28話 影の兵装と、震える白塔
「少年、動けますか?」
凛とした声が、重苦しい空気を切り裂いた。
声の主は、カイル・ヴァン・ブライト。白銀の鎧を纏ったその姿は、闇の中でも自ら光を放っているかのように神々しい。鎧の至る所には、激戦を物語る黒い煤や細かな擦り傷が刻まれているが、その立ち姿に一切の乱れはなかった。
カイルは倒れ伏した執行官から視線を外し、鋭い眼光で夜の街並みを見据えた。その瞳には、騎士団長としての責任と、迫りくる災厄に対する深い警戒が宿っている。
「今、フェルゼンはかつてない危機に瀕しています。聖王都エリュシオンの軍勢が、複数の地点から結界を強行突破し、大規模な襲撃を開始しました。私は団長として、散開した残党を狩り、市民を保護しに行かねばなりません」
カイルはアルトの元へ歩み寄ると、その華奢な肩を一度だけ、力強く叩いた。手袋越しに伝わるその温かさと重みは、アルトに「生きている」という実感を強く刻み込む。
「生き延びなさい。君の命には、数字以上の価値があるはずだ」
言い残すと同時に、カイルの身体が淡い白光に包まれた。次の瞬間、彼は一陣の疾風と化し、重厚な鎧の音さえ置き去りにして闇夜へと消えていった。
「エリュシオンが……本格的に動き出したんだ」
一人残された路地裏で、アルトは震える自分の掌を見つめた。
指先は冷たく、力が入らない。英雄カイルが残していった熱量は、今のアルトにはあまりにも眩しすぎた。白銀の背中は瞬く間に遠ざかり、そこにあるはずの「救い」に手を伸ばす資格さえ、Lv0の自分には備わっていないように思えてならなかった。
(僕は……ただ立っていることしかできないのか……?)
自責の念が胸を締め付け、膝が折れそうになったその時だった。
どろり、と足元の「影」が蠢いた。
それは今までの波紋のような揺れではない。煮え立つマグマのように、あるいは怒りに震える獣のように、激しく、濃密にのたうった。
『――主よ。嘆く必要はありません。フェルゼンの結界が、外部からの攻撃により著しく低下しています。不浄を拒む「光の檻」が綻んだ今なら……我らも、より確かな形を成せましょう』
最強の影の、氷のように冷たくも、絶対的な忠誠を誓う声が脳内に響き渡る。
アルトの影が爆発するように膨れ上がり、そこから三つの黒い塊が弾け飛んだ。
シュンッ、という鋭い風切り音と共に実体化したのは、三体の異形の兵士。
《影の分隊》Lv22。
彼らは全身を夜の帳を織り上げたような漆黒の甲冑で包み、その頭上には、闇の中でも鮮明に浮かび上がるレベル表記が静かに発光している。
三体の分隊は、主であるアルトの窮地を救えなかった悔恨を滲ませるように、一糸乱れぬ動作で片膝を突き、深々と頭を垂れた。
そのうちの一体が、自身の胸元――心臓があるべき位置から、影を抉り取るようにして一本の剣を引き抜いた。
それは、光を一切反射しない「虚無」そのものの色をした長剣だった。分隊は両手でその剣を捧げ持ち、アルトへと差し出す。
「これは……」
アルトが吸い寄せられるようにその柄を握った瞬間、指先から脳髄へ向かって、凄まじい電撃のような衝撃が駆け抜けた。
「っ……あああぁ!」
それは痛みではない。己の魂が拡張されていくような、未知の感覚。
先ほどまで手にしていた騎士の細剣は、重く、他人の所有物であることを主張するような違和感があった。だが、この漆黒の剣は違った。
羽根のように軽く、それでいて抜き身の神経を握っているかのように、アルトの思考をダイレクトに刃へと伝える。
魔力で構成されたこの「影の剣」は、持ち主の意志を物理的な破壊力へと変換する、アルト専用の「牙」そのものだった。
「……行こう。最強の力を出すには、まだ結界が邪魔だけど……今の僕にしか、できないことがあるはずだ」
アルトは剣を一度振った。空気を切り裂く音が、暗い路地裏に決意の残響を残す。
