれ以前のことは、中国大陸で仲買のような仕事をしていた、と言うことくらいしか知らないのだ。
一度酔って、上機嫌になったときの曽祖父に僕は、外国で若い頃何をしていたのか、訊いたことがある。曽祖父はビールのコップを片手に、
「風来坊だ」
と乾いた声で笑っただけだった。こうやって普段はへらへらしているようにしか見えなかったが、昔はすごく怖い人だったと、親戚が集まると必ず話に出る。この年齢の男性にしては普段は頑固なところはほとんどないのだが、いざ心を決めると、誰にもその意志を曲げさせることは出来なかったそうだ。
ひ孫の僕に怖いところなどは一切見せなかったが、一度怖い顔を見たことがある。この写真を見ていると、それを思い出すのだ。鋭くすがめられた目の光が、突き刺さってくるような、どきっとする眼差しだった。
「おぅい修馬、そこさ座っちゃアなンねぞ」
それは、小学五年生のときの夏休みの終わりだった。帰省した僕は庭のブドウ棚で遊んでいて、曽祖父に怒られたのだった。
このブドウ棚、見たことがある人は分かると思うが、工事現場の足場に使うような鉄パイプをつなぎ合わせたテントの骨組みのような簡単なものなのだが、ブドウの実がたわわになる頃になると、密林のように茂った蔦や葉のそこかしこから、甘く熟した匂いが立ち込めてくるのだ。
「じっとしてろ」
僕に絶対動かないように言うと、曽祖父は作業用の赤い釣り人帽を利き手に構えると、びっくりするほど機敏な動作で宙を掃いた。その瞬間、ぼだり、と重たい音を立てて何かが、コンクリートの三和土の上に墜落したのが分かった。
「熊ン蜂だ」
虎柄の斑を、毒々しく膨らませた特大のスズメバチだった。そいつは、ブドウの葉影から、僕を狙っていたのだった。曽祖父は叩き落とした蜂をぐしゃりと靴でにじると、そこで初めて大きく息を吐いた。
このとき身体が真っ二つになってさえ、まだ曽祖父の靴を刺そうと、うごめくスズメバチも怖かったが、
「座るな」
と言った瞬間のその目の険しさに、僕は子供ながらに凍りついたのを、今も忘れることが出来ない。
その曽祖父が震災ほどなく、仮設住宅を無断で脱け出した。そして警報がいまだ解除されていない海神町の自宅に戻ったと分かった。それが分かったとき、親戚の誰も連れ戻すことが出来なかった。齢九十歳を越えているのだ。それでも納得できないことには、たとえ総理大臣が説得に来ようと首を縦に振らない、と言う曽祖父の意志は生涯、変わらなかった。
帰宅困難地域となった地元で曽祖父は結局、四年を生きた。震災からどうにか徐々に人が戻り始めたとは言え、ほとんど自力の生活だったと思う。
最期は台所のお勝手で倒れているところを、一時帰宅していた誰かが見つけてくれたのだと言う。僕たちが駆けつけると、搬送先の病院で曽祖父はすでに死んでいた。そのとき僕は、都内の大学から急行した。家族の誰にも看取られず、独りで死なせてしまったことだけが、悔やまれた。僕だって震災のボランティアに何度も参加しては、かたくなに避難を拒否した曽祖父の様子を出来る限り、見に行っていたはずだったのに。