29話 溢れる影の深淵
フェルゼンの夜空を切り裂いた轟音の正体。それは、平和の象徴である白亜の尖塔が、内側から食い破られた断末魔だった。
「……っ、この嫌な魔力……!」
アルトは影の剣を握り締め、瓦礫の舞う尖塔へと走った。結界が崩壊したことで、これまでアルトの体を縛り付けていた見えない重圧が、嘘のように消え去っていた。自由になった体。だが、それと引き換えに放たれたのは、足元の闇に潜む「最強の影」のどす黒い殺気だった。影はドロリと液体のように広がり、周囲の地面を侵食していく。もはや潜める気さえないその魔力は、夜の闇よりも深く、禍々しい。
アルトは瓦礫が降り注ぐ石畳を、尖塔の最上階にある玉座の広間へと向かって駆け出した。
辿り着いた広間の扉は、無惨にも内側から吹き飛ばされていた。
かつてはステンドグラスから差し込む陽光が美しく床を彩り、静謐な空気が満ちていたであろうその場所は、今や見る影もない破壊と屈辱の舞台へと変貌していた。
「……あ、あぁ……」
アルトは息を呑んだ。広間の中央、血に濡れた床に膝をついていたのは、フェルゼンの国王と、そして――あの英雄、カイル・ヴァン・ブライトだった。
白銀の鎧は砕け、高潔な表情は苦痛に歪んでいる。
その傍らで、細身の聖騎士剣を弄びながら、冷酷な笑みを浮かべて立っている男がいた。
アルトはその顔に見覚えがあった。かつてエリュシオンの『神託の儀』で、眩い光とともに周囲から称賛を浴びていた期待の新星。
「……アストレア……」
カイル・ヴァン・アストレア。
頭上に浮かぶ数値は**《Lv62》**。
かつての英雄ブライトと同じ姓を持つその男は、自身の兄であるブライトの頭を、剣の鞘で無造作に踏みつけるように叩いた。
「どうしたんですか、兄上。フェルゼンの守護聖人、閃光のブライト様ともあろうお方が。……Lv54? そんな低い数値で満足して、辺境のゴミ溜めを守っていたツケが回りましたね」
「アストレア……貴様、なぜ……聖王都の手先となって……」
ブライトが吐血しながら声を絞り出すが、アストレアは冷たく笑うだけだった。
「手先? 違いますよ。私は『精鋭』に選ばれたのです。世界で唯一、神に選ばれたエリュシオンの、さらに頂点たる騎士団にね。……あなたのような落ちこぼれの兄とは違う。この国のレベル隠蔽などという小細工、私の隣にいる魔導士様の手にかかれば、子供の紙細工も同然だ」
アストレアの横には、青白い顔を不気味に歪めた魔導士、バルタザールが宙に浮遊していた。彼の禁忌の魔術によって、フェルゼン国王は魔力を完全に封じられ、抵抗することすら叶わぬまま、無残に床に伏せられている。
「エリュシオンこそが世界の理。それ以外はすべて低級な不浄……。兄上、あなたは死に場所を間違えたのですよ」
アストレアは力なく垂れ下がったブライトの髪を掴み上げて無理やり顔を上げさせる。その瞳に宿る絶望を心ゆくまで愉しむように、至近距離で嘲笑を浴びせる。兄弟でありながら、そこにあるのは血の繋がりを否定するほどの、圧倒的な「レベル」への狂信だった。
柱の影からその光景を凝視していたアルトの全身が、激しい怒りで沸騰した。
自分に優しくしてくれたこの国を。
自分を助けてくれた、あの高潔な英雄を。
「レベル」という数字だけを信じる独善的な悪意が、今まさに踏みにじろうとしている。
アルトの胸の内で、何かが決定的に壊れ、そして再構成された。
「……影」
アルトが静かに声を漏らすと、足元の闇が呼応し、巨大な鎌首をもたげた。
『――お呼びですか、主よ。あの傲慢な光の塵を、今度こそ消し去りますか?』
「……ああ。決めたよ」
アルトは強烈な死の圧力を放つ影を背後に連れ、広間の中央へと一歩踏み出した。
これまで、彼はどこかで「人を殺めること」を恐れていた。もし自分の意思で影の力を使って命を奪えば、自分は二度と人間には戻れないのではないか。本物の化物になってしまうのではないかと。
だが、目の前で悦に浸るアストレアという「悪」を止めるには、そんな生ぬるい迷いは不要だった。
「影。……全力で行く。相手の命の保障は、もういらない。……あいつらを、止めろ」
『――その言葉、待っておりました。……深淵の真髄、御覧に入れましょう』
最強の影が歓喜に震え、アルトの全身を包み込むように魔力を膨れ上がらせる。
アルトの瞳は、もはや少年のそれではなく、深い漆黒の魔力に染まっていた。
Lv0の少年。そしてその背後にそびえ立つ、死そのものの具現。
二つの影が重なり合い、世界の理を、レベルという名の欺瞞を、根本から叩き潰すための「最悪の力」がいま、解き放たれようとしていた。




