30話 深淵がのぞく聖騎士
崩壊した白亜の尖塔。その頂から降り注ぐ白砂のような粉塵が、銀色の月光を乱反射させ、玉座の間を幻想的かつ不気味な灰色に染め上げていた。かつては平和と調和の象徴であったその場所も、今はただ、崩れゆく石塊と沈黙が支配する墓標に過ぎない。
その静寂を裂くように、アルトの足元が脈打ち始めた。
折れた大理石の柱が落とす深い影から、漆黒の「影の分隊」が主人と影の本体の登場を歓迎するようにぬらりと立ち上がる。それは物理法則を真っ向から否定し、重力さえも無視した巨大な輪郭を形成していく。ドロリと地面を侵食し、広間の床を闇で塗りつぶしてゆく。
「……何だ、この不気味な気配は」
カイル・ヴァン・アストレアが、端正な眉を不快げに潜め、黄金の彫刻が施された剣を構え直した。**《Lv62》**という、常人には到底到達し得ない卓越した感覚を持つ彼でさえ、目の前の存在が「生命」なのか、あるいは「現象」なのか判別できずにいた。ただ、肌を刺すような絶対的な死の予感だけが、彼の本能を激しく揺さぶっている。
『皮肉なものですね、光の信奉者よ』
最強の影の声が、冷たく、そして重厚に広間の壁を震わせた。アルトにとっては聞き慣れた、安らぎさえ覚える深い声。だが、敵対するアストレアにとっては、それは脳髄を直接冷たい指で撫で回されるような、逃げ場のない悪寒を伴う呪音であった。
『この街フェルゼンは、眩いほどの光に満ちている。結界の王が掲げた理想の光、そして貴殿が誇示する独善的な聖光……。だが、忘れてはならない。光が強ければ強いほど、その裏に潜む我ら「影」は、より深く、より濃密に、鋭く研ぎ澄まされるということを』
影の輪郭が、月光を吸い込んでさらに黒さを増していく。
『貴殿らがこの国の空に浮かんでいた忌々しい結界を破ったことで我ら影の姿を成すことができたのです。感謝いたしますよ、聖騎士様』
「戯言を……! 訳のわからぬ魔術で虚勢を張るなッ!」
アストレアが激昂した。彼の身体から溢れ出した黄金の魔力が、聖騎士の鎧を白熱させ、周囲の空気をパチパチと焦がしていく。彼はその輝きを剣に集束させ、眩いばかりの一歩を踏み出した。
対する最強の影は、微動だにせず、自身の足元に広がる影の底へと、ゆっくりと左手を差し込んだ。
それはまるで、水面に手を浸すかのように滑らかだった。
影が引き抜いたのは、全長二メートルを超える漆黒の大剣。
いかなる光も反射せず、ただ周囲の風景を歪ませるその刃は、まるで世界の理に開いた「次元の裂け目」そのものだった。影は無造作にその巨剣を肩に担ぎ、紅い瞳を妖しく発光させる。
『……小手調べといきましょうか。神に選ばれたという、その「器」の底がどれほどのものか。……底が抜けていなければ良いのですが』
その侮蔑を含んだ静かな挑発が、アストレアの理性を完全に焼き切った。
「死ねッ! 落ちこぼれの飼い犬がぁぁぁ!!」
カイル・ヴァン・アストレアが、その場から掻き消える。
爆発的な踏み込みによって床の石畳が粉々に砕け散り、凄まじい風圧が周囲の粉塵を吹き飛ばした。常人の目には、もはや彼の姿を捉えることなど叶わない。ただ、空間を一直線に縫い合わせるような、眩い一筋の黄金の線が走ったようにしか見えなかった。
それはLv62という、人の身に許された極致の速度。
アストレアの瞳は、標的である「最強の影」の喉元一点のみを冷酷に射抜いている。彼が手にする、聖王都の神聖な祈りが込められた細剣――レイピアが、大気を切り裂き、流星のごとき速度で深淵へと突き刺さる。
「……消え失せろ、不浄の化け物が!」
勝利を確信したアストレアの叫び。その鋭利な剣先が、影の喉を貫く――。
誰もがそう思った、その刹那だった。
ガキィィィィィィィン!!
