儀式中です
初投稿です。
原作は私が見た夢です。
友人八人での旅行は、二日目の夜までは楽しかった。行き先は、僕の実家から車で一時間ほどのところにある温泉地だった。
ホテルの大部屋でトランプをしながら缶のお酒を空けていたとき、誰かが軽い調子で、あの二人この前から付き合い始めたらしいよ、と言った。二人のうちの一人は僕が最近ずっと気になっていた人で、相手のほうも僕はよく知っていた。
僕は「へえ、そうなんだ」と言って笑い、次の番で出せるはずの札を出しそびれて、隣のやつに突っ込まれた。
翌朝、チェックアウトのあとは夕方五時の集合まで自由行動になった。土産物屋を回るというグループに誘われたけれど、腹の調子が悪いと嘘をついて、ひとりで歩き出した。
その建物に入ったのは本当にたまたまで、日差しが強く、屋根のあるところならどこでもよかった。古い木造の郷土歴史館のような場所で、入口に料金箱がひとつ置いてあるだけで受付に人はいない。百円玉を二枚入れて中に入ると、薄暗い展示室に農具や色の褪せた集合写真が並んでいた。
「……あれ?」
振り返ると、紺の作業着を着た女の人が立っていた。こちらの顔を確かめるように見ている。見覚えがある気はしたが誰なのか思い出せず、僕は胸の名札に目を落とした。「関口 春菜」とあった。
その名前を読んだ途端、目の前の顔に、中学の制服を着た女の子の顔が重なった。小学生の頃に好きだった人だ。席替えのたびに近くの席になるよう祈って、同じ中学に上がってからも何も言えず、卒業式の日もそのまま別れた。
「久しぶり。何年ぶりだろう」
「中学の卒業以来だから、十五年くらいかな」
「旅行?」
「うん、友達と。今は自由行動で」
「そっか。いいところでしょ、ここ。何もないけど」
そんな無難な話ばかりした。中学の校舎が建て替えられたことや、三年のときの担任が定年になったこと。彼女は相槌を打ちながら、何度か奥の座敷のほうへ目をやった。
そのうち、座敷から彼女を呼ぶ声がした。
「ごめん、ちょっと手伝いがあって」
彼女が上がっていった座敷には、開いた襖越しに二十人ほどが座っているのが見えた。年配の人が多く、みんな正面を向いて黙っている。
年配の男に低い声で何か言われて、彼女は床の間の掛け軸を外した。裏の壁には四角いくぼみがあり、黒ずんだ木像と、手のひらに収まるくらいの小さな像が入っていた。僕の立っている位置から、たまたまそれが見えた。
木像は座敷の正面にある祭壇のような台に据えられた。小さいほうの像は、なぜか参加者たちの一番後ろの畳にじかに置かれた。敷居をまたげば手が届く、僕のすぐ足元だった。
袈裟を着た偉そうな男が祭壇の前に座り、お経のようなものを読み始めた。節回しはお経に似ているのに、言葉がひとつも聞き取れない。彼女は男の斜め後ろに立ち、目を伏せて待機していた。
足元の小さな像が、どうしても気になった。人の形に見えなくもないが、頭にあたる部分が妙に長く、石なのか木なのかも分からない。全員が正面を向いているのを確かめてから、僕はしゃがんでそれを掴んだ。思ったより軽く、少し温かかった。
何か聞こえる気がして、耳に近づけた。
『儀式中です。儀式中です。儀式中です』
像が喋っていた。留守番電話の案内のような、抑揚のない声だった。
「うわっ」
声が出て、像を耳から離した。その動きで勝手に触っているのがばれた。
「何をしているんですか!」
スタッフらしい中年の女が飛んできて、像をひったくった。そこから僕はありえないくらい怒られた。触っていいものと悪いものの区別もつかないのか、取り返しがつかなかったらどうするつもりだったのか。声は抑えているのに、唾が飛んでくるほどの剣幕だった。その間もお経は一度も途切れず、参加者は誰ひとり振り返らなかった。
読経が終わると、参加者たちは無言で立ち上がって外へ出ていった。駐車場でエンジンのかかる音がいくつも重なる。別の場所へ移動するらしい。
靴を履いている彼女に、僕は追いついた。
「さっきはごめん。変なことして」
「ううん。……びっくりしたよね」
「今、この辺に住んでるの?」
「うん。母の実家がこっちで、高校を出てからずっと」
「そっか。その、付き合ってる人とかは」
十五年ぶりに会った相手に聞くことではなかった。昨夜のことが、まだ残っていたのだと思う。
「いないよ」
それからもう少し話したけれど、彼女はずっと暗い顔をしていた。笑うところでも口の端が上がらず、目は僕の肩のあたりを見ていた。
「じゃあ、行かなきゃ」
彼女は白いワゴン車の後部座席に乗り込み、車は砂利を鳴らして出ていった。
駐車場に残った僕は、あの顔のことを考えていた。喋る像や、言葉の分からないお経のことも頭から離れない。追いかけようと決めてから、行き先を知らないことに気づいた。連絡先も聞いていない。勇気を出して番号を交換しておけばよかった。
後悔しながら座敷の様子を思い返しているうちに、参加者の中に見覚えのある横顔があったことを思い出した。法事で二、三度会ったことのある、タクシーの運転手をしている遠い親戚だ。
僕は母に電話をかけた。
「あの人の番号? 知ってるけど、どうしたの急に」
