風雲急を告ぐ
「何だか面白いことになってるみたいだね」
休憩室でココアを飲んでいると、司がフラリとやってきて
甘くて良い匂いがするなぁ、と言って
同じくココアを手にすると、千速の横に腰掛けた。
「昨日、変な女が千速ちゃんのトコ来たんだって?」
「あれ。実里じゃないけど早耳だね」
司は困ったような顔をして千速を眺めた。
「あのね。
久世課長の婚約者が、久世課長と社内恋愛中の千速ちゃんのところに
殴りこみに来たってことになってるんだよ」
「……はあ――っ?」
千速は手にしたココアを取り落としそうになった。
危ない危ない。
「一階のフロアだったでしょ?
パーティションじゃ、防音ってわけにいかないからね。
婚約がどうこうって声に、効果的にエコーがかかったらしいよ」
そりゃもう、朝からすごい噂だよ、と司が肩を竦める。
千速は天を仰いだ。
なるほど、それで久世課長は、真っ黒な空気を背負っていたわけだ。
はた、と千速は首を傾げる。
「……ちょっと待って。
その前に基本的な質問があるんだけど」
司に向き直って、身を乗り出した。
「何で、私と久世課長が社内恋愛中?」
危うく流しそうになっちゃったわよ。
「身に覚えがないのかな。
営業の山下さんが、それはもう嬉しそうに
『薄墨の君が、ご領主様のお手つきとは知らなかったぜー』
って吹聴していたんだよ、だいぶ前にね」
千速は額に手を当て、アレか!と呻いた。
久世課長の言ったように、確かに単純で直線的な思考回路の持ち主だったのだ。
「あの人、脳味噌も筋肉で出来ているのね。
っていうか、否定してよ、声を大にして」
くすくす笑いながら、司は、いいじゃない、と言ってのけた。
「図らずも、瑞穂の願う格好の噂ってわけだね。
目の届かないところにいる千速ちゃんをガードするための、さ。
攻撃は最大の防御って言うじゃない。
久世課長の恋人を狙おうなんて猛者は、そうそういないよねー」
突然、黒い空気が流れ込んできて、司が慌てて口をつぐんだ。
「おお。これはこれは。俺の恋人ともあろう者が、こんな所で他の男と密会中か?」
「……課長、怒ってます?」
「い――や。怒ってなんかおらんぞ。俺は、通常営業中だ」
「……嘘だ」
と呟く千速に、ギロリと視線を飛ばし、
コーヒーのボタンを勢いよく押すと、千速と司に向き直った。
「ある筋から守役を仰せつかっているからな。
この程度の私生活の犠牲は、暫くは致し方がないと諦めた。
それに」
と口の端を上げてニヤリと笑みを浮かべ、
「恋人でもある優秀な我が部下は、
今期の予算を一割り増しくらいで達成してくれそうだ」
だ・よ・な、と目で念押しした。
「鬼だ……」
「俺の名義貸しは、それ位高いんだ」
「私のせいじゃないですよぅ」
隣に座った司が、千速の肩をポンと叩き、
「千速ちゃんも、苦労するねぇ……」
と苦笑すると、
コーヒーを取り出し、どっかと座り込んだ久世が
「お前もだ、常盤。
上手い具合に面倒な役を逃れたお前も、同罪だ」
と凄んだ。
「そんな、言いがかりですよ……」
「い――や。
実績の上がるような営業企画を 是非是非、我が課に提案してくれたまえ。
楽しみにしているぞ」
はっはっはっ!
と肩を怒らせて笑う久世を残して、千速と司は、休憩室から退散した。
「とばっちりだ……」
「私のせいっていうより、瑞穂のせいじゃないのよね?」
「あそこ、当分誰も近寄れないね。邪悪なオーラが漂っている……」
* * *
「どうやら、面倒に巻き込んでくれたみたいだな」
竜海が、眼鏡のブリッジを指先で押さえながら、ため息をついた。
桜井コーポレーションまで、白瀬常務の娘が乗り込んで行った、という報告を
時田から受けたのだった。
事情があって、白瀬周辺の事情を探っていることもあり、
あえて、その思い込み、目論見を否定することをしていない。
そこで、図に乗って娘がしゃしゃり出たのだろう、ということだった。
「お前が『加藤』の家のものだと知っていれば、
下手な手出しはしないだろう。
だが、今回はそういった背景をあえて晒していない。
だから尚更、手加減なしで来る可能性があって怖いんだ。
暫くは、帰りは迎えに行く。気をつけろよ」
竜海は千速にそう宣言すると、
会社近くまで、自ら迎えに来ることを正当化し、
千速はそれを呑むしかなかった。
「……何だか、視線が痛いんだけど」
そしてまた、とある月曜の社員食堂にて。
「うん。実はある噂が……」
「またなのっ!」
パチッと箸を置いて、千速は実里を睨んだ。
「私が流してるわけじゃないもーん。
秘書課まで漂ってくるだけだもーん」
そう言って、卵焼きをひと口放り込むと、
チラリと千速を見上げ、
「聞きたい?」
と尋ねた。
「聞きたくない。だけど、聞いておかないと後で大変なことになるのを知っている」
眉間にしわを寄せて、千速が唸った。
ふっふっふ、と実里が笑って、
「あたし、千速のそういうトコ好き。
さーよく耳の穴をかっぽじって聞きたまえ。
君にまさかの二股疑惑が持ち上がっておるのだよ」
と、身を乗り出した。
「……見えた?今、私の口から魂が抜けていったでしょ」
「見えた見えた。さあ、戻っといで、千速ちゃん!」
千速は、置いた箸を再び手にして、
力なく、ほうれん草のおひたしをつつきながら尋ねた。
「で?二股って誰と誰の?
いい。わかってる。ひとりは久世課長なわけね。
で、もうひとりは、どこのどいつってか?」
「じゃじゃーん!それはだね」
ピ!と指を立てて実里が唱えた。
「美しき、銀の君」
「……竜兄」
「見られちゃったみたいよ」
会社周辺にシルバーの外車を停車し、千速を待つ男。
背が高く、眼鏡の似合うクールな容貌は、さぞかし目立っていることだろう……
がっくりと千速は脱力した。
「何で連日お迎え?」
「例の蝶々飛来以来、用心しておけってお達しが……」
「そうかー。そういえば、桜井常務も、ちょっと気にしてた」
以前からちょくちょく迎えには来ていたが、
それが毎日になり、目撃される危険も上がってはいたけれど。
「兄です、って宣言するか……」
「この際、エントランス正面に乗り付けてもらっちゃえば?
久世課長との噂なんてぶっ飛ぶんじゃない?」
「いずれにしても、面倒臭い……」
暫し沈黙した千速であったが、突然
「ええい、黙殺っ!」
と宣言すると、ランチに取り掛かり始めた。
「……あんた、黙殺って……」
実里が、ぷぷぷっと吹き出しながら、面白すぎる、と呟いた。
* * *
蝶々の来襲以降、千速周辺はそれなりの用心を重ねていたが、
表立って、これといったことは起きず、そろそろ約束の一年が経とうとしている。
コンビニの駐車場で、疲れを全身に纏った瑞穂が夜空を眺めていた、あの時。
合鍵を返し、瑞穂の部屋からひとりで去った、あの朝。
吐く息が白く、冬のおとないはすぐそこだった。
通勤電車から吐き出され、会社へ向かう道を歩きながら、
また冬がやってくる、と千速は思う。
道行く人はコートの襟を立て、髪を揺らす風は冷たい――