硬質な、しかしどこか空間そのものが軋み、悲鳴を上げているような不快な衝撃音が広間に轟いた。
最強の影は、微動だにしていない。一歩も、一分も、その場から動いてはいなかった。ただ、無造作に、漆黒の大剣の腹を自身の喉前に置いた。それだけで、アストレアが放った渾身の刺突を、完璧な静止のなかで受け止めていたのだ。
「なっ……!? 防いだというのか、この私の一撃を……この速度を!」
アストレアの驚愕が、その端正な顔を歪ませた。
黄金の闘気を纏った全力の突進。それを、まるで羽虫でも払うかのように、事も無げに遮断されたのだ。彼は即座に舌打ちし、弾かれるようにバックステップで後退した。
石畳を蹴り、距離を取る彼の額からは、一筋の冷や汗が流れる。しかし、そのプライドが恐怖を上回った。彼はすぐさま重心を落とし、次なる攻撃の構えをとる。
「ならば、これでどうだ! 聖王都の正義を刻んでやる! 《聖域の連閃》!」
アストレアの身体が、再び光の奔流となった。
今度は単なる突進ではない。前後左右、上下左右。八方から同時に襲い掛かる残像の嵐。空間を埋め尽くすほどの無数の剣閃が、網目のような光の檻となって最強の影を包み込んだ。
シュシュシュッ、という空気を断つ鋭い音が連続し、影の周囲で黄金の火花が激しく散る。
だが、影はやはり避ける素振りすら見せなかった。
荒れ狂う暴風雨のなかで、悠然と聳え立つ大岩のように。アストレアが放つ「光の点」と「光の線」による無慈絶え間ない連撃を、その黒い装束の表面で、あるいは大剣の刃で、淡々と受け流し続けている。
「はははっ! 所詮は鈍重な化け物か! 私の剣戟に追いつけまい! 切り刻まれ、闇の塵に還るがいい!」
手応えはある。アストレアの掌には、確かに剣を叩きつけている確かな感触が伝わっていた。聖域の剣技をもってすれば、どんな高レベルの魔物であっても、やがてはその実体を維持できなくなり霧散するはずだ。
勝利を確信した彼は、とどめを刺すべく三度目の踏み込みを開始しようとした。
だが。
「……あ、……え?」
その瞬間、アストレアの右手に、説明のつかない「奇妙な軽さ」が走った。
彼は動きを止め、自分の右手に握られた「誇り」を見やる。
そこにあったのは、かつて白銀の光を放っていた聖王都特製の名剣ではない。刀身の半分以上が、まるで数千年の歳月を経て朽ち果てたかのように、ボロボロと崩れ落ちていた。剣先はもはや存在せず、残った部分もまた、錆びついた鉄屑のごとく無残に崩壊していく。
「何をした……貴様、私の剣に何を……! 聖なる魔導が込められたこの剣を、どうやって壊した!」
アストレアの声が、初めて恐怖に震えた。
最強の影は、漆黒の大剣を提げたまま、仮面のような無機質な声を返した。
『何も。ただ、私の持つ影を叩くということは、「無」に触れるということ。……貴殿がその「存在」――魔力、意志、物質としての質量をぶつければぶつけるほど、その理は崩壊し、虚無に飲み込まれていく。……気づくのが遅すぎたようだ。』
影の言葉は、冷たい地下水の底から響いてくるようだった。
アストレアは、その静かな言葉に底知れぬ絶望を感じる。だが、彼はその恐怖を、より大きな怒りへと無理やり変換させた。背後に控える、冷笑を浮かべる魔導士バルタザールへ向かって、喉を引き裂かんばかりに叫ぶ。
「バルタザール! 強化だ! 早く私に最大級の身体強化をかけろ! この化け物を捻り潰す、神の如き力を寄越せ!」
「……やれやれ。手のかかる騎士様だ。これを使えば、後で肉体がボロボロになりますよ?」
バルタザールは、禍々しい骨の意匠が施された杖を天に掲げた。
その先から、不吉な紫色の魔力が溢れ出す。
「《極位深淵強化・神格剥奪》」
ドォォォォン!! という衝撃波とともに、黒紫色の雷鳴がアストレアを直撃した。
「あ、がぁ、あああああああッ!!」
アストレアが絶叫する。彼の全身の血管が、破裂せんばかりに浮き上がり、白目は真っ赤に充血した。限界を超えた魔力が彼の細胞を無理やり活性化させ、再構築していく。
その頭上に浮かぶレベルの数値が、狂ったように回転し、書き換えられていく。
Lv62 → Lv75 → Lv82
「これだ……これだ! これこそが力だ!!」
アストレアは、自身の肉体から溢れ出す爆発的なエネルギーに酔いしれ、歓喜の咆哮を上げた。
