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地蔵通りの物の怪、歓喜と憎悪と這いよるおばけ

 胡桃が僅かな望みを持って、もう一度訪れた生徒用玄関の、胡桃の靴箱の前、ソコには彼女がいた。あの日胡桃が声を掛け、そして虐めから解放された彼女が。

 彼女は胡桃に気付いていないようだった。いったい何をしているのだろうか。胡桃はそう思った。

 話しかけるべきか、否か。胡桃は迷った。

あの場所にいるという事は私に何かしらの用事があるのかもしれない。それに他の生徒は全て下校している筈、今なら彼女と会話しても彼女に何らかの影響が出る事は無いはず。胡桃はそう思い、彼女に声をかけようとした。

「あ、あの!」

「……えっ!」

 彼女は胡桃の存在に気付くと、踵を返し走り去ってしまった。胡桃を見つけた時の彼女の顔は、まるで幽霊でも見たかのように脅えきっていたのが胡桃の脳裏に焼きつく。

(私を……待っていたわけじゃないのね。なら、何故)

 胡桃は自分の靴箱まで歩いた。そこは彼女がいた場所。自分に用事が無いのならば、何故彼女はココにいたのだろうか。

 答えはすぐにわかった。

 胡桃の靴箱には、胡桃の大切にしていたスニーカーが入っていた。

 嗚呼、そうだ。きっと彼女は私の為にコレを届けてくれたんだ。他の生徒がいなくなるまで待って、私に届けてくれたのだ。胡桃の目から涙が一筋流れた。

(私はまだ戦える。苛めは辛いけど、私はまだ頑張れる。この優しさだけを持って、胸を張って歩いていこう)

 手を伸ばす、彼女の優しさに目を潤ませながら。胡桃は彼女が探してくれたスニーカーに手を伸ばした。

「きゃっ……!」

 スニーカーを触った瞬間、奇妙な感触に思わず手を引いてしまう。小さな虫がスニーカーの中から出てきて、胡桃の手に当たったのだ。

 きっと草むらか、そういった場所に靴は隠されていたのだろう。だから虫が入ったんだ。胡桃はそう思った。咄嗟の出来事から心臓がドキドキする。意外と臆病な自分が、少し笑えた。

(今日は帰ったら直ぐにお風呂に入ろう。ゆっくりと、温いお湯に浸かって、明日からの私はもっと強い私になる。苛めには負けない。私にだって味方はいるんだもの)

 気を取り直して、スニーカーを取り出す。そして、何気なく中を覗きこんだ。

 スニーカーの中にはぎっちりと詰まった虫が蠢いていた。

「ひいぃぃぃぃぃぃ!」

 裏返った甲高い声を上げながら、胡桃はスニーカーを足元に落とす。横になったスニーカーから何十もの虫達が這いずり出す。

「い、嫌、嫌、嫌、ひあ、あ、あ、あああががが」

 まともに声にならない、自分のモノとは思えないような声が出た。虫が胡桃の足元に群がり、胡桃は恐怖のあまり後ずさる。しかし、それがいけなかった。胡桃が段差に躓いてバランスを崩す、体制を無理に正そうとして前のめりに倒れてしまった。手で、足で、顔で、体全体で虫を踏み潰し、すり潰す。臭気が立ち上る。まだ生きている虫が逃れようと必死で蠢き、地面と顔の隙間に入った虫達が胡桃の口内に侵入しようとした。

 脳味噌の収縮、心臓の停止、血液の凍結、世界がゆっくりと凝固していく。一瞬が永遠に思える。無間地獄に堕ちていく、黒眼が腐って水晶体が溶けていき、瞬間胡桃は液体化する自身を空中から捉えていた。

 そして理解する。

 嗚呼、彼女はこの為に存在していたのだ。

 嗚呼、彼女は味方では無かったのだ。

 嗚呼、嗚呼、ああ

 人は一人だ。全ての人間は個でしかありえない。個を守る為ならば例えどんな事をしても許される、それが人間なのかもしれない。集団なんてものは所詮、個が個を守る為の隠れ蓑でしかありえない。友人、教師、家族、全てが他人。全てが個であり、全てが自身の保身のためだけに生きている。

