episode.8
episode.8
「解放と恐怖」
「268番、外へ出ろ!」
ある朝、リリーは狭い檻の中から出るよう促された。リボソ国の捕虜が檻から出られるのは、基本的に死刑執行の時だけである。だが彼女は例外だった。利用価値が生まれたのである。クロレアのパイロット・ナスカの妹であるという事実がリリーを救った。
「もしかして、処刑……ですか?」
詳しいことは何も知らないリリーは怯えて言う。268の番号札が服から剥がしとられる。
「一緒に来い。理由は、今に分かることだろう」
リリーは唇を噛んで不安を堪えるしかなかった。一体どこへ進んでいるのか。それすらも分からぬまま、ひたすら足を進めた。
そうして歩いているうちに辿り着いたのは、尋問官の控え室だった。リリーは不思議に思って首を傾げる。入ってすぐ目の前にあるテーブルには、真新しい服がそっと置いてある。
「その服に着替えろ」
リリーは指示通りその服に着替えた。白いシャツに昆布色のブレザー、それにズボン。着替えさせられる意図がさっぱり掴めなかったが、そんなことはどうでもよかった。恐らく処刑ではない。それを感じられただけで安心できた。
「もう着替えられたか?」
問いに「はい」と答える。付き添いの男はすっかり綺麗になったリリーの姿をまじまじと見つめた。似合っているか分からない慣れない服装の自分を凝視され、リリーは少しばかり恥ずかしかった。
「お前はもう268番ではない。人の誇りを持て」
控え室をあとにして、男の後ろについて行く。何が起こったのだろうか。道中ずっとリリーは不思議な感覚に浸っていた。 やがて目的地に到着すると付き添いの男が静かに扉を開ける。リリーはまた指示された通りに部屋の中へ足を進める。そこはとても質素な部屋だった。テーブルと椅子以外に物は何一つ無い。向かいの椅子には知らない青年が座っていて、様子を伺うように鋭い目を光らせていた。
「あの、えっと……」
畏縮するリリーに付き添いの男は説明する。
「お前の仕事はこの男から話を聞き出すことだ。あるいは心を折るでも構わん。どちらかを選んで任務を遂行しろ」
男はスタンガンを取り出し、座っている青年の肩に当ててみせた。リリーは青ざめて思わず手で口を押さえる。しかしスタンガンを当てられた青年は、歯をきつく食い縛ったまま、鋭い目付きは決して変えなかった。かなり我慢強い。
「見ての通りこの男、実に強情でな。拷問をしてみたりもしたのだが、さっぱり効かない」
よく見てみると、青年は両手首を椅子の背もたれに、両足首をテーブルの足に括りつけられている。彼もまた不運な捕虜の一人なのだろうとリリーは同情した。それと同時に、心のどこかで尊敬の念を抱いていた。どんな苦痛を受けようとも、凛々しく誇り高くあり続け、決して自分を見失わない。そんな強い心を持っているところに惹かれた。
「こいつはクロレア航空隊のパイロットだった。そうだろう? アードラー」
青年は俯いて黙ったまま小さく頷く。
「えっと……お名前、アードラーさんというのですか?」
青年の顔を覗き込んで尋ねると、偶然目が合う。リリーは怖さと興味の混ざった複雑な気持ちで彼を眺めた。しかし、次の発言が、リリーの心から怖さを吹き飛ばす。
「ナスカ……に似ているな。失礼だが関係者か?」
幼い頃自分が拐われて以来一度も会っていない姉の名を聞き、リリーは我を忘れて話題に食い付く。
「ナスカを知っているの!? 私の姉よ!」
すると青年は穏やかな表情に変わり頷いた。
「エアハルトで構わないよ」
リリーは嬉しくなって、大きく首を縦に振る。
その時だった。付き添いの男がエアハルトを椅子ごと蹴り飛ばした。愕然としているリリーのことなど微塵も気にかけず、続けてテーブルを蹴り倒す。椅子と共に地面に横倒しになっているエアハルトの脇腹にテーブルの角が激突する様子はえぐかった。こればかりはさすがのエアハルトも目を細めて呻いた。手首が椅子に括られているので痛む所を擦ることさえも出来ないのだ。彼の体は苦痛のせいか微かに震えていた。
「愚かな捕虜の分際で、上から喋るな!」
