17
橙色の夕焼けが窓から室内を照らし出している。
館内に満ち溢れていた不穏な空気は一掃、というまでにはいかないが、大勢いた委員たちが帰ったおかげでかなり薄まった状態で辺りに漂っていた。
ここに未だ残っているのは、アリス、羽鳥先輩、榎本先輩、そして俺の四人だけである。
弓町高校は高校としては珍しく、三年生の生徒会就任期間が十一月までと長いのだが、それでも二人は受験生のはずである。こんなところで油を売っていてもいいのだろうか、と少し気にかかった。
でもまあ、俺如きが心配するようなことでもないか。榎本先輩の実際の成績がどれくらいのものなのかは知らないが、二人とも生徒会役員を務めるぐらいなのだ。俺なんかよりも遥かに優秀だろうことだけはわかる。
ふと時計を見上げてみると、臨時召集が終わってからそろそろ三十分が経とうかという頃合だった。
重く図書館内を覆っている沈黙に、俺は眉を顰める。
先程からアリスはずっと何かを考え込んでいる風で、何一つ言葉を発していないのだ。
こうして一緒の場所にいて、彼女が推理をしている真っ最中の姿を見るなんてことはほぼ初めてなので、どうにも勝手がわからない。すると無難なのは俺自身も黙っていることだろう。そういうわけで俺も静かに口を閉ざしていることしか出来なかった。
時間だけが悪戯に過ぎ去っていく。手持ち無沙汰に書類の整理を始めた榎本先輩の紙を捲り、シャーペンがかつかつと当たる音だけが聞こえている。
生徒会長という仕事は忙しいだろうに、羽鳥先輩はのんびりと椅子に腰掛けて遠くを眺めているだけだ。
俺にとっては永遠並みに長く感じた時間も、実際は十五分かそこらだったのだろう。
とっぷりと日が暮れ、榎本先輩が点けてくれた蛍光灯の灯りが館内の前方だけを照らし出す中、ようやくアリスが動きを見せた。
「おい、深紅」
当たり前だが自分から実際に歩み寄って動くということはしない。
つんっと小さな顎を尖らせて、傲慢にも座ったまま羽鳥先輩を呼びつけただけだった。
「何かしら、アリスちゃん?」
しかしそこは性格がよく出来た生徒会長様である。
羽鳥先輩は何一つ嫌そうな顔を見せずに、おっとりと微笑んだままアリスの傍に寄ってきた。
文句を言わないのは、大人であるしるしなのかもしれない。
怒らないのは、余裕があるしるしなのかもしれない。
しかし、俺は見慣れ始めたはずの、その迷いのない動作に一瞬悪寒を覚えた。
――何かがおかしい。そんな気がしたのである。
ゆっくりとプリーツスカートの裾を押さえながら、榎本先輩は優雅に身を屈める。
さらりと流れた彼女の癖の強い茶髪が、アリスの黒髪と入り混じって二色の色の河を作り出す。
アリスはほんの僅かにだけ身を伸ばすようにして、彼女の耳元へ何かを囁いているようだった。
「ええ、はい、わかりましたわ、アリスちゃん」
こくり、こくり、と相槌の度に茶髪が揺れる。
「ええ、喜んでですわ、私の可愛いアリスちゃん」
「頼んだぞ、深紅」
隻眼の眸はあくまでも冷ややかなままの色を宿している。
いつも通り、凝り固まった澱を積もらせた、なのに澄んだ黒。
何だか自分の立ち入ることの許されないアリス、というものを見てしまった気がして、どくりと心臓が大きく脈打った。
それに自分で気付き、ハッとする。別に俺は、アリス自身がどうなろうと、どうであろうと、眸さえあのままなら何だって良いと今でも思い続けているはずなのに。一体どうしたというのだろうか。
俺の戸惑いを他所に、羽鳥先輩は悠然とした態度で扉の方に歩いて行った。
「それではまた、明日ですわ」
ごきげんよう皆様という言葉を残して、その背が薄闇の中へ去っていく。
