麗しき君
2016年バレンタイン企画。
千速の心優しき後輩、須藤君のお話。
「ロマンスがお待ちかね」の頃のお話になります。
その人は、いつも同じ時間の、同じ車両の、同じ場所に立っている。
電車の揺れに身を任せ、窓の外を眺めながら、
通勤ラッシュの人混みの中だというのに、
何かを夢見るかのような眼差しで――
* * *
総務部はいわゆる“何でも屋”だ。
電球の交換も、コピー用紙の補充も、
備品の管理から交通費の清算、勤怠の管理まで一手に引き受けている。
とはいえ、最近は社内システムで色々と手配できるようになっているので、
カウンターの前に人が溢れかえるようなことはない。
わざわざここに足を運んでくるのは、
システムを通すまでもない、ほんのちょっとした用事のある人か、
あるいは――
「だからさ、さっきから何度も言ってるでしょ?
たかが一人当たり数百円のオーバーじゃない。
うちの課の接待交際費の予算、今月キビシイんだよ。
どうにか会議費で落とせない?」
――こういった面倒な人による、面倒な案件。
「ですから」
坂口梓は、にっこりと笑って領収書を差し戻す。
今日はいつもカウンターの奥の席で、
こういった輩に目を光らせている相澤主任が、
インフルエンザでお休みだ。
とはいえ、梓ももう三年目。
この手のやり取りは、何も初めてという訳ではない。
「会議費で落とせるのは一人当たり五千円までと、
税法上で決まっていることなんです。
ここに」
領収書の但し書きを、指先でトンと指し示す。
「お弁当の単価と個数がはっきり書いてありますよね?」
ま、ホントにお弁当なのかどうか知らないけど。
梓は領収書に記載されている婀娜っぽい店の名前に目をやって、
それから、視線をカウンターの前に立つ男に向けた。
「……融通が利かないな」
チッという舌打ちと共に、男が吐き捨てるように口にする。
「俺たち営業が一生懸命稼いで、
君ら間接部門を養ってやってるんじゃないか。
この程度のこと君の一存でどうにか出来ないの?」
この程度と言っていることが、
どの程度のことなのか、わかってるのかな、この男は。
きっちり反論しようと梓が口を開きかけた時、
穏やかな声が割って入った。
「こういった間接部門が、
細々とした雑用を一手に引き受けてくれているから、
僕たちは営業活動に専念できるわけでしょ、林クン」
「――げ。須藤さん」
いつからこのやり取りを聞いていたのか、
林をやんわりと諫めたのは営業一課の須藤であった。
営業の面々は、こういた費用の扱いで総務と馴染みが深い。
そしてまた、お互いのやり取りがスムーズにいくよう、
時々懇親会という名の飲み会があるので、
それなりに顔が通じていたりする。
須藤は、俺が俺がという者が多い営業部員の中にあって、
少し毛色が異なる印象だ。
真面目でルールに忠実。
決して派手に目立つわけではないのに、
最後にはきっちりそれなりの成果を上げている、というような。
カウンターの上に置かれた領収書を取り上げた彼は、
さっと目を通すとため息を吐く。
「それに、何の権限も持たない社員の一存でそんな融通がついたら、
企業会計上、そっちの方が大問題だと思わない?」
「……はい」
「接待交際費か会議費かなんて、一番厳しく監査されるところだし。
監査に引っかかったら結局原因が追究されて、
課全体か悪くしたら部全体で、
費用の請求にもっと面倒な手続きが必要になるよ」
「すみません」
「……それは、そこの坂口さんに言うべきかな」
バツが悪そうに、林が頭を下げた。
「すみません。無理言いました」
「……いいえ。こちらこそ、お役に立てなくて」
梓も慌てて頭を下げる。
須藤が指摘したことは、まさに梓が口にしようとしていたことであった。
しかし梓が口にしていたら、例え正論であっても、
こんな風に上手く収まらなかったかもしれない。
じゃあ、と領収書を手にこの場を立ち去ろうとする林に、
須藤が再び声を掛ける。
「林クン。それ、理由ありなんでしょ?
課長にきちんと相談してごらん。
上手く処理できる方法、考えてくれると思うよ」
「……はい、そうしてみます」
真面目でルールに忠実ではあるが、話が分からないわけではない。
彼は、こういった気遣いが出来る人でもあるのだ。
林の後ろ姿を見送ると、須藤は梓に向かって少し眉を下げて微笑んだ。
梓を見つめる視線が優しげで、トクン、と鼓動が跳ねる。
「悪いね。営業はどうも無理を言いがちで」
「いいえ、そんな」
この会社のこの場所に三年いて梓が思うのは、
本当にデキる人というのは実に謙虚である、ということだ。
決して驕ることなく、周囲への気遣いも怠らない。
「ありがとうございました。
須藤さんのお陰で、角を立てずにすみました。
今日は相澤主任もお休みでしたので、
ひとりできちんと対応しなくてはと肩に力が入ってしまって……
えっとそれで、お待たせしました、ご用件は?」
「えっ? あっ、その」
些か挙動不審に視線をウロウロさせた後、
そう! と取って付けたように須藤は言った。
「そうなんだよ、ほら、名刺の発注を、ね!」
「……名刺」
システムでも発注可能なのだけれど、と首を傾げる梓に、
須藤は言い繕うように言葉を重ねる。
「ちょうど、ついでだったから」
「……ついで」
何のついで?
