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俺の通う弓町高校は伝統と県内有数の進学率を誇る、しかし実のところは何処にだってある、平凡な公立高校だというのを声高に主張しておきたい。
偏差値は六十五以上だが県内トップ校ではない、そんな学校なのだ。
しかし、そんな何の変哲もない学校にだって、本当に誇れるものが一つは存在する。
図書館だ。
実際に調べたことはないが、恐らく県内で一番の蔵書数を誇るんじゃないだろうか。
そのほとんどがひどく古く、貸し出し禁止になってしまっているが、それでもそこんじょそこらの図書館には負けないだろう。下手したら大学の併設図書館レベルかもしれない。一高校の持ち物としては大き過ぎるので、近隣の住民にも解放している、という話だ。
○○の初版本、絶版になっている□□、とかそういったものに価値を見出す人にとっては宝の山にでも見えるだろうか。残念ながら本をあまり読まない俺には関係のない話になるのだが。
特にこれといった感慨もなく、築何十年を誇る古臭い建物を見上げる。
校舎とは別に独立して建てられているその建物は、所々に蔦が絡みつき罅が入っているものの、それが逆に良い雰囲気を醸していた。さながら何処ぞのお屋敷といった風情か。
一口に同じ古臭さと言っても、ただ廃墟じみているだけの屋上とは別物である。
「今日は蔵書点検日なので、本当は閉館日なんです」
ポケットから何気ない様子で鍵を取り出しながら、榎本先輩が教えてくれる。
自信なさげな態度にうっかり忘れそうになっていたが、こうしてみるとやはり委員長らしく見える。
ちなみに羽鳥先輩の方はまだ執務が残っているとか何とかで、生徒会室で俺たちを送り出してくれた。
後で見に行きますわ、とも言っていたが。
「鍵は、私と司書の先生、それに事務室に図書委員会用のマスターキー、その三つがあります」
ぎぃ、と重たげな音と共に扉が開かれる。途端に微かな紙独特の匂いが鼻腔を掠めた。
「ほぅ」
感嘆の声を上げたのは、俺の隣を歩いていたアリスである。
本好きな印象を持っていたのだが、意外とあまりここに来たことはないらしい。
珍しげに辺りをきょろきょろ見回すアリスを尻目に、俺はそう推測した。
アリスの反応に、榎本先輩は嬉しそうに目を細める。
「凄いでしょう。そろそろ築九十年に届く建物なんですよ」
「むぅ」
榎本先輩の折角の説明を聞いているのかいないのか、アリスは熱心に天井を見上げていた。
漆黒の眸が光を透過するように輝いている。
一つだけしか見えないとはいえ、やはり、アリスの眸は何時見ても綺麗だった。
榎本先輩は他にもいろいろと説明を続けている、が、生憎と俺は聞き流していた。
こういう話が嫌いなわけではないが、そうかといって興味があるわけでもないのだ。
それに興味がないものに興味があるフリをするほど愛想が良いわけでもない。
必要最低限な情報だけを聞き取っている、とでも言えば聞こえは良くなるだろうか。
ひらり、と榎本先輩は、入ってすぐエントランスになっているところから見える三つの扉を順繰りに指し示した。まず最初に、右側。
「こちらが司書室です。館内でも扉で繋がっているので、この扉はあまり使わないですね」
次に左側。
「こちらは書庫です。古くなった本が仕舞ってあります。稀少本だけは別に館内に展示してますが」
そして最後に、中央。
「それで、これが図書館内への入り口になります」
俺たちよりも一足早く歩く榎本先輩は、鍵を差し込んでから、ゆっくりと扉を開けた。
「建物の外見からの見目よりは狭いですけど」
「おぉっ」
謙遜しながらも、誇らしげな榎本先輩の声。アリスが感嘆の溜息を漏らす。
――なるほど。こういったところには利便性しか求めていない俺でも、その凄さはわかった。
視界一面に広がる本棚。ずらりと並んだ背表紙。
オリエンテーションで連れて来られた時は、俺も度肝を抜かれたものだった。
