26話 侵食する理
昨日と変わらぬ、眩いばかりの朝陽がフェルゼンの街を照らしていた。
赤煉瓦の屋根が輝き、パン屋から流れる香ばしい匂いが鼻をくすぐる。アルトは、宿の主であるハンスが丹精込めて用意してくれた、黄金色に透き通る温かな野菜スープと、噛みしめるほどに滋味溢れる堅焼きのパンを丁寧に平らげた。胃の腑から全身へじわりと広がる熱は、心地よい充足感となって彼を包み込み、アルトは一週間の疲れが溶けていくのを感じながら宿の扉を押し開けた。
「いってらっしゃい、坊や。今日はいい天気だぞ!」
ハンスの、大樽を叩くような快活な声に見送られ、アルトは朝露に濡れた石畳の通りへと一歩を踏み出した。
だが、その黄金色の平穏は、通りの角を曲がった瞬間に、まるで見えない氷の刃を突きつけられたかのように冷たく凍りついた。
「……何だ? 人が集まっている」目抜き通りから一本入り、古い石壁に囲まれた路地裏の入り口。昨日までなら猫が欠伸をしながら通り抜けるだけの静謐なその場所に、十数人の市民が塊となって立ち尽くしていた。遠巻きに何かを覗き込む人々の横顔には、昨日までの柔らかな笑みはひとかけらもなく、そのかわりに戸惑いと得体の知れない恐怖が張り付いている。
アルトは胸の奥をざわつかせながら、隣にいた老人の肩を慎重に叩き声をかけた。
「あの……何かあったんですか?」
老人は振り返ったが、その瞳は焦点が合わず、泳いでいた。
「……夜警の若い衆がな、死んでたんだよ。喉を一突きだ。この平和なフェルゼンで人殺しなんて、何年ぶりか……」
アルトの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。背伸びをして人だかりの隙間を縫うように覗き込み見えたのは、朝陽の届かぬ冷酷な路地裏の影の中で石畳に横たわる兵士の遺体と、その周囲を取り囲む『閃光騎士団』の面々だった。昨日の英雄、カイル・ヴァン・ブライトの姿はないが、部下と思われる騎士たちが険しい表情で地面に手をつき、魔力の残滓を辿ろうとしている。
「……おかしい。傷口にわずかな魔力の揺らぎがあるが、系統が不明だ。フェルゼンの魔法体系ではない……」
騎士たちが首を傾げる。
だが、アルトには見えていた。
最強の影との接続が生み出す「情報の洪水」。アルトの瞳が死体を見つめた瞬間、脳内にオートで吐き気を催すほど緻密な解析データが流れ込んでくる。
(傷口の鋭利な断断面、残留する神聖魔力の極めて高い密度……そして、犠牲者の魂を直接凍結させ、断末魔すら封じ込めるような冷徹な術式。――間違いない。これは、エリュシオンが誇る特異な暗殺術だ)
アルトの指先が抑えようもなく小刻みに震え始める。
聖王都エリュシオンの追討軍。彼らは既に、この結界に守られた聖域の内部へと入り込んでいる。
(僕がいるからだ。僕がここに来たから、あの人たちがこの街を見つけたんだ。僕がここに居続ければ、ハンスさんも、昨日笑ってくれた人たちも……)
アルトは逃げるようにその場を離れた。
一度宿に戻り、自室のベッドに深く座り込む。開け放たれた窓の外では、まだ太陽が燦々と輝き、街は平穏を装う美しい赤煉瓦を誇示している。しかし、アルトの目には、そのレンガの一枚一枚に、ドロリとした不吉な「死の影」が染み付いているようにしか見えなかった。
「……どうすればいい。僕が出ていけば、彼らは追ってこなくなるのか? それとも……」
迷い、葛藤し、心が千々に乱れるうちに、空は茜色から濃紺へと塗り替えられ、夜の帳が静寂とともに街を包み込んだ。
アルトは部屋の明かりを消し、窓際に膝を抱えて座りながら、闇に沈んだ通りをじっと監視していた。追討軍の性質を考えれば、本格的な狩りが始まるのは、影が最も濃くなるこの時間だ。彼らは光を標榜しながらも、闇に紛れ、音もなく「秩序の不純物」を排除することに特化している。
