19
「ふむ」
アリスが書類を捲る音だけが静かな生徒会室の中聞こえている。
本来この部屋の主とも言える羽鳥先輩といえば、自分の要求が通ったのを確認してすぐに、呼び出しに応じて何処かへ行ってしまった。生徒会長は多忙なのだ。
することが特になく手持ち無沙汰な俺は、羽鳥先輩が淹れてくれた紅茶を無駄にゆっくりとしたスピードでありがたくちびちびと飲んでいた。
壁に掛けられた時計に意味もなしに視線を送れば、秒針がいつもよりゆっくりと進んでいるように感じる。
「うむ、眩」
「おう?」
名前を呼ばれたので、顔をアリスの方へと向ける。
書類に視線を落としたままの彼女の横顔は、掛かっている髪のせいかいつもより陰鬱そうに見えた。
「犯人がおおよそ確定したぞ」
ぱらり、と紙が捲られる。
白い紙面いっぱいに印刷された黒い文字羅列は横から眺めるだけでも嫌気が差してくる。
よくもまあ、こんなのを読み込む気になれるものだ。俺には無理な話だ。
「後は決定的な証拠を押さえて王手を掛けるだけだ」
アリスの眸はそう続ける間にも小刻みに動いていて、文字羅列を順に追っているようだった。
彼女の口振りからでも、犯人が誰だったのか推測がついてしまう自分が悲しかった。
鈍感な人間になってしまいたいとすら、一瞬願ってしまうほどに。
「今回の犯人は榎本繭乃だ」
淡々と告げられた事実は、すでに確認のようなもので、俺はふっと溜息だけ吐き出した。
ちらり、とアリスはそんな俺の反応を怪訝そうに横目で一瞥する。
「何だ、あまり驚かないのだな」
俺はゆるゆると頭を軽く振った。
「驚いていないわけじゃないさ。ただ、この前のアリスの口振りからして榎本先輩を疑っていたのはわかってたから」
「――まあ、これで結果はどうあれ榊原灯弥の無実は相対的に立証される」
あくまでアリスの声色は事務的だ。少しでも時間を一緒に共有してきた者への感傷を一切含まない、冷徹とすら言えるその態度は、俺に安堵を与えてくれる。
アリスは、性格は揺らぎやすいが犯人に対する冷たさは揺らぎにくい。
変わらないことが良いことだと断定はできないが、それでもこういう時には彼女の冷たさがありがたかった。
「アリスが請け負った依頼はあくまで榊原灯弥の無実の証明だからな。こういう結果になってしまったとはいえ、アリスがすべき役割をきちんと果たしたことには違いがない」
「そうだな」
俺が同意を示すと、アリスはふんっと鼻を鳴らした。
「アリスもアリスだが、君も君で大概なやつだな」
「何がだ?」
「煩い、黙れ」
ばっさりとアリスは言い捨てる。
うっかりその特徴たる傲慢さを忘れかけて会話しているときにそういう言葉を突っ込まれると、少し堪える気がした。マゾの気はないので嬉しくはないのだ。寧ろ逆であると思っている。
アリスは書類の最後の紙に眼を通し終わったのか、テーブルにそれを置くと胸の前で腕を組んだ。
「後は証拠だけが必要なのだ」
「証拠?」
推理の過程として、まず最初に証拠品ありきのような気がしてしまうのは、それは俺が探偵役として事件に関わったことがないからだろうか。
アリスは眉根を寄せてぶつぶつと唸っている。
「本はあくまでも被害物なのであり、あのインクとて強い証拠とはなり得まい」
「じゃあ、どうするんだよ?」
「だから、君は少し自分の頭で考えたまえよ」
合いの手代わりに質問を挟むと、アリスがこちらを見上げてきたので眸と視線がかち合った。
真っ黒な眸は、今日は澱が晴れているように見せかけられている。
「犯人を嵌めるに決まっているだろう。探偵としては禁じ手らしいが」
馬鹿なのか君は、と副音声が付いてきそうな表情に、思わず俺は反論を口にしていた。
「禁じ手ならやっちゃいけないんだろ」
「なら、眩が代案を出してみたまえ」
ぐぅの音も出なくなった。アリスに思いつかないことが、探偵を担っているわけでもない俺に思いつくはずがない。その前にそんな面倒なことは考えたくもない。
本音の方をいうわけにもいかず、黙り込む俺に、アリスは勝ち誇ったようなドヤ顔で胸を張った。
「ほら見ろ、これが最善策なのだ」
確かにそうなのかもしれないが、何となく面白くなかった。
ない胸を張られたところで魅力が発生するわけでもないし、アリスは胸を張らない方がいいと思うのだが。
「――一体どんな案なんだ?」
皮肉を吐き出してしまう前に、俺はアリスに方法を問うことにした。
機嫌が良くなったせいだろうか。今度は自分で少しは考えろとは言わずに、アリスはあっさりと説明をしてくれた。
