35話 それでこそ...!
その宿は、もはや「家」としての体を成していなかった。
湿り気を帯びた苔が、壁のひび割れを這うように浸食し、腐りかけた木材からは饐えた匂いが漂う。夜風が吹き抜けるたび、ガタガタと建付けの悪い窓が鳴り、隙間風がアルトの薄い衣を容赦なく撫でた。
フェルゼンで過ごした、あの温かな日々が遠い幻影のように思える。
赤煉瓦の街並みを照らす柔らかな夕陽、宿屋の主人が出してくれた湯気の立つスープ、そして自分を一人の少年として見てくれた人々の眼差し。それら全てが、今の惨めな廃屋の冷たさと対比され、アルトの心を鋭く削り取っていく。
冷たい寝床に身を横たえ、アルトは天井の染みを見つめていた。
「ねぇ、影……」
暗闇に溶け出すような、か細い声。それは、ずっと胸の奥底で大切に守り続けてきた、消えかけの希望が上げる断末魔だった。
「僕はただ、普通に……一人の人間として生きていたかっただけなんだ。数字で価値を決められることも、得体の知れない怪物だと蔑まれることもない、そんな場所で。でも、どこへ行っても最後には拒絶される。……こんな狂った世界、もう壊しちゃえばいいのかな。君の力があれば、あの聖王都エリュシオンだって滅ぼせるんだろう?」
アルトの影が、ドロリと密度を増した。
漆黒の闇がうねり、人の輪郭を象りながら、最強の影が音もなくその場に現れる。紅く輝くその瞳が、主の絶望を静かに見つめ返した。
『……残念ながら、主よ。現状の私では、それは叶いません。聖王都エリュシオン――あの地には現在、大陸全土から吸い上げた莫大な魔力を源泉とする、神話級の対影結界が幾重にも張り巡らされています。フェルゼンで貴殿を苦しめた小細工とは、次元が違う。今のままの私では、あの中に足を踏み入れることさえ、世界の理によって拒絶されるでしょう』
「……そうか。逃げることもできず、攻めることもできないのか」
アルトは無言で床に伏せ、拳を硬く握りしめた。爪が手の平に食い込み、微かな痛みが走る。
明日になれば、この里を去らなければならない。ここに留まれば、自分に優しくしてくれたテオや、慎ましく生きる低レベルの民たちを、再び戦火という名の地獄へ引きずり込んでしまう。フェルゼンの惨劇を、もう二度と繰り返すわけにはいかない。
だが、去ったとしてどこへ行く?
世界は自分を「全人類の敵」と呼び、匿う者さえ殺すと神勅を下した。
見上げた夜空に浮かぶ星々は、あんなに美しく、冷たく輝いているのに。この広大な空の下に、アルトが一人の「人間」として呼吸できる場所など、一寸たりとも残されてはいなかった。
沈黙が支配する部屋で、アルトの心の中で何かが「ぷつり」と音を立てて切れた。
溢れそうだった涙は枯れ、震えていた体は静止する。
「……影。僕は、決めたよ」
アルトがゆっくりと顔を上げた。
その瞳からは、迷いや弱さ、そして子供らしい幼さが完全に消え去っていた。代わりに宿ったのは、光さえも吸い込む、底知れぬほどに深く、静かな闇だった。
「一人の普通の人間として生きることが許されないのなら……。この狂った階級信仰を、僕が力で書き換えてやる。僕を人間だと認めないのなら、認めざるを得ないほど高い場所から、奴らを見下ろしてやるよ。……僕を拒んだ国、敵になった国は、片っ端から僕の影で飲み込んでやる」
その言葉を聞いた瞬間、最強の影の輪郭が狂喜に震えた。
影の衣が波打ち、漆黒の魔力が火花のように散る。
『――それでこそ!我が魂の全てを捧げるに相応しい、深淵の主。その言葉を、ずっと待っておりました』
影は深々と頭を下げた。主が自ら「王」としての道を歩むと決断した瞬間、二人の魂を結ぶ契約の鎖は、もはや神ですら断てぬほど強固なものへと昇華された。
「影、一つ聞きたい。君の魔力を応用して、どこまでのことができる? たとえば……僕の姿と声を、大陸中の全ての国々に、同時に投影することなんて可能か?」
これまでの自分を殺し、レベルという神の理を否定する「支配者」として君臨するために。
アルトの問いに、影は傲岸不遜な笑みをその声音に宿して答えた。
『容易いことです。基本魔法の極致はもちろん、それを影の魔力で歪曲させた独自の権能……。空間という壁を越え、数多の場所に主の威光を映し出し、異端の言葉を刻みつけるなど、私にとっては造作もありません。主が望むのであれば、この世界の空そのものを、主の瞳で埋め尽くすことさえ可能でしょう』
「……いい。なら、準備を進めてくれ。僕たちの『侵攻』の準備を」
アルトは立ち上がり、ボロボロの宿の窓際へ歩み寄った。
窓の外には、鉄鋼国バルガの国境線が、月光を反射して銀色に光っている。
これまでの「逃走」は、今日ここで終わる。
明日からは、自分を怪物と呼んだ世界へ、本物の怪物を解き放つ番だ。
自分を拒絶した世界を、一滴の光も通さぬ影で染め上げ、跪かせる。
アルトの背後では、三体の分隊影が闇の中から這い出し、主の意志に応えるように、静かに、しかし狂おしくその牙を研いでいた。
「行こう、影。……僕たちで世界を作るんだ」
月明かりの下、漆黒の少年と、その影に潜む災厄たちが、世界の理を壊すための最初の一歩を踏み出そうとしていた。