リリーは彼を助けてあげたかった。すぐにでも拘束を解いて「大丈夫?」と声をかけたかった。けれど、男の目がある。助ける素振りを見せたりすれば即処刑になるかもしれない。人間なんて結局は自分が一番可愛い。それはリリーも同じだ。だから彼女は、そんな自分を醜いと思いながらも、身動きせず沈黙を貫くことを選んだ。
男が部屋から出ていき、数分くらいが経っただろうか。一人の紳士が入ってきた。
「初めまして、貴女がリリーさんですね。ハリといいます。よろしく」
分厚い帳面を片手に持ち、真面目な印象の紳士で、リリーはわりと嫌いじゃなかった。何より人間として扱われているのが心地よい。動物も同然の捕虜だった昨日までとは大違いの待遇である。
「この手の仕事をした経験は無いとのお話ですが、期待していますよ。今日ですべて終わらせてしまいましょう」
彼は淡々とした物言いでテーブルと椅子を元の状態に戻すと着席した。言動すべてが落ち着いていて大人びている。
「それではできる限り早く開始しましょう。リリーさんもどうぞ座って下さい」
「ありがとうございます」
リリーは感謝の意を述べてから、椅子に腰を掛けた。ちょうどエアハルトの真正面の席だ。
リリーを見るエアハルトの目はどことなく優しさを湛えている。決して尋問を軽くして欲しいと懇願している弱気な目ではない。単純に彼の穏やかな部分が滲み出ているのである。
「えっと、まずは……何をすれば……」
早速迷ってしまったリリーにハリは黙って紙を渡す。その紙には【質問事項】というのが書いてあった。リリーは気は乗らなかったが、元に戻らなくていいように、まず自己紹介から始めてみる。
「改めまして、リリーと申します。どうぞよろしく」
失礼にはならないように、と意識して軽く頭を下げた。
「リリーさん、これを使っても構いませんよ。捕虜担当科から借りてきた道具です」
ハリはリリーの目の前にスタンガンやペンチなどの怪しい道具を並べていく。目にするだけでもおぞましい物ばかりだ。中には何に使うのかさっぱり想像できない物もある。
「とっ、とにかく、……最初から質問していきますね」
リリーは一回深呼吸をして精神を落ち着かせ、心を鬼にすると心を決める。
「航空隊の戦力について、知っていることを全部話していただけますか」
エアハルトは静かな声で「話せません」とだけ回答する。それに対してハリが言う。
「実を言えばリリーさんは罪の無い人質です。貴方が素直に質問に答えられたなら、彼女の身柄は解放しましょう」
エアハルトはそれでも首を横に振った。するとハリはテーブルに置かれたスタンガンを手に取り、リリーの首に近付け、エアハルトに不気味に笑いかける。予想していなかったリリーは驚き、背筋が凍り付くのを感じた。
「これでも話せないと言えますか? そう仰るなら彼女に電気を流します。目の前の可愛いお嬢さんを痛い目にあわせるなんて……普通の男ならできませんよね」
初めてエアハルトの表情が微かに動く。
「関係の無い者を巻き込むな。やるなら僕にやれ」
低い声で静かに言った。
「……ひっ」
リリーは首すれすれまで寄ってきたスタンガンに怯えて歯を震わせる。顔から血の気が引いて、今にも失神しそうな状態になっている。
「僕にやれと言っている!」
エアハルトが強い口調で発言した。
「弱者に手を出すのは、一番卑怯な方法だろう!」
抗議する姿すらも凛々しい。なにも整った顔立ちだけではない。誇り高い言動や真っ直ぐさを感じさせる頼もしい目付き。リリーはみるみるそれらの虜になっていった。
リリーは首からスタンガンが離されても、まだ落ち着かず、心臓は破裂しそうな程にバクバクと音を立てていた。
「騒がしいですよ」
ハリはやや腹立たしそうにエアハルトを見下すと、彼の首筋にじわじわとスタンガンを近付けていく。ひとまず感電させられるのを逃れたリリーは、緊張で唾を飲み込んだ。まるで威嚇しているかのように、先端部から稲妻みたいな光が走る。
やがて先端が首筋に触れると、エアハルトは「ぐっ!」と詰まるような声を上げて、頭を前に倒す。それからほんの数秒間があり、目を細く開いた。
「さすがの貴方でも、首筋は効いたでしょう?」
ハリは嫌みな感じに口角を上げる。リリーは彼がそういう人であることを知りがっかりした。
