加藤竜海による 酒の嗜み
突発的番外編。お楽しみいただければ嬉しいです。
「おはよう、加藤君。見たぞ」
大手ゼネコン神世建設、横浜支社のエントランスで、
竜海は先輩社員の桂木に声を掛けられた。
大学を卒業以来出自を隠し、竜海は一営業職として働いている。
入社時には『社長の縁戚か?』とよく揶揄われたものだが、
“加藤”などありふれた苗字である。
『ご想像にお任せします』と笑えば、それで冗談に出来た。
だがしかし、父である社長と一緒の所を目撃されたとすれば――
「おはようございます。見た……」
僅かに眉を顰め、首を傾げて見せる竜海を、
とん、と軽く肘で突いて桂木が笑う。
「恍けるな!
土曜日、ヌーベルグランデのバーでエライ美女を口説いていただろう」
「ああ……」
竜海は安堵と共に苦笑しそうになり、
メガネのブリッジを中指で押し上げて表情を隠した。
「まあ、そんなところです」
実際その美女が誰で、
そのバーで竜海とどんなやり取りをしていたかを知ったら、
桂木は腹を抱えて笑うだろう。
* * *
横浜にある老舗ホテルのそのバーは、
重厚な雰囲気で客層もそれなりに落ち着いている。
純粋に酒を楽しみ、雰囲気を楽しみ、他人にはそこそこ無関心を貫く、
そんな者たちが集まる場だ。
しかし今日は、ひとりでふらりと訪れるいつもとは様子が違った。
店に足を踏み入れた瞬間、
客はもとより、従業員の視線が傍らの妹に集中する。
そんな視線に慣れているが故か、本人はそれにまるで無頓着なのであるが。
バーカウンターの中の友人が、「いらっしゃいませ」と慇懃に会釈し、
目の前の席を勧める。
それに頷き、竜海は千速を座らせた。
「女性連れとは珍しい」
大学時代の友人は、アルバイトだったバーテンダーを己の天職と確信し、
それを全うしようとしている変わり種だ。
「まあな。聞いて驚け、俺の妹だ」
「千速です」
友人は目を瞬かせると、ニヤリと口許を歪めた。
「なぁるほど。これは、どうしよもないシスコンになるはずだ」
「俺はシスコンじゃない」
竜海は憮然としてカクテルとつまみをオーダーした。
「これ、オレンジジュースじゃないの?」
スクリュードライバーを無邪気に、こく、と飲み込んだ千速は、
そう言って首を傾けた。
「いいか、見た目に騙されるな。
これは、オレンジジュースの擬態をしたウォッカだ」
「擬態って……ああ、でも本当だ。かぁっとくる感じがする」
カウンターの向こうで、カクテルをステアしていた友人の手許が一瞬狂い、
カララ、と氷がぶつかる音がした。
一流のバーテンダーは、殆ど音を立てずに、
バースプーンで氷と材料を攪拌する。
「――失礼致しました」
僅かに頭を下げた友人の口許が、笑いを堪えるかのように微かに歪んでいる。
千速はそんな様子にまるで気付くこともなく、手にしたグラスを覗き込んだ。
「見た目じゃわからないものなのね」
「『これなんかオレンジジュースみたいなものだから』とか言われて、
迂闊に信じるなよ」
水割りのグラスを傾けながら、竜海は念を押した。
「何だ、その不信感溢れる眼差しは」
「……」
「俺はそんな手を使う程、女に困っていない」
「そうでしょうとも」
千速はキュウリのスティックをぱくりと口にする。
「酒を飲むときにはちゃんとタンパク質も摂るんだぞ」
「はぁい」
「“レディーキラー”を飲ませておいて、
母親のように世話を焼くというのも可笑しなものですね」
友人がチーズの盛り合わせを給仕しながら、千速に向かって微笑んだ。
「“レディーキラー”ですか?」
「そうです。いかにもといった見た目ではなく、
優しい味わいなのに実際のアルコール度数はそれなりに高い。
