episode.19
episode.19
「些細な気遣い」
食堂を出て、外の風を浴びようと玄関へ向かうと、車椅子に乗ったヴェルナーが受付係の男性と何やら楽しそうに話していた。
「兄さん! 来ていたの?」
ナスカはヴェルナーに声をかけて駆け寄る。
「あぁ、ナスカ。こんな朝から一人でどうした?」
「ちょっと外の空気でも吸おうかなと思って。もしよかったら兄さんも一緒にどう?」
ナスカが誘うと、ヴェルナーは笑って頷く。
「いいね。俺も行くよ」
ナスカはヴェルナーと共に外へ出ていった。
外は珍しく快晴だった。灰色の雲はほとんどなく、高い青空が広がっており、時折寒い風が吹いている。それでも晴れているので、日光が当たるとじんわりと暖かい。
「リリーは元気?」
ヴェルナーが尋ねた。
「うん……とても」
ナスカは少し俯いて答えた。
「私、さっきリリーと喧嘩しちゃった」
小さく言うと、ヴェルナーはナスカに目をやる。
「何があったんだい?」
「食堂でリリーがいちゃつくから注意したの。そしたらリリーは怒って……羨ましいからそんなこと言うんだって、嫉妬してるんだって言われちゃったわ」
一瞬言葉を止め、そして再び話し出す。
「リリーが幸せになることに嫉妬なんてするはずない……。私はあの子が笑っていれば幸せよ。だけど、少し怖かったの。リリーが私から離れていくような気がして」
少ししてヴェルナーは言う。
「リリーがいちゃついてた相手は誰なんだい?」
「……ジレル中尉」
ナスカがぽそっと呟くと、ヴェルナーは唖然とする。
「ま、まさか!」
驚きの声をあげてから笑い始める。
「はっ、ははは! 俺の妹たちは本当に玉の輿だなぁ。アードラーさんの次はジレルさんか!」
ナスカはヴェルナーが大笑いする理由が分からずきょとんとする。
「兄さん、ジレル中尉とも知り合いなの?」
ヴェルナーの笑いはまだ止まらない。ナスカは彼がこんなに大笑いし続けるのを初めて見た気がした。
「うん。いやっ、あはは! 年離れてるから特別仲良くはないけど知ってるよ」
「航空隊時代に?」
人脈の広さに感心しながらナスカが尋ねる頃に、ヴェルナーの笑いはようやく収まった。
「いやいや。ジレルさんは有力貴族の長男だから、貴族界ではそこそこ有名だよ」
「貴族!? へぇ〜、この時代に貴族とかいるのね」
自分が貴族であることをすっかり忘れているナスカに、ヴェルナーは突っ込む。
「うちも貴族だよ」
「あ! そうだったわね」
言われて思い出したナスカは自分の出自を忘れていたことが少し恥ずかしかった。それと同時に、昔の自分を徐々に忘れてきていることに気付き、どこか切なかった。
「……話戻るけど、リリーに、謝った方がいい……よね」
ナスカはぽそっと呟く。
「今、ナスカが謝ろうと思えるなら、謝っておいで」
ヴェルナーは穏やかな優しい目付きでナスカを見つめる。
「でも許してくれるかな。私、酷いこと言っちゃった。リリーにも……ジレル中尉にも」
「大丈夫だよ。ちゃんと気持ちを伝えれば、きっと分かってくれるから」
「……本当?」
ナスカは不安な顔をする。
「きっと大丈夫だよ。外の空気も吸えたことだし、そろそろ行ってきたら?」
ヴェルナーはナスカの背中を軽く叩き元気づける。
「……うん。そうする。ありがとう、兄さん」
ナスカはお礼を言うと、再び食堂へ戻ることにした。
食堂の入り口に着くと、遠目にリリーとジレル中尉が見え、ナスカは引き返したい衝動に駆られた。しかし勇気を出して一歩を踏み出す。ここで逃げてはならない。そう心の中で何度も自分に言い聞かせる。
ナスカは二人のもとまで歩いていき、心を決めて口を開く。
「リリー」
ジレル中尉と仲良さそうに話していたリリーが振り返る。
「ナスカ! ……怒ってる?」
リリーは気まずそうな顔で言った。
「ううん、違う。その……ごめんなさい」
ナスカは頭を下げたまま続ける。
「さっきは言いすぎて、ごめんなさい」
リリーは何が起きたのか分からず戸惑っている。
「な、ナスカ? 何? どうしちゃったの?」
その時、ジレル中尉が淡々とした口調で言い放つ。
「ナスカくん、もういい」
短い言葉ではあったが、冷たくはなかった。ナスカはゆっくりと顔を上げる。
「そんなのは君らしくない。嵐が来るから止めてくれ」
ジレル中尉は淡々とした平坦な声で言った。
「カッとなってごめんなさい。あの、本当はあんなこと言うべきでないと分かっていました。だけど衝動的にあんな……どうか許して下さい」
ナスカは緊張しながらも懸命に言葉を紡いだ。
