司の 長い片思いの始まりについて
誰かが恋におちる瞬間を目にしたことがあるかな?
本人は気付いてさえいなかったかもしれないけれど、
僕は、その瞬間を目撃したのだと思う。
それはたった一粒のチョコレートだったんだ。
僕たち同期四人は自分で言うのも何だけど、
配属早々「当たり年」と言われるくらいデキの良い集まりだった。
見習い期間が過ぎて独り立ちすると、
特に瑞穂の実力の程は、その容姿とあいまって瞬く間に広まってさ。
女の子の、恋愛を巡る妬みもすごいものがあるけれど
男の、仕事を巡る妬みはもっと凄まじかったりするんだ。
そもそも本社営業に籍を置くくらいだから
みんな、他人の業績を歯牙に掛けないくらい自信家の集まりだったりするんだけど
中にはそうじゃないヤツもいるってこと。
瑞穂の先輩社員にひとり、そういった手合いがいて、
決して難しい仕事じゃないのに、物理的な「量」を期限ギリギリに渡す嫌がらせを瑞穂に続けていたんだ。
つめてやれば出来ない量じゃない。
今じゃ信じられないけど、新人でもあったしプライドもあって、瑞穂はそれを受けていたんだけど。
ある時、みんなで同期の飲み会に誘いに行った時も、かなりの量の書類を前に、瑞穂が淡々と作業をしていた。
淡々とこなしつつ、目にはくすぶる怒りが見てとれて、ああ、こんな風にキモチを蝕むような嫌がらせをするって男としてどうよ!と思ったものだった。
「まだ終わらない?」
僕が聞くと
「見ての通り」
いつものヤツだよ・・・と瑞穂が若干うんざりした様子で答えた。
千速ちゃんは少し離れたところに元凶の先輩社員が座っているのをチラリ確認すると、
瑞穂に一粒チョコレートを渡した。
「プライドかけて勝負してんでしょ。イライラした顔を見せたら負けだよ。
アンタ、この程度の仕事も自分でこなせないんですかって顔してなきゃ」
そう小さく囁くと、
「瑞穂の書類じゃないんでしょ?後方支援ってやつ?
この程度の書類をこんなに大量にためるなんて、よっぽど忙しいか、
自己評価が高すぎて、自分の処理能力をちゃんとわかってないとかなんじゃない?」
あまり大きくはないけれど、小さくもない声で言い放った。
僕も目が飛び出るかと思ったけれど、
実里ちゃんが慌てて
「ち、千速っ!本人に聞かれたらどうするのよっ!」
と小さく叫んだ。
「あらやだ。当然『忙しくて』ここにはいないわよー。
じゃなきゃこんなに書類がたまるわけないもの。
うちの課と同じフォーマットなんでしょう?
瑞穂は記入して。私がデータ入力する。さっさと済ませて、皆で飲みに行こう」
平然とそう言うと鞄を置き、瑞穂の隣に座ったのだった。
「あ、先に行って席とっておいてもらおうかなー。後どれくらいで終わる?」
暫しあっけに取られていた瑞穂は、手渡されたチョコレートに目を落とし、
それから、千速ちゃんを見ると、口元に歪んだ笑いを浮かべて
「30分。すぐに行く」
僕と実里ちゃんに言った。
件の先輩社員には、当然千速ちゃんの発言は聞こえていたはずで、
怒りで顔を赤くしてはいたものの、正面きって文句も言えないのだった。
だって「いるはずない」って千速ちゃんが言ったから。
それが「いました」じゃ、自分の処理能力に疑問符がついちゃうでしょ?
瑞穂が口にすれば角が立つところを、千速ちゃんが「聞かれていない」前提で文句を言ったわけで。
課は違っても、同じ営業だから状況の把握は出来ているんだぞ、と匂わせた。
かなわないなーと僕は思ったのだった。
そして、包み紙を開いてチョコレートを口にした瑞穂の表情が
一瞬、あまりにも優しくて僕は驚いたのだった。
瑞穂みたいに強い人間は、
自分のためだったり、誰かを、あるいは何かを守るために戦うことはあったとしても、
誰かに、自分のために戦ってもらうなんて、めったにないことなんじゃないのかな。
本当は、近いうちに自分でどうにかしたと思うんだ。
理不尽なやり方に、黙って耐えるような男じゃないから、さ。
もしかしたら、ずっと派手なやりかたで。
だけど。
そのタイミングを待っていたはずの瑞穂だけど。
思いもよらない援軍で、正直、肩の力が抜けたんだと思うんだよね。
急にベクトルを変えたみたいで、その後営業成績が更に伸びたんだよ。
当然、その先輩社員よりも実績を上げてしまったわけで、
書類を押し付けられる「隙」なんてなくなってしまった、というわけ。
実力でねじ伏せてしまったんだな。
ただの同期だったんだと思うんだ、あの時までは。
多分今だって、「ただの同期だ」と二人揃って言うと思う。
でもねー。
あの瞬間。
チョコレートを口にした瞬間、
瑞穂のココロの中に、千速ちゃんの特別な場所が出来たんだと思う。
本人は認めないと思うけど、
あれはきっと、恋の始まりだったと思うよ。
瑞穂自身が気付かないままの長い片思いは、こんな風に始まったんだ。