不在の確認 あるいは 存在の実感
四月には、瑞穂の席に支店から転勤してきた男が座ることになった。
声も体も大きな体育会系の山下は、
瑞穂の営業スタイルとは全く異なったやり方で成績を伸ばし、
あっという間に本社営業部に馴染んでしまった。
冷たく研ぎ澄まされたような雰囲気は、もうその席には存在しない。
時々、無意識にその席を眺めていた千速に、
ある日、山下がツカツカと歩み寄ってきて尋ねた。
「俺のこと、見てるでしょ?」
「……は?」
「加藤さん、俺のことよく見てるし、目が合うでしょ」
何だ、その自信満々な物言いは。
誘われてやってもいいぜ、なオーラは。
千速は、山下を見上げて言った。
「席は見ているかもしれないけれど、目は合ってないですね」
「……」
「山下さんを見ているわけじゃないですから」
興味を失って、ツ、と視線を逸らし、やりかけの仕事に戻る。
「どういうこと?」
パソコンを覗き込みながら、千速は答える。
「……不在の確認、ですかね」
「ますます、わからない」
「つまり、山下さんをお誘いしているわけじゃないってことです。
誤解させてしまったなら、すみません」
「……はっきり言うなぁ」
わはは、と笑い、山下はどかっと須藤の席に腰を下ろした。
「俄然、興味が沸いてきた。
ずっと見られてるって思ってたから、気になってたけど、違うんだ」
「……その興味、微妙に迷惑です」
「おおーっ!すげぇ。切って捨てられた」
「どうでもいいですけど、仕事の邪魔です」
「俺に興味、全くナシですか」
「何で、山下さんに興味を持たなくちゃいけないんですか」
「ほら、俺、結構優しくて頼り甲斐のある、そこそこイケメンで売ってるでしょ」
「……それは、知りませんでした」
「……」
遠目にそのやりとりを眺めていた久世は、
はふーっ、と大きくため息をつき、
「でっかいムシが一匹出現だぜ。面倒な。
何でまた、あんな地味な格好をした女を構おうとするかね。
寄るな、触れるな、俺の仕事を増やすな、そこの筋肉」
そう愚痴りながら立ち上がり、千速のデスクにさり気なく近付いた。
「山下。ここの区画は禁猟区だ。
狩りは他でやってくれ」
山下はビックリした表情で久世を振り返る。
「うえっ?まさか?」
しかし、久世と千速を交互に見比べると、成程!と納得した表情になり、
ピッと立ち上がり敬礼した。
「了解しました!知らなかったこととはいえ、失礼しましたっ!」
そう言い残して山下は去っていった。
「……なんですか、あれ」
千速が、眉を顰めながら呟く。
「まぁ、何やら勝手に誤解をして、納得したらしいな。
ああいう体育会系は、思考回路が非常に単純で直線的だ」
脱力した久世はそう呟くと、くるり、と千速のほうに向き直り、指差した。
「言っておくが、俺はお前のムシ取りホイホイじゃないぞ。
自分にたかるムシは、ちゃんと払え」
「たかられてませんけど」
「今のが、たかられている以外の、何だって言うんだ」
「……何か、腐ったものになった気分です。
ショウジョウバエかなんかに、たかられているみたいな言われ方で」
千速は、口を少し尖らせて、不満気に言った。
……ヤツは、ショウジョウバエか?
暫くして、千速と久世が付き合っているらしい、という噂が流れ、
久世は苦々しく呟いた。
「俺は、ムシ取りホイホイどころか、完全にムシ除けじゃねぇか」
自分の中では、カテゴリー漢に属する部下は、
桜井によれば、どうやらあの御曹司、森瑞穂の想い人らしい。
いやはや、一体いつの間にそんなことに?
森は、どこぞの美女と噂になっていなかったか?
そんな久世の疑問には、誰も答えてくれない。
それなのに。
年末の忘年会以来、桜井経由で
姫の「守役」を仰せつかってしまった。
こんな天然の予測不能の女をどう守れってんだかよ、と久世はことりごちた。
* * *
「もうすぐ誕生日だろう?渡したいものがある。時田恵吾という者が行く」
念のため、と時田の顔写真が添付されたメールが届いたのは、
五月も半ばを過ぎた頃であった。
五月二十五日は千速の誕生日である。
『了解。十日ほどは、お姉さまとお呼び(笑)』
瑞穂の誕生日は六月五日なので、
その時に、瑞穂への品物も託そうと千速は考えた。
駅近くのこぢんまりした喫茶店を指定して、仕事が終わった後に向かう。
からりん、とドアベルを鳴らして、千速は店内に足を踏み入れた。
「加藤です。お待たせしました」
そう言って、こちらに向かって座る時田の前で、足を止める。
どうやら瑞穂から、何も聞かされていなかったらしい。
どんな人物を期待していたのか、想像に難くないが、
大いに予想を外していたのだろう、一瞬、時田の目が瞬き、
しかし、次の瞬間にそれは巧妙に隠された。
あの瑞穂が、必死に狩ろうとしている獲物がコレか?
