再びの蝶々
「シラセ様?」
受付から、来客の連絡をもらった千速は眉を顰めた。
今日はこれからアポがあり、三十分ほどで外出する予定である。
「はい。女性の方なのですが、名前を伝えればわかるはずだと……」
……わかりませんが、誰?
ダブルブッキングしたか、と脳内スケジュールをチェックするも、
そういった名前は、記憶にない。
とはいっても、来社している以上受付で追い払うわけにも行かない。
一階のフロアには、いくつかの接客用ブースがある。
「接客ブースは空いているかしら?」
「はい」
「じゃあ、お通ししておいてくれる?すぐ下ります」
* * *
「お待たせしました」
パーティションで区切られた接客ブースに足を踏み入れた千速は、
目の前に座る女を目にして、ああそういえば、と思い出した。
立ち上がりもせず、背を椅子に預け足を組み、
下から千速を不遜に見上げているのは、
かつて千速を「なあんにも知らないのね」と嘲りに来た女だ。
「お久しぶり、加藤さん」
彼女は今日も、お嬢様仕様の上品なピンクのワンピースを身につけている。
綺麗にネイルアートされた指で、長い髪をサッと払い、高飛車に言った。
「座って」
この段階で、ビジネスではない、と千速にもわかっていた。
――瑞穂め。
側に居ないくせに、会えないくせに、こんな蝶々を送り込んでくるとは。
今度は、常務の娘ときたか。
――面倒な。
であるが。
今回の蝶々来襲の背後が、どうなっているのか知る必要がありそうだ。
にこり、と千速は微笑んで、椅子に座りながら尋ねた。
「今日は、お父様の……お遣いですか?」
お遣いという言葉に、眉を顰めて、
「失礼ね。私は、私の意志で来たのよ」
白瀬美月は声を荒らげた。
つまり、父親の意向でここに乗り込んだわけではない、と。
「そうですか。では、どういった立場でいらしたのでしょう?
名刺を頂いても?」
美月はグッとつまって
「私は、働く必要がないのよ。花嫁修業中なんだから」
と千速を睨んだ。
「なるほど。
しかし、私は就業時間中です。
ビジネスでもない私用で呼び出されるのは、
しかも、アポイントもなしに押しかけられるのは、はっきり申し上げて迷惑です。
お仕事をしていようが、いなかろうが、社会人としての常識です」
そう言って、千速はちらりと腕時計を見た。
「アポイントがありますので、出掛けなければなりません。ご用件は?」
千速を睨みつけたまま、低い声で美月が言った。
「瑞穂さんの回りをウロチョロしないで」
「は?」
「彼は、私と婚約間近なのよ。邪魔しないで」
そういえば、白瀬常務もそんな事を言っていたか……
「森さんとは、彼が退職して以来お目にかかっておりませんが」
そう、嘘はついていない。
「瑞穂さんは、お父様が倒れられてから、社内を纏めるのに大変なのよ。
社内の結束を固めるためにも、私と結婚して、
父の派閥の協力を取り付けた方がいいの」
美月は、つんと顎を上げて言った。
父親から、そう聞かされているのだろう。
社内の実情を調べるなどと考えもせず、思い込みと勢いで飛び込んできた。
「つまりあなたのお父様は、森さんがあなたと結婚しなければ協力しないと?」
「そんなことはっ」
千速は眉を上げた。
そうとられても、仕方のない言い方だったけれど。
「森さんが、あちらに戻られて一年近く経ちますし、
社長も復帰されたと伺っています。
それなのに、社内に問題が?」
「あなたにはわからないかもしれないけれど、
社長の息子というだけでは、納得しない人たちもいるということよ」
例えば、あなたの父親とか、かしら。
まさか、あの瑞穂をその若さゆえ御し易し、と見くびっているとか?
