指輪
――その指輪に目を引かれた
デパートの外商が瑞穂の前に並べたのは、
品質も価格もハイブランドの名に恥じぬ、素晴らしいものばかりだ。
目的からすれば当然のことながら、似たようなデザインのものばかりではあるが。
大きなダイヤがセッティングされたもの。
あるいは、そのダイヤをもう少し小さなダイヤが取り囲むもの。
あるいは、そのリングにもダイヤがあしらわれたものなどだ。
約束の一年には、まだ半年もある。
しかし瑞穂は、すでに千速への婚約指輪を選ぼうとしていた。
「こちらですか?」
外商の販売員が、瑞穂の視線をたどって、その指輪を瑞穂に手渡した。
どこが、なのかわからないが、「これだ」とわかった。
それは、瑞穂が初めて千速と出逢った時の感覚に似ている。
その指輪は、華奢なリングに、ラウンドカットのダイヤがひと粒セットされていた。
シンプルだが、しかし、その石自体の美しさで目を引く。
そうだ、そういえば華美な装飾など、千速には相応しくなかった。
「これで」
瑞穂があっさり言うと、
後ろから眺めていた従兄で秘書の恵吾が慌てたように言った。
「おい、他のを見ないでいいのか」
「何で」
「いや、普通迷うというか、いくつか手に取って比べたりするだろう……」
販売員も、他にもたくさん種類がありますよ、というように苦笑している。
品物を広げて五分もしない内に決まるなどと――しかも婚約指輪だ――
思いも寄らなかっただろう。
「同じタイプの指輪でも、微妙にデザインが異なるのですが……」
指し示されたいくつかは、
確かに装飾のないリングに、ひと粒のダイヤがセットされたものなのだが、
そのセッティングの方法が違うのか、瑞穂には全く違った雰囲気に思えた。
「やっぱりこれだ」
「だから、少しは迷えよ」
呆れたように呟く恵吾に、瑞穂は言った。
「わかるんだよ。お前も、きっとそうなったらわかる」
「――何だ、その哲学者みたいな言いようは。
疲れているんだな。そうだ、お前は疲れている。俺も疲れているが」
くくくと笑って、瑞穂は販売員にサイズ直しと文字入れを指示し、引き取らせた。
確かに、瑞穂にしろ恵吾にしろ、
あわよくば足を引っ張ろうとする勢力に対抗すべく、
がむしゃらに、要求されるスピードと成果以上のものを上げようと必死だ。
表向きは、あくまでも泰然自若と振る舞っているが。
「ところで、何で、サイズを知っているんだ」
「千速のお袋さんに教えてもらった」
「お前、どこからどうやって手を回しているんだ。こんなに忙しいのに」
「忙しくても、外せない所はしっかり押さえていく」
そう言って、瑞穂は口を引き結んだ。
会えない間にも、千速の噂は瑞穂の所に届いている。
『神世建設の社長令嬢が、公の場に顔を出し始めたようだ』
『ついこの間まで、社交の場にほとんど姿を見せなかったが、
最近、両親や兄に連れられて姿を現すようになった』
『二十代半ば、そろそろ結婚相手を探そうという事かもしれぬ』という風に。
先日の政財界交えてのパーティーでは、
兄にエスコートされて現れ、その華やかな美しさと知性で話題を攫ったようだ――
もちろん、「ようだ」だ。
その場に瑞穂は居合わせることはなかったのだから。
実に巧妙に、瑞穂と千速はすれ違っている。
聞くところによれば、銀行頭取の息子で高級官僚の男は、
どうせ、君には理解できないだろうが」というスタンスで
千速と始めた小難しい経済政策の議論が、思いの外白熱して
「席を移してもっとじっくり議論を尽くしたい」と言ったそうだ。
その議論に加わっていた政治家の世襲三世は、
「それだけの見識を持ち合わせているのであれば、
どこぞの有閑マダムになるのはもったいない、
一緒に政治の世界で活躍してみないか」と誘ったらしい。
他にも、大企業の後継者達がその輪に加わり、
それはもうそうそうたるメンバーになっていたようだ。
恐らく千速にはそんなつもりは全くなかったのであろうが、
周囲の男共に半端ないインパクトを与えた挙句、
「今日は色々な立場の方とお話が出来て有意義でした」
のあっさりしたひとことと、艶やかな微笑みを残して、
兄に伴われて振り返りもせず去って行ったのだそうだ。
その去り際には、未練たらたらの男共が
連絡先を我先にと彼女に差し出したのだが、
それらの名刺(個人のスマートフォンのナンバー、メールアドレス入り)は
ひとまとめにされて、無造作にクラッチバッグに押し込まれたのだ。
神世建設社長令嬢が次に出席するパーティーの情報を、
みんな必死に収集しようとしている――らしい。
瑞穂はいつの間にか自分が拳を握りしめていることに気付き、意識して力を緩めた。
ポンと頭の上に手が置かれ、わしわしと整えた髪を乱される。
「何するんだ、恵吾」
「久々に、お前が年下の可愛い従弟だってことを思い出したよ。
心配するな。彼女は加藤で守ってもらっている。
お前に相応しく隣に立てるように、周辺を整えているだけだ」
恵吾がニヤリと笑った。
「確かに、えらいキレる女だとは思った。物怖じもしないしな。
しかし、俺はあの地味なOLがどんな風に化けたのか、そこに興味をそそられるね」
瑞穂はふふん、と笑って言った。
「アレは本人によれば『お仕事バージョン』なんだそうだ。そっちが化けてる方」
一瞬呆気にとられて、「侮れねー」と恵吾が噴出した。
あの指輪は、もちろん千速のための物である。
しかし、一方で、瑞穂のための物でもある。
「一年で必ず迎えに行く」という誓いの印――
これを必ず千速の左手薬指に嵌めてみせる、という決意の証――
そして今、約束の一年を迎え。
瑞穂の腕の中で、この一年の瑞穂の葛藤や焦りなど知る由もなく眠る千速がいる。
その左手の薬指にそっと指輪を嵌めて、瑞穂はようやく満足した。
この指輪は、お前のようだと思ったんだ。
たくさんの似たような物の中、一際目を引く存在感で。
身じろぎした千速が、ゆっくりと覚醒した気配がした。
瑞穂の腕の中からそっと抜け出して、身体を起こし――
違和感を感じたのか、左手を目の前に持ってきて固まった。
上掛けを抱え込み、微かに首を傾げる千速の背中に、瑞穂は言う。
「それは、保険だ」
振り返った千速が、訝しげに繰り返す。
「保険?」
瑞穂は千速の腕を引き、再びベッドに沈めてその顔を見下ろした。
大きな猫目が、様々な感情を映して瑞穂を見上げている。
喜びと、戸惑いと、それから、ちょっとした怒り。
瑞穂はその瞳を見つめたまま、千速の左手を取り、薬指に唇を寄せた。
―― Dec.24.20XX promise ――
指輪に刻んだ文字は、千速に伝わるだろうか?
八年前の約束も、一年前の約束も、叶えられた。
これは、これから先、未来への約束だ。
きっと、幸せにする。
――余談であるが。
この時の、説明不足で不用意な――だが、ある意味瑞穂の本音に近い――
ひとこととやり方に、千速が不満を爆発させるのは、また別の話である。
「『保険』ってなに、『保険』って!
それが、仮にも一生を共にしてくれって申し込む言葉っ?
しかも、指輪は渡されたわけじゃないのよ。
いつの間にか嵌められていたのっ!」
2013年「どこでも読書エタニティフェア」参加作品です。
出版社の許可をいただきまして、こちらで再掲載させていただきました。