《聖域階級》。Lv70から89までの領域。それは人の理を越え、神の領域に片足を突っ込んだ者だけに許される擬似的な神域。
彼が纏う闘気は、黄金から白銀の輝きへと変質し、その周囲の瓦礫が魔圧だけで粉砕されていく。
傍で見守るアルトの視力では、もはやアストレアの動きを視覚として認識することは不可能だった。最強の影との共有意識により、脳内にオートで流れ込む膨大な「予測情報」と「敵の挙動データ」を整理することで、ようやく「今、相手が右側に回り込もうとしている」という事実が理解できるレベル。
だが、その絶望的な領域に至った攻撃でさえも。
最強の影にとっては、止まっているも同然だった。
『……満足か? その借り物の力で。その程度の理で、私に届くと本気で?』
影の言葉は、冷酷なまでに静かだった。
「黙れ! 消えろぉぉぉッ!!」
アストレアが光の爆辞となった。
Lv82。その速度はもはや音速さえも置き去りにする。
だが、最強の影は、柳の枝が風を受け流すように、滑らかな、あまりにも滑らかな動作でその連撃をかわしていく。
右。左。上。下。
アストレアがどれほど死に物狂いで拳を振り抜き、折れた剣で空を裂こうとも、影はその衣の端にさえ触れさせない。ミリ単位で計算された回避。それは、戦いというよりは、残酷なまでの「格付け」であった。
『……もうそろそろ、主も退屈なさっている。』
影が、初めて自らの意思で大剣を構えた。
漆黒の刃が、わずかに揺らめく。
「な、……に……?」
アストレアが恐怖に目を見開いたときには、全てが終わっていた。
影が大剣を一閃させる。
それは「剣を振るう」という動作ではなかった。
ただ、そこにあったはずの「空間」を、静かに切り取ったかのような――。
美しく、そしてこの世で最も残酷な、終焉の軌跡だった。
「――が、……あ?」
カイル・ヴァン・アストレアの喉から、空気の抜けるような間の抜けた音が漏れた。
黄金の魔力を全身から噴き出し、身体強化魔法によって擬似的なLv82へと至ったその肉体は、無敵の象徴であるはずだった。神に選ばれたエリュシオンの精鋭。その誇りと力は、今、この瞬間も彼の内側で脈打っているはずだった。
だが、アストレアの視界が、不自然にズレた。
空中に浮かんでいたはずの自分の視線が、ゆっくりと、しかし確実に地面へと傾いていく。
次の瞬間、彼の美しい白銀の鎧ごと、その肉体は横一文字に、紙のように綺麗に真っ二つに分かたれた。
断面からは、血が噴き出すことさえ許されない。切り裂かれた先からドロリとした漆黒の闇が侵食し、細胞のすべてを虚無へと変えていく。かつてない絶技。最強の影が振るった一振りは、肉体だけでなく「存在」そのものを断ち切っていた。
「ヒッ……!? ア、アストレア様ぁぁ!!」
背後で控えていた魔導士バルタザールが、喉が張り裂けんばかりの悲鳴を上げた。
彼は狂ったように杖を振り上げ、禁忌の魔導を編み上げる。その瞳は驚愕に剥かれ、血走っていた。
「《死者回帰》……! 戻れ、戻れぇぇ! 神の理に従い、その命を再び紡ぎ直せッ!!」
まばゆい黄金の光がアストレアの亡骸を包もうとした。それは死者をも現世に繋ぎ止める、聖王都の至高の蘇生魔法。
しかし、その光はアストレアの身体に触れる直前、断面を覆う「濃厚な影の魔力」によって、まるで黒い泥に吸い込まれるように霧散した。
「な……何だ、魔力が通らない!? 蘇生が……拒絶されているというのか!?」
バルタザールは戦慄した。これは単なる死ではない。最強の影が振るった刃は、魂そのものを影の胃袋へと喰らわせ、この世界の因果交流からその存在を完全に消去していたのだ。蘇生すべき対象が、この宇宙から失われている。
最強の影の視線が、ゆっくりとバルタザールへと向けられた。
その紅い瞳に宿るのは、知性ある者の敵意ではない。底知れぬ深淵の底から見つめる、絶対的な死の深淵。
「ひ、ひぃ……あ、あぁ……」
バルタザールは、これまで多くの勇者や民を絶望の淵に追いやってきた残忍な男だった。しかし、影から放たれる圧倒的な「圧力」の前に、杖を握る指先がガタガタと打ち震え、まともな呪文を構成することさえ叶わない。
(……勝てない。これは、レベルの多寡で測れる存在ではない……! 命を……私のレベルを、すべて喰われる!!)