という疑問が透けて見えた。
千速はそれを見逃さずに、おかしそうに口元を歪ませる。
そんなに驚いてもらえると、ちょっと嬉しいかも。
「どうぞ、お掛け下さい」
促されて、席に着き、それぞれコーヒーを注文した。
「瑞穂さんは、お元気なんでしょうか?
無理、されてませんか?」
今も、忙しいことはわかっている。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「元気ですよ。
でも、無理はしてます、チョコレートを食べてね。
私にも、時々飛んできますよ。
『酷い顔をしているな』ってね」
千速は、ふふっと小さく笑って尋ねた。
「抹茶チョコレートのお相伴はありましたか?」
千速の柔らかく微笑んだ顔をじっと見つめながら、
時田は、声を低くして静かに尋ねた。
「……一緒にこちらに来て、手伝おうとは思わなかったんですか。
あなたは、かなり優秀な方だと聞いている」
瑞穂があの頃、必死に持ちこたえようと踏ん張っていたのをわかっているだろう?
そう、その視線は責めているようにも見えた。
千速は、笑みを消し、時田の視線を真直ぐに受け止めた。
「私が、それを申し出なかったとでも?」
「若が断ったとして、それで簡単に引いたんですか」
「瑞穂が……瑞穂さんが、それを望んだので。
……実際の所は、私が側にいることで逆に
瑞穂さんの足元を掬われることもあるかもしれない、と
怖かったこともありますけど。
それに」
千速を見定めるように、強く見つめる時田から視線を外すことなく。
「瑞穂さんは、自分ひとりで乗り込んでいって、
状況を上手くコントロール出来ることを証明しなければならなかった。
――そう理解してます」
そう言って、千速は鮮やかに微笑んだ。
「そして、それは、証明されたのでしょう?」
時田は、暫く沈黙したまま千速を見つめると、
ふっと表情を緩め、頷いた。
「ほぼ、ですがね」
どうやら、千速についての吟味は終了したようだ。
「これを」
小さな箱を渡された。
「若から預かってきました。
これについては、宅配便を使うのは嫌だったそうです」
全く、忙しいのに何我儘言っているんだか、と
時田は苦笑いを浮かべる。
「ここで、開けてもらえますか?若のご希望なんで」
「……ここで?」
千速はゆっくりとリボンを解き、包み紙を解き、
中から出てきたビロードの小箱の蓋を開け――
「……名前の、担保じゃなかったのかしら。
聞かないで、済ませちゃうつもりなのかしら……」
そう呟いて、そこにあるものを暫く見つめ続けた。
それから、そっと箱の中から取り出したのは、懐かしい品物だった。
一粒のパールの下側を細かなダイヤが飾り、
そこから雫型のパールがひとつ、下がっている。
かつて――まだ十代だった千速と瑞穂が、初めて出会った時、
瑞穂が千速から取り上げたもの。
近いうちに、会えるつもりで。
絶対に会うつもりで、手に入れたもの。
イヤリングだったそれは、今の千速に合うように、ピアスにリメイクされていた。
『もうひとつは、まだ担保だ』とメッセージカードに記されていた。
納められていたのは、片方だけ。
千速は目を閉じた。
ああ、だめだ、泣いてしまいそう。
まだ取ってあったなんて――
「どうやって、若に約束させたんですか」
「……え?……約束?」
そこに時田がいることをすっかり忘れ、
完全に自分の世界に入りこんでしまっていたので、
千速はよく考えずに、上の空で思ったままを言ってしまった。
「約束させたんじゃないわ。
約束させられたのよ、一年だけ待ってくれって……」
ククク……と笑う声で、ハッと我に返り、
千速は少し赤くなって時田を見つめた。
「……あの」
「よく、理解しました。
取り合えず、一年大人しく待ってあげてください」
「……大人しくって……」
「言葉の通りです。そのために頑張っているみたいですから。
では、私はこれで」
そう言って、時田は席を立った。
「あのっ、これを」
慌てて千速は、用意したプレゼントを取り出した。
「これを、瑞穂さんに。
――それから」
時田を見つめる千速の瞳が揺れた。
「それから――……」
一度、目を伏せてから、再び、強い視線で時田を見つめる。
「一年しか待たない、って伝えてください」
そう言って微笑んだ。
「……承知しました」
時田は、そういって穏やかに微笑み、去っていった。