数時間が経過した頃――。
街の外縁、天を突く古い時計塔に近い区画で、空気が「弾ける」ような鋭い振動があった。
「……あそこだ!」
魔力と魔力が正面から衝突した際に生じる、独特の焦燥感。
アルトは窓から夜の闇へと飛び出し、建物と建物の隙間を縫うように、最短距離で現場へと駆け抜けた。この結界の干渉下では分隊を外に出すことは叶わない。しかし、影と接続して研ぎ澄まされた感覚が、闇の奥で起きている悲劇を正確に捉えていた。
現場に辿り着いたアルトは、建物の陰に身を潜めて息を呑んだ。
「な……っ!?」
そこには、三人のフェルゼン騎士団の兵士が、一人の男と対峙していた。
そして、アルトの目を疑わせたのは、彼らの頭上に浮かぶ「数値」だった。
【フェルゼン騎士】Lv31
【フェルゼン騎士】Lv31
【フェルゼン騎士】Lv31
そして、彼らの前に立つ、銀色のマントを夜風に翻すエリュシオンの追討員。その頭上には、夜の闇よりも昏く重い数字が刻まれている。
【エリュシオン追討軍・執行官】Lv42
「レベルが……見えている……!?」
ハンスが言っていた、レベルを隠蔽する白亜の尖塔の結界。それが、この現場周辺だけがガラスを叩き割ったように歪み、機能していない。追討軍側が何らかの手段で結界に「穴」を開けたのだ。
「貴様ら! 何者だ! この神聖なる自由都市で、何の目的があって刃を振るう!」
フェルゼンの騎士たちが剣を抜く。Lv31。この街では十分に精鋭と呼ばれる実力者たちだ。三人がかりであれば、格上の相手とも渡り合えるはずの数値。
しかし、Lv42の執行官は、冷たく細い剣を弄びながら嘲笑った。
「レベル30程度の雑兵が、神の理を代行する我らに刃を向けるか。……その無知こそが、不浄の証。身の程を知りなさい」
「行くぞ! 奴を包囲しろ!」
三人の騎士が同時に踏み込む。一人が正面から盾を構え、残る二人が左右から鋭い突きを放つ。完璧な連携だった。だが――。
「――遅い」
執行官の姿が、一瞬でかき消えた。
キィィィィィィィン! と、空間を切り裂くような鋭い音が三度。
「が、は……っ!」
「な……に……」
アルトが瞬きをする間に、
三人の騎士は、胸元を、正確無比かつ深く切り裂かれ、石畳の上に崩れ落ちていた。噴き出した鮮血が、月光を反射して紅い宝石のように飛び散る。
圧倒的な力量差。Lv31とLv42。数値上は「11」の差だが、それは「人間」と「怪物」を分かつほどの絶望的な深淵だった。
「……ふむ。フェルゼンの結界は脆いですね。一度穴を開ければ、レベルという真実がこれほど鮮明に浮かび上がる」
執行官は、倒れ伏す騎士たちの頭上の「Lv31」という数値を蔑むように見下ろすと、返り血を拭った。
建物の陰で、アルトは全身の血が逆流するような恐怖に襲われていた。
分隊は出せない。最強の影も動けない。
自分はLv0。対する敵はLv42。
今ここで飛び出せば、自分もあの騎士たちと同じように、一瞬で塵にされるだろう。
(怖い……。行っちゃダメだ、今の僕じゃ勝てるはずがない……!)
足が震え、後ろに下がりそうになる。
だが、脳裏に浮かんだのは、昨夜ハンスが語った言葉だった。
『数値が人を定義するのではない。その者の行いが人を定義するのだ』
そして、自分を助けてくれた英雄、今目の前で倒れた騎士たち。
自分の「弱さ」を理由に逃げ続ければ、この赤煉瓦の街は、エリュシオンの冷たい石畳へと変わってしまう。
(ここで止めなきゃ……。僕が、僕であるために!)
アルトは、震える手で自身の胸元を強く掴んだ。
無限の魔力は、まだ自分の中に眠っている。
結界で封じられているなら、それを「内側から食い破る」しかない。
アルトの瞳に、絶望を塗りつぶすほどの昏い決意が宿った。