プライドなど、とっくに塵となって消えていた。バルタザールは剥き出しの本能に従い、全魔力を込めて叫んだ。
「《焔獄の災禍》!!」
広間全体を焼き尽くさんばかりの、紅蓮の猛火が爆発した。それは視界を遮断するための目晦まし。熱風がアルトの頬を焼き、瓦礫が赤く溶ける。その火柱の影で、彼はもう一つの禁忌術を発動させた。
「《深淵の拘束鎖》!!」
地面から無数の黒い鎖が、蛇のようにうねりながら飛び出す。それは相手を物理的に縛り上げるのではなく、影そのものを縫い止める呪術。最強の影の足元に鎖が絡みつき、その動きが一瞬だけ静止した。
「……全軍、撤退だぁ! この怪物をエリュシオンへ報告せねばならん! 逃げろ、逃げるのだぁ!!」
バルタザールの絶叫が響き渡る。彼は自らの体を影へと転移させ、闇の中へと消え去った。残されていた追討軍の兵士たちも、主が討たれ、軍師が逃げ出したことにパニックを起こし、夜の闇へと一斉に霧散していく。
最強の影が、鎖を引きちぎり、追撃に移ろうとした。その鋭い爪が、逃げゆく影を捉えようとした瞬間――。
「……いいよ、影。追わなくていい」
アルトの静かな声が、熱風の中に響いた。
最強の影は即座に動きを止め、主の命令に従い、闇の霧となってアルトの背後へと戻る。
「それより、国王陛下とカイルさんを……助けなきゃ」
アルトは、足をもつれさせながら二人の元へ駆け寄った。
床には、満身創痍のフェルゼン国王と、鎧を砕かれ、血の海に沈むカイル・ヴァン・ブライトが倒れていた。
アルトは震える手で二人に触れる。最強の影から流れ込む漆黒の癒しの力が、二人の傷口を塞ぎ、魔力を補填していく。
「よかった……生きてる」
二人は意識を失っていたが、その胸は確かに上下し、力強い鼓動を刻んでいた。アルトは安堵の溜息を漏らすが、その表情は晴れない。
彼は導かれるように、静まり返った玉座の間を抜け、崩れ落ちた尖塔の縁へと歩みを進めた。
そこから見えたのは、彼が愛し、守りたいと願った景色の「残骸」だった。
「……そんな……嘘だろ……」
アルトの喉が震えた。
昼間、太陽の光を浴びてキラキラと輝いていた、あの美しい赤煉瓦の街並みはどこにもなかった。
そこにあるのは、魔力の暴走によって粉々に砕け散った家々の残骸。
美しかった石畳の道には、巨大な獣が爪を立てたような深い削り傷が走り、そこかしこに生々しい血の跡が黒くこびりついている。
閃光騎士団の騎士たちの骸。そしてエリュシオンの軍勢が残した侵略の痕跡。
街を切り裂くような巨大な亀裂は、まるでこの理想郷に刻まれた治ることのない傷口のようだった。
涼やかだった夜風は、今や焦げ臭い煙と鉄錆の匂いを運び、生き残った市民たちの嗚咽をどこからか伝えてくる。
「僕が……僕のせいで……」
アルトは、自分の足元で静かに、従順に蠢く影を見つめた。
強大な力。神の如き一撃。それがあれば、自分は誰にも負けない。誰にも踏みにじられない。
だが、その力が振るわれるたびに、守りたかった平穏が壊れ、美しい景色が灰に変わっていく。
「……僕が、これをやったんだな」
アルトの瞳から、一筋の涙が零れ、黒い影の中に吸い込まれた。
かつての彼は、ただのLv0の少年だった。無力で、弱く、虐げられるだけの存在。
今の彼は、世界を震え上がらせる闇の主。
だが、手に入れた力と引き換えに、彼は「当たり前の幸せ」という名の光から、あまりにも遠い場所へ来てしまったことを悟っていた。
聖王都エリュシオンという巨大な悪意。
まるでそれに対抗かのように目を覚ました、影という名の暴力。
その狭間で、一人の少年は、自らが背負うべき闇の重さを、改めてその魂に刻み込んでいた。
砕け散った白亜の尖塔の上、月光に照らされたアルトの影は、どこまでも長く、どこまでも深く、壊滅した街へと伸びていった。
ー season3 完 ー