ビジネスバッグを手にしていないということは、
外回りの帰りというわけではないようだ。
かといって、総務に出す書類を携えているようでもなし。
その時、「こんにちはっ!」と元気な声がして、
営業三課の佐久間がやって来た。
彼女は、昨年彼女が巻き込まれたトラブル絡みで何かと総務と縁があり、
顔馴染みである。
佐久間の同期である栗原が対応のために席を立つのを確認し、
梓は「お疲れさまです」と取り敢えず声を掛け、
須藤に対しては、名刺発注の用紙を差し出した。
「では、所定の場所に記入をお願いします。
お急ぎですか?」
「あっれー。須藤さん」
横からそれを覗き込んだ佐久間が、
ニヤリと笑って、用紙に書き込んでいる須藤にすっと肩を寄せた。
「もう名刺終わっちゃったんですかー?」
「う、煩いな佐久間さん。
あ、急ぎではないですから」
「ええっ! 急ぎでもないのに、
わざわざ総務まで来て発注とか、どうし……」
「じゃあ、それ、お願いしますねっ」
もごもご、と口を押さえられても、
怪しげな笑いを目に浮かべたままの佐久間を、
須藤がずるずると引き摺るようにしながら、去っていく。
「……佐久間さん、用事いいのかな」
「いいんじゃないですかね」
栗原が、呆れたように肩を竦める。
じゃれ合うような二人の後ろ姿を眺めながら、梓は思わず呟いた。
「あの二人、仲がいいんだね」
「いや、それなりに仲はいいんでしょうけど、
あれは、そういう仲がいい、じゃないですよ」
「――っえ?」
自分が何を口にしたのか気付いて、梓はぱっと頬を染める。
振り向くと、栗原が思わせぶりにこちらを見ていた。
「い、いやいやいや、その、別に私はっ……そ、そうだ、仕事、仕事。
名刺の発注ってね」
カウンターの上に残された名刺の発注用紙をわたわたと手にして、
梓は急いでその場を離れた。
小さな紙袋を手にして、梓は人気もまばらなエントランスの隅に立っている。
金曜日である今日、彼が直帰はしない、ということは確認済みだ。
おおよその帰社予定が十九時と、ホワイトボードに記されていた。
ただ今、十九時二十分。
エントランスの自動ドアが開き、とうとう待ち人が現れた。
「須藤さん!」
いきなり手作りは、ちょっと重い。
断られそうになったら、“この間のお礼”で通せるようなチョコレート。
梓の精一杯はそんなところだ。
「あれ、坂口さん」
呼び止められた須藤が、こちらに足を向ける。
「こんなに遅くまで、どうしたの?」
「お疲れ様です、あのっ」
梓は紙袋を両手で突き出した。
「叶わぬ相手を、ずっと想ってらっしゃるって知ってますっ」
「っは!?」
「その方の結婚のお祝いに、六ペンスコインを贈られたとも聞いてますっ」
「え゛。誰がそんなことを」
「相澤主任からお聞きしました」
須藤がうあっと呻いて髪を掻き乱す。
「違うしそれっ!」
梓は目を瞬かせた。
「違うんですか?」
「いや、違わないけど違うっていうか!」
いちいち突っ込まれて、突き出した紙袋が所在無げに揺れる。
「……義理では、ないです……」
須藤の手が、紙袋をそっと受け取った。
「好きな人が、いるんだ」
梓は俯き、唇をくっと噛み締める。
そんなに簡単に上手くいくなんて、思っていなかったんだし。
「満員電車の中にいるのに、
いつも何だか夢見ているような眼差しで外を眺めているんだ。
側に行って話しかけようと何度も思ったんだけど、
邪魔したくないような気もして」
――何の話?
おずおずと視線を上げると、
柔らかな笑みを浮かべた須藤が、とても近い距離にいた。
「三両目、進行方向一番前の扉から入って右側の奥」
――え?
それは、梓が利用する通勤電車での定位置だ。
「いつも、何を見ているんだろう、って思ってた。
それとも、何か聞いていたのかな」
――私?
「……朝は、ずっとサラ・ブライトマン、です」
「ああ、納得」
混乱したままの梓に向かって、照れくさそうに須藤が言う。
「わざわざ用を作って総務に頻繁に出入りしていたのに、
肝心な人はまるっきり意識してくれなかったし。
なるほど、相澤さんが変なこと吹き込んだせいだったんだな」
「へ?」
「と思えば、栗原さんには早々に感付かれちゃうし、
佐久間さんは面白がってちょっかい出してくるしで……」
「えっと?」
「チョコレート、ありがとう。
義理じゃないんだよね?」
こくこく、と真っ赤になって梓は頷く。
すると、須藤は梓の手をくいと掴んでエレベーターへと歩き出した。
「ちょっと休憩室で待ってて。
これ片付けてくるから、一緒に夕飯食べに行こう」
「え? は、はい」
――展開早すぎない?
営業は、好機を逃しちゃいけないんだ。
そう言って、にっこり笑う須藤の向かいの席に座るまで、あと一時間。
* * *
その麗しき君は、いつも同じ時間の、同じ車両の、同じ場所に立っている。
「おはよう」
「おはよう、ございます」
耳からイヤホンを外し、彼女はにっこり微笑む。
もう、眺めるだけじゃない――