「もう許している。……というより、そもそも最初から怒ってなどいない」
リリーはナスカとジレル中尉を交互に見ている。
「ありがとうございます」
ナスカは少し笑ってお礼を述べる。勇気を出して素直に謝って良かったと思った。
その翌日、ナスカは廊下でトーレにばったり遭遇した。
「おはよう。トーレ」
声をかけると、トーレはぎこちなく「おはよう」とだけ返した。少しでも早く話を終えたいというような、どこか急いでいるみたいな表情だった。
「トーレ、ヘーゲルさんと作戦についての話とかした?」
ナスカが何食わぬ顔で尋ねると、彼は小さく頷く。
「ちょっとだけ。でも、たいしたことは話してないよ」
「どんな話をしたの?」
トーレは笑っていない。
「誰かに……言うほどのことじゃないよ」
「昨日ね、ヘーゲルさんに呼び出されたの。作戦内容を変えて、作戦が成功しないようにした者がいる。そう言われたわ」
「それがどうかした?」
「ヘーゲルさんはトーレに聞いたって言ってた。本当なの?」
トーレは黙り込んでしまう。
「何か訳があるのよね。……それも話せない?」
ナスカはほんの一瞬もトーレから目を離さない。彼をまっすぐに見つめる。
「お願い、話して」
ナスカはトーレの手を握り、真剣な表情で彼の大きな瞳を凝視する。
しばらく沈黙があり、トーレは弱々しく口を開く。
「……言わないと殺すって言われたんだ。裏切りがあったって言わないと、家族まとめて処刑だって。裏切るつもりじゃなかった。けど、僕……処刑なんて言われたら怖くて」
「……そう。そうよね。そんなことだと思ったわ」
トーレは呟きより少し大きいくらいの声で言う。
「で、でも、本当のことは言ってないよ」
ナスカは小声で返す。
「嘘を言ったの?」
「うん、そうなんだ。隙を狙ってヘーゲルを暗殺する作戦に変えたって言ったよ」
気まずそうにトーレが言った内容に、ナスカは絶句した。
「そんなことを言ったの!? そりゃあ怒られるはずだわ」
ナスカは驚きと呆れの混ざった言い方をした。
「トーレ」
と、背後から名を呼んだのはエアハルト。突然のことでトーレは驚き、硬直する。
「今、少し構わないだろうか」
エアハルトがそう言うと、トーレはさらにひきつった顔になる。ヘーゲルに告げ口したことを怒られると思ったのだろう。ナスカは推測した。
「あ、あ……ごめんなさい」
トーレにいきなり謝られたエアハルトは、やや戸惑った表情で言う。
「どうした?」
「あっ、いや、えと……」
トーレは挙動不審だ。
「ヘーゲルさんの話ではありませんでしたか!?」
「ん? テスト飛行の話だけど」
エアハルトはどうやら告げ口のことを知らないらしい。とっくに知っていると思っていただけに意外だ。責任者的役職であるエアハルトに最初に話がいきそうなものだが。
「テスト飛行、ですか?」
トーレは不思議そうな顔をして尋ねる。
「そうなんだ。ちょっと付き合ってくれないか?」
エアハルトは少し笑う。
「えっ、僕ですか!?」
トーレは驚いて返した。
「こんなに健康だというのに、みんな揃って反対するんだ。飛ぶのはまだ危険だ、と。誰も相手してくれない。地上勤務ばかりというのも退屈なものなんだよ。そこで、君に協力してもらいたいって話」
しばらくしてからトーレは口を開く。
「ですけど、僕にできることは限られています。ナスカとかの方がいいのではないですか?」
するとエアハルトはきっぱりと言い返す。
「ナスカを不必要に飛ばすわけにはいかない。そんなことで怪我したりしては可哀想だ。それに、もしリボソの偵察機なんかに発見されたらもったいない」
「……だから僕にですか」
トーレは嬉しくなさそうに、小さくぽそっと漏らした。
「嫌ならば断っても構わない。今回は君の意思に任せる」
トーレの嫌そうな顔に気が付いたからか、エアハルトはそう付け足した。
しかし、訪れた沈黙を先に破ったのは、予想外にもトーレだった。
「何をすれば?」
その静かな声にはトーレなりの勇気が滲んでいる。
「戦闘機に乗って空へ行って。それから……撃ち合いだ」
エアハルトはどこか嬉しそうな声色でそう言った。
「実弾ではなく訓練用を搭載しておくように。では、三十分後に上空で会おう」
と続け、ご機嫌なエアハルトは通りすぎていった。その足取りは弾んでいる。ナスカは彼が戦闘好きだということを、久々に再確認した気分だった。
エアハルトの姿が見えなくなると、トーレはすぐさまナスカの方を向き叫ぶ。
「まずいことになっちゃったよ! どうしよう!?」