それならば、愚かと言うほかない。
「そちらの社内のことはよくわかりませんが」
千速は、肩をすくめた。
「この程度の事態さえ森さんがひとりでは乗り切れない、と思っているわけですか?」
千速の言葉に、美月が怯んだ。
地味な外見と侮って、強く出れば引き下がると踏んでいたのに、思いの外手強い。
「実績が充分でない、と?」
手元の時計を再び目にして、千速は立ち上がった。
「森さんは、既にもうご自身の体制を敷かれているのではないかと思っておりました。
協力、と言いながらもその足を引っ張ろうとしているとか……」
美月は顔色を変えて、ガタッと席を立った。
「何を言うのっ」
「既に退職した会社の同僚である私のところに、
何のためにいらしたのか、よくわかりませんが」
千速は冷たい目で、美月を見据えた。
「彼がそんな愚策を丸呑みするほど、切羽詰った状態だとは思えませんね。
あなたも、そう思いませんこと?」
そんな事をするくらいならば、
瑞穂ならば、惜しみもせずにその部分を切り捨ててしまうだろう。
何となれば、新しく作り出すことなど彼にとっては容易いことだ。
それだけの、実力も権力も、既に手にしているはずだから。
それに気付かないのは、己の既得権にしがみついている古い埃。
瑞穂にふり払われて飛ばされてしまうまで、
自分がそのような存在だとは気付かないのかも。
愚策と言われて、腹に据えかねたのか、
「身分違いなのよっ!彼とあなたとでは、住む世界が違うのっ!」
美月の本音が出た。
私こそが相応しいはずだ、という驕りが透けて見えた。
千速はフッと口元を緩めると、甘やかされた世間知らずの蝶々を
軽蔑をこめて眺めた。
「本当に。住む世界が……そうですね、全く違うようですね」
あなたと森さんとは、というニュアンスを言外にたっぷり含めて。
常務の娘である、ということ以外に、あなたには何があるの?
瑞穂のために、何が出来るというの?
「……時間です。どうぞ、お気をつけて」
出口に手を向けた。
千速の横を勢いよく通り抜けながら、
「覚えてなさいよっ」
顔を歪め、そう吐き捨てると、蝶々は去っていった。
「覚えてるかっつーの」
* * *
さて。
この蝶々の来襲を、どう扱うべきか……
千速はちょっと悩んでから、結局、秘書の時田に連絡することにした。
「はい、秘書課、時田です」
「お忙しいところ、申し訳ありません。桜井コーポレーションの加藤千速です。
ご無沙汰しております。実は、ご報告したいことがありまして」
「何でしょう?」
「今日、白瀬常務のお嬢さんが、桜井コーポレーションに、私を訪ねてやってきました」
「……それはまた」
呆れて絶句した気配が、電話の向こうから漂う。
「瑞穂さんに手を出すな、と迫られまして」
ふふっと千速は笑う。
「婚約間近だとは存じませんでした。
あ、これは、昨年私の兄が瑞穂さんにも言ってましたっけ」
「ガセだとわかってらっしゃるんでしょう?」
「……どうだか」
それから、千速は笑いを納た。
「嘘です。瑞穂さんは、そういうことになったら
直接、私を切りに来るタイプですもの。
本題は、白瀬常務の件です。
もう、手配されているのかもしれませんが、
白瀬常務の周りで、怪しい動きがないかどうか注意して下さい。
常務の娘さんが言うには、
社長の息子というだけでは納得しない勢力がある、ということでした」
時田は、フッと笑って答えた。
「承知してますよ。若に隙はありません。
ご心配おかけしました。
常務の娘がそちらに行ったということは、
暫く身辺に注意していただかないといけません。
あなたを『神世建設』と結び付けたとは思えませんが、
社交行事への参加は、当分控えていただいた方がよろしいでしょう。
お父様とお兄様へも、私から事情をお話させていただきます」
あと暫く大人しく身を潜めていて下さいよ、と時田が笑った。
「――あの」
「はい、何でしょう」
「瑞穂さんはお元気でしょうか。
メールは相変わらず業務連絡止まりで」
何というか、その文面を見るたびに、
逆に淋しくなるのは、何でだろう。
「ひとつ、面白いことを教えてさしあげます」
時田が笑いを含んだ声で言った。
「あのパールのピアスはお気に召したのですね?」
「?……はい」
「若は、そのピアスをつけたあなたの画像が、お気に召したようです」
「はっ?」
「ふふふ。こっそり保存しているんですよ。
内緒ですよ、私が教えたことは。バレてないと思ってるんで」
時々、眺めているのを、私は気付いているんですけどね。
こちらの――若の事情にお付き合いさせてしまい、申し訳ありません、
くれぐれも、身辺に気を付けられますように。
そう言って、時田の電話は切れた。
千速を赤面させたまま。
書籍と整合性をとるため、名称と内容を少し変えてあります。