「どうです? リリーさんも。こういう趣向はお嫌いですか?」
当然好きではないが、本当のことを言うわけにはいかない。だからリリーは控え目に「そんなことはありません」とだけ答えた。
それからハリはエアハルトの体のあちこちにスタンガンを当てた。その度にエアハルトは体をくの字に曲げて、空気の混ざった苦痛の声を漏らす。
「アードラー氏、強がりは止めていいのですよ。さぁ、すべてを早く話して下さい。苦しいのは嫌でしょう。とっとと話して楽になって下さい」
ハリは楽しそうな笑顔でリリーにスタンガンを手渡す。失敗して自分が感電しないかと不安を抱きながら、恐る恐るスタンガンを受け取る。
「リリーさんも心ゆくまでしてあげて下さい。きっと目覚めるでしょう。これは癖になる楽しさですよ」
ひたすらサディスティックな男だ。
リリーが思いきれず、何もできずに迷っていると、彼は「さぁ、早く!」と妙に急かす。だが魅力的なエアハルトに酷いことをする勇気は出ない。
「それとも、我々のことを裏切るのですか?」
冷たく言われたリリーは得体の知れない恐怖に襲われ、慌ててスタンガンをエアハルトに向けた。リリーは「ごめんなさい」と口の中で小さく何度も繰り返しながら、スタンガンの先端を彼に近付けていく。触れる瞬間、エアハルトはリリーの方を向き、「いいよ」と微笑した。謝ってからリリーはスタンガンを当てる。その一撃では、彼は声を出さなかった。
それからしばらく、リリーは口を開けなかった。気まずくて何も言えなかったのだ。そんなリリーにエアハルトはさりげ無く声をかける。
「君はナスカによく似ている。優しくて、相手の心が見える、そんな素敵な子さ」
リリーが微かに嬉しそうな顔をしたのをハリは敏感にキャッチし、微笑んだ表情とは裏腹に怒った口調になる。
「あんな誘惑に惑わされるんじゃない! あいつは誰にでもこんなことを言う女好きだ。性欲の処理に利用されるだけだぞ!」
怒っている方向性がまるで謎だ。リリーにはその言葉が、美しいエアハルトに対する嫉妬に聞こえた。ハリは更にいちゃもんのような発言を続ける。
「それにあいつは変態だ! 服を脱がせてもいくら辱しめても、飄々としていやがる!」
正直それは大きな声で言ってはいけないことだとリリーは思った。自分たちのしている酷い行為を言いふらしているも同然である。しまいにハリは、こんな奴は尋問ではなく拷問を受けるべきだ、なんて言い出す。あまりに愚かな発言。上司が見たら呆れるだろう。
「まったく……イライラするじゃないか!」
ハリはストレスを発散するため椅子を横倒しにしようとするがちゃんと倒れず、余計に苛立ってくる。
「くそっ、鬱陶しいな。まぁいい……少し遊ぶか」
リリーはハリを紳士の皮を被った悪魔だと思った。最初紳士的な男性だと思った自分を馬鹿だったと笑いたいくらい。
ハリは並べられた怪しい道具の中からペンチを手に取り、エアハルトの右腕だけを椅子の後ろから自由にする。動かせるようになった右手を掴むと、気持ち悪い笑みを浮かべる。
「今から爪を剥がしていこう。白状する気になればそう言え。そこで止めてやる」
ペンチで親指の爪を挟み、それを握る手に力を加えた。
「戦力については一切話さないと言っている!」
意地を張るエアハルトの右親指の爪を、ハリは遠慮の欠片もなく剥がした。一欠片の躊躇いもない。むしろ楽しんでいる。指先が赤く滲んだ。リリーは気持ち悪くなって後退する。
「どうだ、言う気になったか」
エアハルトは首を横に振る。するとハリは人差し指と中指の爪を続けざまに捲った。それでもエアハルトは沈黙を守った。リリーは必死に目を逸らす。だが怖いもの見たさか、いささか見てみたくもなった。しかしこれ以上気分が悪くなっては大変なので我慢した。
「リリーさん、もっと見てあげてはどうです? ふふふ」
楽しそうなハリに声をかけられてもリリーは絶対に見ない。これは彼女なりの最大の抵抗であった。
更にハリは薬指と小指の爪も楽しそうに剥がした。エアハルトは歯を強く食い縛り苦痛に耐えている。
やはり彼はかなり我慢強かった。弱音は吐かないし、相当な痛みのはずだが声も出さない。何より、彼はこの異常な空間の中で、正常な精神を保っていたのだ。