3話 完成形の残響
隔離区の夜は、死そのものだった。
冷たい雨は止むことなく降り続き、アルトのボロ布のような服を重く湿らせている。雨を凌げる軒先を探して歩いたが、どこも先住者の《下層存在》たちが殺気立った視線を投げかけてくるため、彼は結局、崩落した教会の外壁の隅で身を丸めるしかなかった。
「寒い……っ……」
ガチガチと歯の根が合わない。
昼間の「影」の出来事は、やはり夢だったのではないか。そんな思いが頭をよぎる。もしあんな強大な力があるのなら、自分は今、こんな泥を啜るような場所で震えているはずがないのだから。
その時だった。
アルトの目の前、降り注ぐ雨を切り裂くようにして、地面の「闇」が盛り上がった。
「――ッ!?」
声にならない悲鳴を上げ、アルトは背中を壁に打ち付けた。
泥水の中から、漆黒の粘液が立ち上がる。それはゆっくりと、だが確実に人の形を形成していく。それは昼間に男たちを圧倒したあのシルエット――アルト自身に似ているが、決定的に何かが違う。
筋骨隆々とした体躯ではない。だが、そこに存在するだけで空間が歪むような、絶対的な「完成度」を感じさせる輪郭。顔があるべき場所には、感情を一切排したような冷たい闇の揺らぎがあるだけだ。
「……化け、もの……」
アルトの震える声に反応するように、その影は静かに片膝を突いた。
驚くべきことに、その影の頭上には、あの大導師でさえ見たことのない漆黒の文字が浮かび上がっていた。
『――《影位存在》』
『――《本来到達し得た最終形》』
その影は、アルトにしか見えていないようだった。すぐ側を通り過ぎたネズミも、遠くで焚き火を囲む浮浪者も、この異様な存在に気づく様子はない。
影が、ゆっくりと顔を上げた。
声は、空気を震わせるのではなく、アルトの魂に直接突き刺さるような重低音として響く。
『――主よ。命令を』
「……しゃべった?」
アルトは目を見開く。
『私は貴殿の影。貴殿がこの世界の矮小な理から解き放たれ、至るべきであった終着点。貴殿の望みは私の望み。貴殿の敵は私の敵』
影の周囲で、雨粒が空中で静止した。重力さえもがその存在に跪いているかのようだった。
『命じてください。まずは……貴殿をこの泥濘に突き落とした、あの白き都を滅ぼしますか? それとも、先ほど貴殿を害そうとした下等生物どもの首を撥ね、並べますか?』
影の提案は、あまりに淡々と、事務的な「最適解」として提示された。
そこには憎しみすらない。ただ、主の不利益を排除するという徹底的な機能美だけが存在していた。
アルトの脳裏に、自分を嘲笑った神官や、ゴミを見るような目を向けた衛兵たちの顔が浮かぶ。
(……こいつなら、本当にやれる。あんなに高かった城壁も、あの傲慢な聖騎士たちも、この影なら一瞬で……)
復讐の誘惑が、冷え切った心に小さな火を灯した。
自分を拒絶した世界を、今度は自分が拒絶する。その権利が、今、目の前の闇から差し出されている。
だが、アルトはその「黒い手」を取らなかった。
「……嫌だ」
震える声で、アルトは拒絶した。
『……拒否、ですか』
「あぁ。そんなこと、望んでない! 僕は……確かにあの人たちが憎い。でも、殺したいわけじゃない。こんな力を使って、誰かを消して……それで僕のレベルが上がるのか!? 僕は人間として認められたいんだ。化け物の親玉になりたいわけじゃない!」
アルトの叫びは、虚しく雨音に吸い込まれていく。
《下層存在》の少年が、この世の頂点に立つ力を前にして放った、あまりに青臭く、あまりに切実な抵抗。
影は、しばらく無言でアルトを見つめていた。
感情のない闇の奥底で、何かが計算されているような、冷酷な静寂が流れる。
『理解不能です。貴殿の肉体は死の寸前であり、社会的地位は皆無。私の力を行使することが、生存率を最大化させる唯一の手段。……なぜ、この最適解を選ばないのですか?』
「うるさい……。僕は僕だ。たとえレベルが0でも、人殺しにはなりたくない。……消えろ。どこかへ行ってくれ」
アルトは耳を塞ぎ、顔を伏せた。
影は主の頑なな拒絶を受け、その形を少しずつ霧散させていく。
『承知しました。命令があるまで、潜伏します。……しかし、お忘れなきよう。世界は貴殿が思うほど寛大ではありません』
影の声が遠のいていく。
『貴殿が「正しさ」を貫こうとするほど、世界は貴殿を追い詰めるでしょう。その時、最後に頼るのは……結局、この闇であるということを』
最後の言葉が消えると、そこには再び、降りしきる雨と、泥にまみれた一人の少年の姿だけが残った。
「はぁ……はぁ……っ……」
アルトは自分の胸を強く押さえた。
心臓が激しく脈打っている。影の存在が消えても、内側にあるあの「熱」は消えていない。
(守られているのに、全然嬉しくない……)
影は、アルトが望んだ未来の姿だという。
だが、その完成形は、今のアルトが最も大切にしたい「心」を切り捨てた果てにあるように思えてならなかった。
アルトは重い体を引きずり、再び暗闇の中を歩き出す。
レベル制度が支配するこの世界で、レベルを持たないまま、影の力にも頼らず生き抜く。
それがどれほど絶望的な道のりであるか、今の彼はまだ、本当の意味では理解していなかった。
背後の壁に映る彼の影は、主の意志に反して、不気味に長く、鋭く伸びていた。