書類整理をしていた榎本先輩はその声に顔を上げると、壁に掛かっている時計を確認した。
「もう、こんな時間」
とんとん、とその手が手際よく書類の束を揃え始める。
確かにもうそろそろ帰った方が良いかも知れない。
図書館の閉館時間はもうとっくに過ぎているはずだし、アリスの用事も大方終わったようだ。
その証拠に、ふと見やればアリスも席を立って、小さな身体で精一杯伸びをしているところだった。
「んーっ」
視線に気がついたのか、ちらりとこちらに一瞥をくれる。
「帰るぞ、眩」
言うまでもなく確認ではない。ただの命令である。
俺の意志など確認する価値もないとでも言いたいのか。わかりきっているアリスの態度ではあるが、やはり若干心が傷付く。残念ながらそこまで強靭な心は持ち合わせていないのだ。
言うことは言った、とばかりに少し俺が思案に耽っている間に、アリスはさっさと扉の方へ向かって歩き始めてしまっていた。
「おい、ちょっと待てよ」
慌てて近くに固めて置いておいた自分とアリスの分の荷物を持って、小さな背を追う。
俺がもし万が一、アリスの荷物を持ってこなかったらなどということは考えないのだろうか。
信頼されているのか、それとも本当にただ荷物持ちとしてしか見られていないのか、わからなくてどうするべきなのか対応に困る。
どたばたと扉へ向かうと、驚いたような眼差しを送っていた榎本先輩と目が合ってしまったので、一応軽く会釈をしておいた。
「お疲れ様です」
「あ、はい、お疲れ様でした」
深々と不必要なほど深く頭を下げる三つ編みの丸眼鏡少女。これではどちらが年下なのかわからない。
扉を押し開く。
先に扉を開けて出て行ってしまったアリスに追いつくのはそう難しいことではなかった。
彼女はその見た目通り、いかにもか弱いし、歩幅も狭い。
エントランスを経た扉の方に着く頃にはもう、俺は追いつくことが出来た。
黒髪が僅かに揺れている。扉を後ろから押してやると、当たり前だというようにアリスは出来た隙間を抜けていった。すっかり暗くなってしまった外に出ると、思った以上に空気は冷たくひやりとしている。
思わず身震いをした。肌寒いを少し通り越すような寒さだ。アリスは寒くないのだろうか。
ふっと視線を辺りに彷徨わせると、古風な洋館である図書館はもとより、日常を過ごしている校舎も闇の中で見ると別の何かに見えて、不思議だった。
「これだから外は嫌いなのだ」
小さな呟きが少し前の方から聞こえた。
さりげなく視線をそちらに移すと、先を進んでいたアリスがこちらを振り返っていた。
どちらかと言えば病的とも称せる青白さの肌がぼおっと浮かび上がるようで、幽霊少女といった風情だ。
「違うな、闇が嫌いなのだ」
右眼は何処を見ているのだろうか。焦点は定まっていない。
瞳孔というよりは虚ろな孔のようだった。
何か早く言わなければ、そのままアリスの眸は真っ黒な孔に変わってしまいそうで。
得体の知れない焦燥に急かされるように、俺は口を開いた。
「アリス、訊きたいことがあるんだ」
「何だ、眩」
アリスの眸に焦点が戻る。
ふんっと鼻を鳴らされたことは不本意だったが、何はともあれ一応良かったと俺は安堵の溜息を吐いた。
問題はこの後である。話しかけてしまった手前、何か質問をしなくてはいけないだろう。訊きたいことがあると言ってしまったし。
ゆっくりと校門までの道を二人で歩き出しながら、俺は既に少し先を歩いているアリスの後頭部に問い掛けた。
「なあ、お前さ、羽鳥先輩に何を耳打ちしていたんだ?」
「君は質問ばかりだな」
呆れたような声音と共に、やれやれと肩まで竦められてしまった。
いや、俺、そんなにアリスに質問ばかりしていたか?