口当たりが良いからついつい飲みすぎて、いつの間にか酔っている。
そういうカクテルのことを言います」
「なるほど」
竜海は、せめて父親と言え、と友人に毒づいてから、千速に視線を向けた。
「そういったものがある、と知っているのが肝心なんだ。
実際に見て口にしてみないことにはわからないだろう?」
「うん」
それから竜海は、その手のカクテルをいくつか注文し、
千速に少しずつ味見をさせた。
「――カルーア・ミルクでございます」
褐色の液体の上にまったりと浮く生クリームを、マドラーでくるりと混ぜ、
千速が喜ぶ。
「コーヒー牛乳!」
「酒場でコーヒー牛乳を飲ませる男がいると思うな」
「コーヒーリキュールが使われているんですよ」
友人が苦笑いしながら解説する。
「さっき竜兄が言ってたタンパク質も摂れるね」
「それは、生クリームのことを言っているのか?」
「そうだけど?」
そんな風に首を傾ける千速は、もう二十歳だというのにやけに無垢で、
まだ二十歳になったばかりだというのにやけに艶やかに見えた。
――ああ、兄としては非常に心配なのだ。お前が余りにも無自覚であるから。
「――ロングアイランド・アイスティーでございます」
「アイスティーなの?」
「酒場でアイスティーを飲ませる男が……」
竜海が眉間に皺を刻んで口にすると、友人がさり気なく割って入った。
「これには、一滴も紅茶が入っていないんですよ」
「本当に!?」
「ジン、ラム、ウォッカ、テキーラ……強いお酒ばかりで出来ているんです」
「全然わからないけど」
「だから、“レディーキラー”なんですよ」
アルコールが回ってきたのか、少し上気した顔で、千速が竜海に向き直った。
「私、わかった」
「何が」
「世の男どもが女を酔い潰そうと企むうちに、
こんなに沢山のカクテルが出来たのよ」
「強ち間違いではないかもな」
竜海は、ふっふ、と笑った。
「――テキーラ・サンライズでございます」
フルート型シャンパングラスの中は、
赤からオレンジへとグラデーションが美しい。
「うわぁ、綺麗」
「これは“テキーラ”と自ら名乗って良心的に思わせながら、
見た目で取り入ろうという狡猾なやつだ」
「最早擬人化してるし。私じゃなくて竜兄が酔っているんじゃないの?」
千速がくすくすと笑いながら、竜海の肩にこてっと頭を預けてきた。
友人の半眼を真っ向から見返し、竜海は千速に言った。
「酔っているのは、間違いなくお前だ」
「アルコールに慣れていないのに、強い酒ばかり飲ませたお前が悪い」
友人が皮肉っぽく片眉を跳ね上げる。
「しかし、いきなりだな。リミッターを振り切ると眠くなるタイプか」
「さあ。この前ビールの時には『酔う前にお腹がいっぱいになっちゃった』とか
言っていたからな」
「……お前、何をやってるんだ?」
呆れたような友人の口調に、竜海はしれっと答えた。
「酒の嗜みを教えている」
「……俺はお前のシスコン度を侮っていたかもしれん」
竜海は、ふん、と鼻を鳴らし、肩を揺すった。
「千速、寝るな。帰るぞ」
「……眠いけど……あふ、眠ってません。目を閉じている、だけで」
些か怪しい口調で千速が異を唱える。
クスクス笑った友人が、そんな千速にこう言った。
「次にいらっしゃる時には、あまり強くなくて、
安心して楽しめるカクテルをご用意しますよ」
* * *
「お前が、社内外の綺麗どころを全く歯牙にもかけない理由がわかった」
桂木が、竜海の肩をばしっと叩く。
「あれは……」
「私の特別なんですよ」
そう言って竜海は口角を上げた。
いつかこのネタを書こうと思いつつ、こんな時間が経ってしまいました。