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愛の夢

――そのピアノリサイタルの演目はリストだった。


渡米してからこちら、瑞穂は確かに多忙である。

しかし日本にいた頃のように、

多方面から際限もなく仕事が押し寄せる、ということはないため、

却って時間のコントロールは容易になっている。

同僚からピアノリサイタルのチケットを二枚譲られた千速は、

せっかくだからと、瑞穂と連れ立って出かけたのだった。


「お前はピアノを弾くのか?」

「弾けないわけじゃないわよ」


千速は瑞穂と腕を絡めながらコンサートホールの階段を上った。

若草色のシルクタフタのワンピースの裾が、さらりと揺れる。


「でも、竜兄の方が上手だったわね。瑞穂は?」

「まあ、ショパンをどうにか」

「ああ、いやだ。

 ここにも華麗にピアノを弾きこなす貴公子が。

 そのスキル、変なことに使ってないでしょうね」

「変なこと?」

「竜兄はショパンの『幻想即興曲』だったらしいの」

「何が」

「『キメの一曲』よ。

 女の子は、ショパンが好きな娘、多いじゃない」

「……竜海さんが? っていうより、何でお前がそれを知っている」

「ふふふ。私が大人しく竜兄の妹をやっていたと思ったら、大間違いよ。

 色々な駆け引きや手管を、こっそり学ばせていただきました」


のわりに、ニブかったじゃないか、と瑞穂が思ったことなど

千速は知らない。


「それで?

 瑞穂の『キメの一曲』は何だったの?」


悪戯っぽく瑞穂を見上げる千速は、したり顔で続ける。


「過去のオイタのお話なら、結婚式の二次会で免疫があるから、

 そこそこなら、許してあげる」


瑞穂は苦笑した。

母は残念そうな顔をしていたが、

ピアノは小学校を卒業と同時に、やめてしまっていた。


「そのつもりがあったとしても、『子犬のワルツ』じゃ、無理だったろうな」

「そういう意外性が、実はぐぐっとくるのかもよ」


千速が、くすくす笑いながら、そう口にした時――


「――瑞穂」


開演前の賑わったロビーで、その声はとても通って聞こえた。

呼び止められて、瑞穂が振り向く。


「恵理」


瑞穂が名前で呼ばれ、名前を呼んだことからして、

その女性は、彼にとってはある意味特別な存在なのだと知れた。

千速も、その声の主の方に身体を向ける。

瑞穂を呼び止めたのは、何となく見覚えがあるような雰囲気の女だ。


――どこかで会ったことが?


黒いジョーゼットのワンピースを、すらりと着こなした姿。

少し切れ上がった大きな目。

色素の薄い髪は、ハーフアップにされ、華やかだ。


――私に、似ている?


千速は目を瞬かせた。

恵理、と呼ばれた女性は、千速のその反応を見て小さく微笑む。


「佐伯恵理。学生時代の友人だ。

 こっちは妻の千速」


瑞穂が、口許に笑みを浮かべて紹介する。

妻の(・・)を微妙に強調したことを聞き取って、

千速は頬を赤らめた。


「風の噂に聞いていたわ。

 結婚おめでとう、でいいのかしら?」


佐伯は、瑞穂に向かって優雅に首を傾げた。


「彼女には、話していないの?

 『本物』を探していたんだって。

 それとも、『似て非なるモノ』が『本物』に変わった?」


それから、千速に向かってこう続ける。


「私に初めて声を掛けた時、

 瑞穂は『似て非なるモノか』なんて、失礼なことを言ったのよ」

「莫迦を言うな、恵理。

 俺がそんな紛い物で手を打つと思うか?」


瑞穂は千速の腰に手を回てぐっと引き寄せ、口角を上げた。


「見つけたぞ、俺は、本物を」


そう言って、甘やかな視線で千速を見下ろす。

佐伯の瞳に微かに痛みのようなものが走ったのを、千速は見た。

しかし、それはすぐに見えなくなり、穏やかな声が瑞穂に向けられた。


「そうなの。じゃあ、本当におめでとうなのね」


伏せられた瞼が一瞬震えたが、柔らかな微笑みが千速に向けられた。


「瑞穂は、とても一途にあなたを探していたのよ。

 側にある何かを代わりにしようとはしなかった」


私では代わりになれなかった――どんなに望んでも。

その瞳は、そう語っていた。

千速は、ただ微笑み返すしかできなかった。


「お前も、結婚すると聞いた」


瑞穂のセリフに、佐伯はくっと顎を上げ、艶然と微笑んだ。


「そうよ。私のことを、とても愛してくれる人を見つけたの。

 いつまでも友情を装って、誰かの代わりを望むような不毛なことはやめたわ。

 私、幸せになるのよ」

「――そうか。幸せになれ」


佐伯は「当然よ」と言って笑い、くるりと背を向け、去って行った。


「――ねぇ、瑞穂」


その後ろ姿を見つめながら、千速は瑞穂に身を寄せた。


「何だ?」

「どうして――……」

「どうして?」

「……ううん。何でもない」


千速は瑞穂の腕を取ると、その瞳を探った。

彼女の気持ちは、あんなにもわかりやすく側に在ったのに、瑞穂は迷わなかった?


「……俺が欲しかったのはお前だ。

 似ている誰かじゃなくて」


そう言うと、瑞穂は千速の頬にかかる髪をそっと払った。


「迷うことも許されなかったんだ、俺は」


だから、きっちり責任を取って俺の側にいるんだな。

そう続けて瑞穂は歩き出す。

何となく頬が赤いのは、見間違いじゃないと思う。


「側にいてくれ」じゃなくて、「側にいるんだな」、ね――


瑞穂の横を歩きながら千速は、くす、と笑った。

俺様瑞穂様は、時々千速の心のどうしようもない深いところに踏み込んで、

その存在を刻み込んでいく。

「欲しかったのお前だ」とか。


 * * *


「愛の夢」が、ロマンティックに奏でられている。

その調べに耳を澄ませながら、千速は思う。


元々は歌曲で、歌詞を持つこの曲は、色々な解釈があるが、

人類愛を謳っているとか、神への愛を謳っているとかいわれる。


――おお、愛しうる限り愛せ!――


でも、こんなに抒情的な曲を捧げるのならば、

それは心から愛する誰かに、ではないのかしら?


隣の席からそっと手が伸びてきて、千速の手を握った。

リストは弾かない、と瑞穂は言った。

聴くばかりだ、と。

千速も、リストを弾くほどではなかった。


でも。

今度、練習してみようかしら――

瑞穂を口説く、「キメの一曲」として。



書籍に入れようとして、入らなかった部分を少しアレンジしました。

ちょうど、フィギュアの浅田選手が、この曲を使っていましたね。

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