「また臨時委員会を開く。そこで偽物の被害本を用意して新しく被害本が見つかったと報告するのだ。重要なのはここでパンチで穴あけの他に青インクで落書きがされていた、と言うことだな。それをここ生徒会室に保管しておくのだ。後は数日アリスたちが調査している風を装って入れなくしておき、一日だけ、ここを開ける」
ティーカップを持ち上げて、アリスは喉の渇きを潤した。
琥珀色の液体を、音を立てずに器用に流し込んでいく。
「理由は自分たちで仕立てても構わないし、もしかすると繭乃自身が連れ出すかもしれない。取り敢えずここを離れる、が、アリスは執務机の中にでも隠れるとする」
「待て、俺は?」
口振りがいかにもアリスだけが残る、といった風だったので、俺は慌てて話を遮った。
遮られたアリスは何を言っているのだとでも言いたげな眸で俺を見ている。
「君の大きい身体は見つかりやすいだろう」
いや、そんなに大きくはないと思うのだが。
突っ込みを入れたら入れたで、自分の中の柔らかな何かが傷付きそうな気がして、俺は口を噤んだ。
確かに俺の身体はアリスよりも大きいだろう。しかしそれはあくまで男女間の体格性あるからであり、尚且つそこにアリスの身体の小ささという要因が加わるからなのだ。
俺自体はそんな風に言われるほど高身長なわけでも、体格がいいわけでもない。
寧ろ平均よりは線の細い身体付きをしているという自覚がある。
アリスの俺に対する大きいという評価についてはそこらで置いておくことにして、俺はもう一つ気に掛かったことの方を彼女に尋ねた。
「アリスに何かあった時、俺が近くにいなかったら守れないじゃないか」
「君の場合、アリス、ではなくて正しくはアリスの眸、だろう」
「……」
図星なので、何も言い返せない。ここで肯定してしまうことは楽だが、流石にそれは憚られたのだ。
アリスはふぅと溜息を吐き出した。
「まあ、どの道君なら丸ごと守ってくれるからいいだろう。だが、今回は君は外のどこかで待機を」
「嫌だ」
「な、眩、アリスに逆らっ」
ムッとした顔で、俺を睨みつけようとしたアリスの言葉が途中で止まる。
びくり、と怯えた小動物のような表情に変わっていく顔を見て、俺はようやく自分が今どんな顔をしているのかを自覚した。探偵としての本格的なスイッチが入っている状態のアリスなら別にこれぐらいで怯えることはないのだろうが、通常状態となれば話は別なのだろう。
恐らく、いや絶対、今の俺の眸の色はおかしい。おかしいなんて言い方すら生ぬるいだろう。はっきり言ってしまおう。異常だ。喉から零れ落ちる声はまるで自分のものではないみたいだった。
「俺が間に合わない万が一ということもある。言ったよな、俺にとってのお前は、眸だけしか価値がないんだって」
「く、眩」
怯えたまま逃げ出すことの出来ないアリスの頬に手が添えられる。
感覚が遮断されているように何も感じないが、それは確かに見慣れた俺自身の手だった。
アリスの眸の縁ぎりぎりを指がなぞっていく。
まずい、まずい。
背筋に悪寒が走る。早く繕いの言葉を言わないと、また何かを違えてしまう気がした。
残っているありったけの理性を総動員して、本能のままにアリスを脅かしていた自分の手を剥がす。
「っ、ごめん、アリス」
まだアリスは怯えた様子のままだ。
こういう表情を眼にすると、アリスだって一人のか弱い少女に違いはないんだよな、と改めて思う。
その子を怖がらせている悪い奴なのが自分なのが情けないんだけど。
俺は無理矢理頬の筋肉を持ち上げた。
「いやさ、ほら、お前の近くにいないと守りきれる自信がないんだよな俺。どちらかと言えば男としては力とかない方だし。今回来るのは榎本先輩だろうって検討はついていても、一応、な?」
言い訳がましいのはわかっている。幾ら言い繕ったって怯えさせた事実が消えないことはわかっている。
しかし、たどたどしいながらもそれを続けると、アリスの表情が段々元に戻ってきたのを見取って、ようやく安堵の溜息を吐いた。
そうなのだ、俺は別にアリスを傷つけたいわけではないのだ。
アリスの眸はアリスの元にあってこそ、俺の理想の形をしているのだから。
それは俺がアリスと交わした約束に矛盾を生み出す思いということはわかっている。
でも、それでも、生きている彼女の眸が何物にも変えがたい美しさというのは事実なのだから。
ようやく完全に表情を元に戻したアリスは、しばし悩むように眉根を寄せていたが、決心がついたのか口を開いた。
「わかった。眩もアリスと一緒に隠れていろ。ただし執務机の裏だ、狭いぞ」
「何てことないね」
「――眩のくせに」
ふんっとアリスは苦笑をしながら鼻を鳴らした。
「結局、アリスの周りは異常者だらけなのか」
俺はその言葉は聞こえないフリをして誤魔化した。
窓の外には焼けるような夕焼けが浮かんでいる。