ナスカは冷静に返す。
「とにかく、準備した方がいいと思うわよ」
「他人事だぁ! 冷たい!」
トーレは涙目になっている。
「地上からゆっくり観戦しておくわね」
「というか僕、撃ち合いなんてしたことないよ! 実際に戦ったことだってないのに、そんな模擬戦闘みたいな……」
「実戦に備えてするのが模擬戦闘よ」
「……どっちでもいいよ」
もはや思考がこんがらがり、トーレはよく分からないことを言い出している。
「ナスカ、助けてよ! 相手はクロレアの閃光だよ!?」
トーレはナスカの肩を持ち、大きな瞳に涙を溜めながら、必死に訴える。
「エアハルトさんだと思えば大丈夫よ」
ナスカにはそれしか思い付かなかった。
「僕、油断してたよ! まさかこんな日が来るなんて……」
すっかりびびりあがり、子犬のように震えている。
「大丈夫、勉強になるわ。それに実戦じゃないから殺しにきやしないわよ。実戦のエアハルトさんと戦うよりはましだと思って」
「ひえぇ……」
トーレは青ざめている。
「嫌なら断ればよかったのに」
ナスカが言うと、トーレは困り顔で首を横に振る。
「そんな、断れないよ」
「なら仕方ないわね。時間はあまりないんだから準備してきたら?」
がっくりと肩を落としてトーレは頷いた。
「いきなりやって来て三十分後とか……早すぎるよ。そんな早く準備できないよ……っていうか着替えて外に出るまでで十分くらいはかかるよ……」
何やら不満をぶつぶつ漏らしていた。
トーレと別れ歩き出そうとした時、ジレル中尉とリリーが仲良く現れた。
「あ、ナスカ! おはよう!」
リリーは当たり前のように明るく声をかけてくる。
「リリー、本当に仲良しね」
ナスカが言うと、リリーはハッとして少し気まずそうな顔をし、ジレル中尉から離れる。
「あ……ごめんなさい」
ナスカは昨日のことを思い出して言う。
「リリー、そういう意味じゃないから。仲良くしていいのよ」
「……本当?」
リリーは不安げに呟いた。
「本当よ、リリー。そういえばジレル中尉って貴族出身だったんですね」
ナスカが話をふると、ジレル中尉はじとりとした目付きで尋ねる。
「……誰に聞いた?」
ナスカは聞き取りやすいはっきりした声で答える。
「兄から聞きました」
「……兄? あぁ、そうか。君も貴族の家柄だったな」
ジレル中尉は納得したようで小さく頷いていた。
「ナスカくんには兄がいたのだな。知らなかった」
そこにリリーが口を挟む。
「ヴェルナーだよ! リリーとナスカの優しいお兄ちゃん!」
屈託のない無邪気な笑顔にやられ、ジレル中尉は少し頬を赤らめる。
「足が悪くて歩けないの……でも、リリーたちを守ってくれたとってもいいお兄ちゃん! リリーも、ヴェルナーのこと大好き!」
「そうか、良いことだ」
一生懸命笑顔をつくろうとしているが、リリーの笑顔の愛らしさに動揺しているらしい。動揺を隠しきれていない。
「ジレルにも今度紹介してあげるよ! リリーはね、ジレルならきっと仲良くなれると思う!」
「楽しみにしておこう」
二人が話し出すとナスカは置いてきぼりにされた気分になり微かに胸が苦しくなる。喉近くまで込み上げてきた言葉をうっかり吐いてしまわないように、ナスカは唇を固く閉じる。
リリーも一人の人間だ。いつかは誰かを愛するだろうし、旅立つ時も来る。ナスカだってそれは十分承知している。
なのにナスカは得体の知れない喪失感に襲われた。
「……カ、ナスカ」
リリーの声を聞き、はっと現実に戻る。
「ナスカ、大丈夫? ちょっと……顔色が悪いみたいだよ」
気がつくとリリーは心配そうな眼差しでナスカを見つめていた。
「……ナスカくん、大丈夫だ。リリ、いや、リリーくんは君を一人にはしない」
ジレル中尉は相変わらず冷たげな表情で言い放った。いつも通りの冷めた顔つきとは裏腹に声は穏やかだった。
「それよりナスカくん、トーレの模擬戦を見に行ってやればどうだ?」
「あ、聞こえてましたか」
「もうすぐ始まりそうだな」
ナスカは腕時計を見て驚く。
「こんな時間! ありがとうございます。では行ってきます」
お辞儀をして別れようとしたその時、リリーが口を開いた。
「ねぇ、リリーも行っちゃダメかな?」
「もちろん! 構わないわ」
ナスカは答えた。
リリーの表情が一気に明るくなる。顔面に向日葵が咲いたような眩しい笑顔。
「ジレルもどう?」
リリーは誘うがジレル中尉は首を横に振る。
「私は今から仕事だ。観戦は姉妹で楽しむといい」
それはジレル中尉の彼なりの気遣いだった。