彼は顔を上げ、悲鳴と火の手が上がり始めた街の中枢へと駆け出した。
街は大混乱の渦中にあった。
美しい石畳の道は荒らされ、建物の窓ガラスは割れ、逃げ惑う人々の悲鳴が夜の静寂を塗り潰している。
「見つけたぞ、異端のガキめ!」
路地から飛び出してきたのは、エリュシオンの追討兵たちだった。
その頭上には、Lv35、Lv38という数値が浮かぶ。
かつてのアルトであれば、その数字を見ただけで足が竦み、死を覚悟しただろう。Lv0とLv30台――そこには、絶望という言葉でも足りないほどの絶対的な「暴力の差」が存在する。
だが。
『右だ。重心を低く。影の刃は、肉ではなく、そこを流れる魔力回路を断つイメージで振るいなさい』
脳内に最強の影の冷徹な、しかし確かな助言が響く。
アルトの視界が、青白いグリッド状の光に覆われた。敵の動きが、筋肉の収縮から魔力の流れまで、スローモーションのように「最適解」として刻まれる。
「はぁぁぁっ!」
三体の分隊影が、主を先導するように死角へと回り込む。
一人が盾となり敵の剣を弾き、一人が足を払い、一人が首筋を狙う。その一瞬の、コンマ数秒の注意の逸れ。
アルトは大地を蹴った。
Lv0の筋力。本来なら届くはずのない距離。
だが、手にした影の剣がアルトの踏み込みを加速させる。
漆黒の刃が、追討兵の鎧の隙間――魔力が最も集中する心臓部を、吸い込まれるように貫いた。
「な、……馬鹿な……Lv0に……」
追討兵は驚愕に目を見開いたまま、その場に崩れ落ちた。
「はぁ……っ、はぁ……、はぁ……!」
アルトの呼吸は激しく乱れている。
今の敵一体を仕留めるのに、精神を限界まで削り、分隊の援護をフルに使ってようやく数分。
魂に直接干渉している剣の影響でアルトの体はかつてない程の力を受け悲鳴をあげていた。
カイル・ブライトなら、一振りで数十人を薙ぎ払っただろう。アルトの戦いは、それとは程遠い。泥を啜り、一歩一歩を命懸けで踏み出すような、無様で泥臭い戦い。
それでも。
影の剣はアルトの未熟な身体能力を補い、世界が定めた「レベル」という絶対的な格差を、闇の力で強引に塗りつぶしていた。
「次が……来る」
アルトは血の混じった唾を吐き出し、再び剣を構える。
英雄にはなれない。白銀の鎧も持っていない。
だが、自分にはこの闇がある。自分を信じ、命を捧げる影たちがいる。
その時だった。
フェルゼンの夜そのものが、絶望に震えるような「絶鳴」を上げた。
――ドォォォォォォン!!
空間が歪むほどの凄まじい衝撃波。
爆風に煽られ、アルトは壁に激突しそうになりながらも、空を仰いだ。
「なんだ……あれ……」
アルトの瞳が、驚愕に染まる。
街の北側にそびえ立つ、フェルゼンの希望の象徴――あの「真っ白な尖塔」の頂から、天を突くような巨大な光柱が立ち上っていた。
それは美しい、あまりにも美しい純白の輝き。
しかし、その光は祝福ではない。
尖塔は内側から引き裂かれるように軋み、白亜の壁には巨大な亀裂が走る。
ドゴォォォォン!! という地鳴りが続き、街の至る所で地面が激しく揺れた。
「嘘だろ……。あの塔が……結界の核が……!」
空を見上げれば、フェルゼンを優しく包み込んでいた、目に見えぬ虹色の膜が、まるで砕けたガラスのようにキラキラと光りながら、夜空に散っていくのが見えた。
世界を不浄から守り、アルトの影を抑えつけていた絶対的な防壁。
それが今、跡形もなく崩壊したのだ。
光柱が消えた後の夜空は、不気味なほどに黒く、深い。
守護を失った理想郷は、いまや無防備な肉体となって、エリュシオンという名の刃の前に晒されていた。
「結界が……消えた……」
アルトは立ち尽くす。
足元から、抑圧を失った最強の影が、これまでにないほど禍々しく、そして巨大な歓喜の胎動を上げ始めたのを、彼は全身で感じていた。
混乱の極みに達したフェルゼンの街に、さらなる絶望の影が、ゆっくりと、確実に降り注ごうとしていた。