首を捻って記憶を漁ってみたが、思い当たるほとんどを我儘と嫌味が占めてしまっている。
確かに多少の質問はしているのは認めよう。でも、質問ばかりってわけでもないよな。
静かになった俺の沈黙を、アリスは自分に都合よく受け取ってくれたのだろう。
僅かに機嫌良さげな調子で答え始めた。
「ちょっとした調査を頼んだのだ」
「え、それなら別に耳打ちじゃなくたっていいだろ」
新たな疑問に首を傾げると、アリスはあっさりと首を振った。
「いや、耳打ちじゃなきゃいけなかったのだ」
「は?」
「少しは自分で考えたまえ」
アリスの小さな歩幅に合わせて歩くのは、慣れないということもあってかやはり難しい。
抜かさないように気をつけながら、一定の距離を保って歩いている。
傍から見れば、俺たちはどんな関係の二人に見えるのだろうか。
俺が何も考える気がないのに薄々感づいたのか、校門が見えた辺りで、アリスは言葉を紡ぐのを再開した。
「あの場には繭乃がいただろう」
「だから、何なんだよ?」
「やれやれ、いつまでも治らないポンコツ頭だな」
ふんっとアリスが鼻を鳴らす。
心底馬鹿にし切ったようなその色合いに、さしもの俺も少しいらっときた。
人間的生活を営む点ではお前よりは賢いだろうよ。口に出したら倍返しどころではないことを言われ傷付くのが自分だということは目に見えていたので、結局何も言わなかったが。
アリスが人差し指を宙に突き立てる。
「いいか、アリスは灯弥の無実の証明、即ち本をパンチで穴あけした灯弥以外の真犯人を探さなければいけないのだ。今日の臨時委員会からしてそれが可能だったのは本当にあの四人の中の誰かしかいないということは間違いないだろう。なら、だ。その中に含まれている繭乃だって立派な容疑者の一人には変わりがないだろう?」
「榎本先輩が、容疑者?」
思わず首を捻ってしまう。
アリスが探偵の基本として、全てを疑って掛からないといけないのはわかっている。
しかしそれでも、俺個人としては榎本先輩が犯人であるというのは考えられないことだった。
犯人があんな眼をして本を慈しむだろうか。
本に穴あけした手で、優しくその背表紙を撫でられるものなのだろうか。
俺の浅はかな考えなど見透かしたかのように、アリスはふんっと鼻を鳴らした。
「繭乃が無類の本好きであるということは、犯人ではない証拠にはなりえないぞ」
「そりゃ、その通りだけどさ」
一拍置いた後、アリスは僅かに語気を和らげて諭してきた。
「仮定の話にはなるが、繭乃自身が誰かに脅されてやっていた、という話だって考えられるだろう?」
まるで犯人は彼女だとでも言いたげな台詞である。
俺が顔を曇らせたのは闇に紛れて、そして後ろを向いているせいで見えていなかったはずだが、察しの良いアリスには手に取るようにわかったのだろう。
先程よりは優しげなふっと鼻を鳴らす音が聞こえた。
「眩は甘すぎるのだ。それに、まだアリスにも真実はわかっていないさ。犯人が繭乃だと言っているつもりもない。それはあくまで可能性の一つの話に過ぎない。だからこそ、断定の材料のために深紅に調査を頼んだのだよ」
やはりとは思ったが、耳打ちの内容は重要な調査の依頼だったらしい。アリスが先を続ける。
「四人の過去にいじめ関連の話がないか、と」
ぶろろろ、と隣の道路をトラックや車が通っていく音が妙に小さく聞こえた。
あるいはアリスのその囁き声が妙に大きく聞こえたと言った方が良いのだろうか。
「なんで、いじめ関連の話なんだ?」
やっとのことで搾り出した声は、何故だか掠れてしまっていた。
車が通り過ぎていく。街灯が暗いアスファルトを照らし出している。
デコボコした表面に見える影は、小さいくせに底知れない黒を宿している。
ふんっと鼻を鳴らすこともなく、アリスはゆっくりとした口調で説明を始めた。
「この前の泊まりの時に、パンチの穴あけの数が多い本を探したのを覚えているだろう」
「ああ」
脳裏にたった数日前のこととなる出来事が過ぎる。執拗なほど丁寧にパンチで穴を開けられた本。五十冊近くある中で、六冊だけ一箇所の頁が他より多く穴を穿かれていた本。