確かにこれはどう考えても、一介の公立高校の身にあまる施設だ。
だからこそ、公立図書館も兼ねているのだろうが。
「えぇと、それで、問題の本なんですけど」
ついっと声がした方に視線を向けると、カウンターの方に早速向かったらしい榎本先輩が、数冊の本を抱きかかえて持って来ようとしているのが見えた。
明らかにもの凄い重量があるように思えるが、文学少女然とした顔は寧ろ涼しげである。
大量の本と三つ編みの少女、この上なく似合った組み合わせに、俺は内心でもう一度榎本先輩への評価を改めることにした。
なるほど確かに、この図書館を統べる図書委員会の長として相応しい人物だ。きっとこちらが榎本先輩の本来あるべき姿なのだろう。
「これが発見された本の一部で」
うんしょっと、という掛け声と共に、本が床へと下ろされる。
長い三つ編みが垂れて、本を見下ろす榎本先輩の顔に翳を作り出した。
「まだ他にも沢山あるんですけども」
一番上に置かれた一冊を手に取り、アリスへと恭しく差し出す。
青いカバーが掛けられたハードカバーだ。
中央には金字で『世界名作全集Ⅲ』と記されている。
きっと俺には手も出ないような値段の本なのだろうことは、簡単に想像がついた。
今にも泣き出しそうな顔になって、榎本先輩はアリスを見ている。
その涙目に一瞥もくれることなく、アリスは慈しむように表紙を一撫ですると、そっと、頁を手繰った。
「っな」
すぐに右眼が驚愕に見開かれる。
横からそれを覗き込んだ俺も、思わず声を上げてしまっていた。
「うわっ、酷いな」
応える声は勿論なく、アリスは無言で数頁分を一気に捲った。
――一頁前と、似たような状態だった。
捲る、めくる、メクル。
眉を顰めたアリスは、視線を本に落としたまま、素早くその華奢な指を左右に動かし続ける。
メクル、めくる、捲る。
頁に空けられた二つ穴が、微妙に位置を変え、しかし途切れることはなく続く。
紙とインクの世界に作られた、あってはならぬ空白は、律儀に二つずつ存在している。
ぱたん、と音を立ててアリスが本を閉じると、震える声が前の方から聞こえた。
「酷いでしょう。この子たち、皆そんな感じで」
床にしゃがみ込んだ榎本先輩だった。
愛しいものを傷つけられたことを心底悲しむように、ゆるゆると本の表紙を撫でている。
それはアリスと酷似した動作だったが、それよりも遥かに強く激しい想いを伴った行為だった。
まるで、子の死を悼む母のような。まるで、恋人の不幸を嘆くヒロインのような。
あぁ、まるで、悲劇の主人公のような。
眼鏡の奥の眸は悲しみと愛しさと怒りが混ざり、丁度良い具合に濁っている。
好みの眸だな、というのは流石に不謹慎すぎて自重した。
「誰が、一体、本当にひどい、この子たちは何にも悪く、ないのに」
緩んだ涙腺から、一粒零れ落ちる――前にそれを遮ったのはアリスの声だった。
「すまないが、他のも見せたまえ」
すまなささの欠片も見当たらない、冷静な声。
しかしそれでハッと我に返ったらしい榎本先輩は、特に文句を言うわけでもなく、大人しくもう一冊を選んでアリスに差し出した。
今度は血で染め抜いたような真っ赤な表紙のハードカバーだ。
先程のと同じように、金字で、これは『日本名作全集Ⅳ』と記されている。
もしかしたら同じ出版社から出された姉妹シリーズなのかもしれなかった。
赤と青が交換される。
「これもか」
ぱらり、と紙を繰る音に、冴え冴えとした声。
横目でアリスを窺うと、予想通りその顔は見事な能面顔だった。
眸だけが別の生き物のように爛々と輝いている。
一見して不気味としか思えない光景に、俺はぞくりと背筋を引き攣らせた。
残念ながら、勿論、俺のこれはおぞましさや恐怖、畏怖から来るものではない。
不謹慎だとわかっていても、俺は口許を綻ばせるのを抑えることが出来なかった。
にっと後ろ暗い笑みで口端を引き上げる。
何故なら、本に落としたアリスの眸は。
俺が欲して止まない、あの眸の輝きを宿していたのだから。