引き裂かれた。

引き裂かれた。

幸せが、私の幸せが、家族が。父が、母が、千切れて、千切れて。なぜ私が、なぜ私が。他人でもいいじゃないか、世界にはこんなにも多くの人間がいるというのに、なぜ私だけがこんなにも不幸せでいなければならないのか。

知りたくなかったセカイの真実。知らなければ、無知でいられた。無知であればいつまでも笑っていられた。真実を知った今、家族ですらも憎悪の対象でしかない。

みんな死ねばいい。

みんな腐ってしまえばいい。

みんな滅んでしまえばいい。

首を切り落として、腹を切り裂いて、臓物を四散させてしまえばいい。

それを鴉が啄む。誰も彼もが己の愚かさと醜さを悔いながら地獄に落ちていく。それは何と甘美な妄想。世界はいつまでも私を中心に回り続ける。

 黒い妄想と赤い絶望、そして斑の虫が体中を這いずるような嫌悪感。

 胡桃の世界は閉じていく、閉じていく、閉じていく。


 ――コツコツコツ、


 という足音が遠くから聞こえ、胡桃は覚醒した。

 勢いよく立ちあがり、当たりを見回す。空は赤く染まっていて、時間はあまりたっていないようだった。

 足音が近づいてくる、おそらく教師だろう。胡桃は自分の情けない姿を他人に見られたくは無かった。体に張りついた虫を無表情で振り払う、スニーカーに残った虫を追い出して、ソレを掴んで胡桃は走った。

 妙に冷静で、血液は冷たくて、昨日までの自分と今日の自分が同じ人間だとはとても思えなかった。

 地蔵通り、胡桃は自宅に帰る前にソコに寄っていた。

普段から誰も通らない場所、物悲しい、なんだかさみしい場所。ココは今の自分に似合っていると思う。

右手の指を小さく窄め、口の中へ招き入れる。奥へ、もっと奥へ……。体に痺れと寒気が走り、吐き気を催す。しかし、まだ足りない。

「ふひゅぅぅっ、ふひゅぅぅぅっ」

 喉の奥から、声とも空気ともとれない音が出る。

 意を決め、腕を喉のさらに奥へ、思いっきり付き入れた。

「うごおぉぉぉぉぉぉぉぉ……」

 胃から、喉、口内へと嘔吐物が上り、信じられない量の嘔吐物を吐き出した。

 全部、全部捨てて、新しい自分になりたいと願う。強い願い。悲しみは怒りに変わり、まるで炎のように体を覆い尽くす。熱い、熱い。

吐奢物の中に蠢く虫を見た。コレは自分だ、今までの愚かな自分だ。

枯れたと思った涙が、またとめどなくあふれる。

「ひぃっ、ひぃっ……」

 許せない、許せない、許せない。

 なぜ私が世界で一番不幸でなければならないのか。私が不幸ならば、世界も不幸でなければならない。


次の日、胡桃はいつも通り登校した。クラスメイトの女子達が胡桃を見てクスクスと笑っている。殺してやりたかった。引き千切ってやりたかった。

体調不良を理由に胡桃はその日早退し、クラスメイト全ての靴を盗んだ。

そして地蔵通りに靴を捨てた。

 次の日、胡桃が登校すると机に油性ペンで罵詈雑言の類が書かれていた。その日の放課後、胡桃は人目を忍んで同級生全ての机に黒いペンキをぶちまけた。

 そんな事が続いた。

 やられれば、やり返す。対象は全ての人間。自分が不幸なのならば、世界中の人間が不幸でならなければならない。

そして突然、胡桃は安息の日々を得た。昔友達だった者も、敵も、部外者も、全てが胡桃を無視した。そこにいないモノとして扱った。

胡桃に手を出す事は、全て自分に……そして関係の無い者にまで帰ってくる。自然に胡桃は学校の禁忌になった。

 あの日、胡桃がこの場所で過去の自分を全て捨てた。それがこの地蔵通りである。

 自身が他との決別を誓った場所にナニカが出る。そのナニカとはあの日の自分の残像のようなモノなのではないかと、胡桃は思っていた。

(孝弘の言う通り、幽霊が反射でしかないのならば、コレは――、コレはアタシの反射だ……!!)


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