街灯の灯りに照らされたアリスの闇色をした髪の毛が艶めく。
「被害本全ての共通点はアリスには見つけることが出来なかった。なら、その六冊だけに絞って考えてみれば、残りの本は全てその共通点を隠すための犯人のカモフラージュ、ミスリードだとすれば、アリスに共通点は見出せるのか?」
ふんっと笑いを堪えるように、アリスは鼻を鳴らした。
「答えはイエス、だ」
彼女の話の腰を折るとわかっていても、俺はそこに水を差さずにはいられない。
「それ自体は、ミスリードである可能性は?」
「なきにしもあらず、だな」
隣の道路を車が次々に流れていく。時間帯が時間帯のせいか、交通量は多いようだった。
「もしそれすらミスリードなのだとしたら、アリスに出来ることはもうない。お手上げだ。推理材料としては甚だ心細い糸だが……だが、きっとこれはミスリードではないだろう」
少し皮肉っぽく歪んだ口調。
俺はアリスと自分の鞄を持ち直しながら、やけに自信満々な様子の彼女に問い掛けた。
「どうして、そう言えるんだ?」
「眩は知らずとも良い話だ」
俺は知らずとも良い話。冷え冷えとした声が突き刺さる。
いつもの傲慢さとはまた違った、拒絶の意志を汲んだ声。どこか苦しそうな声。
どくん、と心臓が脈打つ。何故だかいつものように怒りが湧いてくるということはなかった。
俺はただ、怒りの代わりに湧き上がってくる苦々しげな思いを押し殺して、小さな背中に話を促した。
「それで、共通点はどうだったんだ?」
「眩、君も一応全部見ていたはずだろうが。その眼は節穴か。脳味噌は腐っているのか」
即座に返された皮肉には流石にかちん、ときた。
俺が優しく気を使って話を逸らしてやったというのに、何だよそれは。
憤慨する俺のことはどうでもいいと言わんばかりにアリスはやれやれと首を振った。
黒髪がふわりと揺れる。
「パンチの穴あけが多かった場所、そこは全部いじめ関連の記述があったところだ」
「いや、それだけなら偶然かもしれないだろ。安直だな」
「いちいち煩いな、眩のくせに」
かっこよく決めたつもりの雰囲気をぶち壊しにされたのが面白くなかったのか、アリスはふんっと鼻を鳴らした。
「アリスがそのことに気付かないはずないだろう。そこだけをもう少し調べたさ。そしたら、パンチのし損ないだろうな、青いボールペンのインクらしいものが少し残っているのが多いことに気がついたのだよ」
何だ根拠があるのか。
納得をした俺は、しかし気恥ずかしさから謝ることはしなかった。絶対に。
少しの間を置いて、アリスは物憂げに続けた。
「アリスはこういった類似事件を幾つか知っている。そこから考えてみると、今回も犯人は、何かばれたくない秘密を隠し通すために犯行に及ばざるおえなかったと考えた方がいいだろう」
くるり、と唐突にアリスはこちらを振り返った。
完璧に整った、硝子玉で作られたような眸が、じっと俺を映しこむ。
思わず生唾をゴクリと飲み下したが、アリスは気にする素振りもなく俺を見上げ続けていた。
「眩」
「何だ」
凝り固まった澱は微動だにしない。
「君は、君だけは違うのだ」
「何がだよ?」
縋りついてくるような聞きなれない声に、つい挙動不審になってしまう。
アリスはそんな俺の状態にはお構いなしに、長い睫毛をそっと伏せると囁いた。
「君だけはアリスのものなのだから。アリスの眸があるかぎり」
「――そうだな」
なんて薄情なやつなんだ、と自分でも思った。
自分を頼りにして縋ってくる少女を前に、男として取るべき行動から逸脱しているのもわかっている。
けれど項垂れるアリスを前に俺に出来たのは、感情の薄い顔で頷くことだけだった。
「アリスの眸をくれるのなら、それが手に入るまで、俺はアリスのものだ」
「そうだよな」
「そういう約束だからな」
誤魔化すことをしないのだけが、精一杯の誠意だった。
愛しいアリスの眸を俺の手に。
俺がアリスに付き従う理由はそれしか存在していない、それは真実なのだから。