事情をかいつまんで話すと、母は番号を教えてくれたうえで言った。
「関口さんって、あの春菜ちゃん? なにそれ、気になる。お母さんも行く」
親戚は移動の途中だったらしく、拍子抜けするほどあっさりと場所を教えてくれた。一時間ほどして、母は本当に車でやって来た。母は運転が好きで、知らない山道でも鼻歌まじりにハンドルを切る。
「春菜ちゃん、きれいになってた?」
「そういう話じゃないって」
山あいの道を抜けると橋があり、渡ってすぐ正面にお堂のような建物が見えた。手前に車が何台も停まっている。儀式はもう始まっているようだった。
ところが、お堂には誰もいなかった。参加者はみんな橋の上にいて、欄干に沿って並び、そろって下を覗き込んでいる。僕と母も端のほうから下を見た。
川が湖に流れ込む合流地点のような場所で、水は深い緑色をして底が見えない。橋から水面までの高さは分からないけれど、下にいる人の顔が見分けられるくらいの距離だった。
その水面に、人が浮かんでいた。白い着物を着て、額には幽霊がつけるような白い三角の布を巻き、顔だけを水の上に出して仰向けに漂っている。さっきまで話していた顔を、見間違えるはずがなかった。
僕は欄干を握ったまま動けなかった。隣で母が「ちょっと、あれ」と言いかけてやめた。橋の上では偉そうな男がまた分からない言葉を唱え始め、参加者たちが低く唱和する。僕が固まっている間にも、儀式は進んでいった。
どれくらい経った頃か、橋の下からいきなり声がした。彼女が叫んでいた。水に浮かんだまま、橋の上の全員に向かって何かを訴えている。風と水音にちぎられて、僕に届いたのは「もう何人も」と「知っていたくせに」の二つだけだった。それでも、この儀式を告発しているのだということは分かった。
唱和が止まり、参加者たちが怒鳴り始めた。黙れ、なんということを、と口々に言いながら、欄干から身を乗り出して下を睨みつけている。偉そうな男も顔を真っ赤にして、腰から上をほとんど外に出していた。
僕はとっさに、一番近くにいた男の背中を両手で押した。男は声も上げずに欄干の向こうへ落ちた。その隣も押し、もう一人押した。水音が三つ続いた。
橋の上は悲鳴と怒号でめちゃくちゃになった。下を見ると、彼女がこちらを見上げていた。目が合ったのは一秒もなかったと思う。彼女は岸へ泳ぎ、水から上がると、濡れた着物の裾をたくし上げて林のほうへ走っていった。
あの方向なら、林を抜けた先で合流できる。合流できたら車まで連れて戻って、そのまま逃げればいい。そう見当をつけて僕も走り出し、数歩行ったところで、車の鍵は母が持っているのだと思い出した。
「母さん、鍵!」
母は聞き返さなかった。全力で投げられた鍵が弧を描いて飛んできて、僕は走りながらそれを片手で掴んだ。後ろで誰かが叫んでいたが、振り返らなかった。
有刺鉄線のついた柵を、上着を引っかけながら乗り越えた。手のひらを切ったが、構っていられなかった。
林を抜けると、広い沼に出た。風がないのに水面が細かく揺れていて、鳥の声も虫の声もしない。濡れた土の匂いに、甘ったるいものが腐ったような匂いが混じっている。足がすくんで、しばらく岸に立っていた。
それでも、彼女が逃げた方角を考えると、この沼を越えたあたりで合流できるはずだった。会えたら今度こそ連絡先を聞く。あの暗い顔のわけも聞く。そう考えたら足が前に出た。
沼に片足を入れると、膝まで一気に沈んだ。底に足がつく感じがまったくない。渡るのは諦めて足を引き抜き、岸に沿って回り込むことにした。
歩いても歩いても景色が変わらなかった。泥に取られる自分の靴の音しか聞こえず、何度も後ろを振り返った。そうやって、ようやく自分が来たのとは反対側の岸まで来たとき、地面に何か描かれているのに気づいた。
円と線を組み合わせた、見たことのない紋様だった。泥の上なのに、線は少しも崩れていない。
近づいた途端、頭の内側に声が響いた。
『春菜、と言ったか?』
足が止まった。
『好きな人と合流できると、淡い希望を抱いていたよ。嬉しそうだった』
声は笑っていた。
『だけど、俺から逃げられると思ったか? 良い余興だったよ』
声はそれきり聞こえなくなった。
呆然として下を向くと、紋様の真ん中に絵があった。古い壁画のように、単純な線だけで描かれた人の姿だった。長い着物を着て、額に三角があり、両手を上に伸ばしている。目も口も線一本ずつしかないのに、誰を描いたものなのかは分かった。
僕は彼女を救えなかったのだと悟った。
膝から力が抜けて、泥の上に崩れ落ちた。握っていた車の鍵が手から落ちて、紋様の端に半分埋まった。拾わなければと思った。母が橋で待っているし、五時には友人たちとの集合もある。
けれど僕は、そこから動けなかった。
聞きそびれたことばかりが頭に浮かんだ。電話番号のこと。あの暗い顔のわけ。席替えで近くになるたびに僕がひそかに喜んでいたことを、彼女は少しでも知っていただろうか。
日が傾くにつれて、絵の線に沼の水がゆっくり滲みてきた。それでも線は崩れず、彼女は両手を上に伸ばしたまま、泥の中から僕を見上げていた。




