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25話 食卓と英雄

宿屋の中にあるはじめて訪れる食堂には、空腹を芯から刺激するような、芳醇で多層的な香りが充満していた。

直火で炙られた脂の乗った肉が爆ぜる音。新鮮なハーブが熱を通され、爽やかに鼻腔を抜ける香り。それはエリュシオンの無機質な食卓では決して味わえなかった、生きる喜びそのもののような匂いだった。

アルトは、宿主であるハンスが惜しみなく提供してくれた夕食を、夢中で頬張っていた。口の中で解ける肉の旨みと、地元で採れたであろう瑞々しい野菜の甘み。温かなスープが喉を通るたびに、冷え切っていた内臓がじんわりと熱を取り戻していく。

一息ついたアルトは、先ほど草原の門付近で目撃した、あの鮮烈な光景を思い出しながら口を開いた。

「……信じられませんでした。一瞬だったんです。僕が手も足も出せなかった魔物が、まるで穏やかな風が吹いたみたいに、跡形もなく消えてしまって……」

その言葉には、恐怖よりも純粋な憧れが混じっていた。アルトの話を、カウンターで酒瓶を拭きながら聞いていたハンスは、あははと快活な笑い声を上げ、自分のことのように誇らしげに胸を張った。

「ほう、そいつはとびきりの運に恵まれたんだな、坊や。その白銀の鎧に、光を纏ったような剣捌き……間違いない。坊やを助けてくれたのは、この国が誇る『閃光騎士団』の団長、カイル・ヴァン・ブライト様だろうね」

「カイル……団長……」

アルトはその名を、壊れ物を扱うようにそっと舌の上で転がした。

「ああ。このフェルゼンが誇る最高戦力であり、私たちの誇りだ。数年前だったかな、聖王都の方から迷い込んだとされる巨大なドラゴンが、山のような魔物の群れを引き連れてこの国に牙を剥いたことがあってね。空が真っ黒に染まるほどの絶望的な光景だったが、カイル様率いる騎士団が真っ向からそれを迎え撃ったんだ。最後には彼がたった一人で、天を衝くようなドラゴンの首を落としたのさ。今じゃ街の赤ん坊でも知ってる英雄だよ」

ハンスの語る英雄譚は、まるで美しい絵巻物のようにアルトの脳裏に広がった。

カイルは単なる戦士ではない。この国を包み込む結界の守護者であり、市民たちのささやかな日常を支える希望の象徴。ハンスの瞳に宿る深い敬愛の念が、何よりもその証左であった。

(ドラゴンを単独で……。エリュシオンの外にも、あんなに強い……それでいて、あんなに優しい人がいるんだ)

アルトは、カイルの洗練された無駄のない剣技と、去り際に自分へ向けられたあの陽だまりのような穏やかな微笑みを思い返した。

聖王都エリュシオンの強者たちは、常に冷徹で、力は他者を「支配」し「屈服」させるための道具に過ぎなかった。しかし、この国の英雄が振るう剣には、誰かを「守る」という尊い意志が宿っている。

その決定的な違いが、氷が解けるようにアルトの強張った心を優しく温め、このフェルゼンという国への信頼を確かなものに変えていった。

「さあ、食事が終わったら風呂にしていきな。坊やには特大の一番風呂を沸かしておいたから!」

ハンスの豪快な勧めに従い、アルトはこれまでの過酷な人生で一度も経験したことのない、至福の時間を迎えることとなった。

脱衣所の扉を開けると、白く柔らかな湯気が一気に視界を覆った。

広々とした石造りの浴槽には、並々と透明なお湯が湛えられている。

「……っ、ふぅ……っ」

ゆっくりと、慎重にお湯に身を沈めていく。

沈黙の樹海で泥と返り血にまみれ、死神の鎌が喉元をかすめるような死線を超え続けてきた、少年の華奢な肉体。その隅々にまで蓄積していた重い疲労と強張りが、お湯の柔らかな抱擁によって、とろけるように解きほぐされていく。

肌を伝う熱は、まるで慈母の手のひらのように優しく、こびりついた汚れだけでなく、心に溜まっていた暗い澱までをも洗い流してくれるようだった。

風呂上がり、ハンスが用意してくれた清潔な寝巻きに袖を通し、案内された部屋の窓を静かに開ける。

「……わあ……」

思わず感嘆の声が漏れた。

そこに広がっていたのは、宝石箱をひっくり返したような、フェルゼンの澄み渡る夜景だった。

地上には街灯の柔らかな橙色が石畳を照らし、見上げれば、エリュシオンを覆っていた厚い雲の蓋など存在しない、果てしない宇宙の神秘。紺青の天幕に散りばめられた無数の星々は、どれもが自ら命を宿しているかのように瞬き、幻想的な光のシャワーを地上に降り注いでいる。

「本当に……本当に、綺麗な場所だな」

アルトは、まだ温もりの残る体で、ふかふかとした枕に頭を沈めた。

清潔なシーツからは、太陽の光で干したような爽やかな匂いが漂ってくる。

耳を澄ませば、遠くで風が木の葉を揺らす囁きが聞こえ、それが心地よい子守唄となって意識を闇の彼方へと誘う。

自分の中に潜む「影」が、このフェルゼンを覆う結界によって深く沈黙していることも、今はどこか、大きな救いのように感じられた。

何も考えなくていい。明日を恐れなくていい。

自分を拒絶しない人々、温かい食事、そして美しい夜。

アルトは自分でも気づかないほど深く、安らかな眠りの海へと、ゆっくりと落ちていった。

だが、その同じ夜。

赤煉瓦の街並みが美しいフェルゼンの、陽の当たらない裏路地。

カツン、カツン、カツン――。

昼間の活気とは無縁の、冷酷で規則正しい革靴の音が石畳を叩いていた。

フェルゼンの柔らかな結界を、ナイフで切り裂くような異質な気配。

「ひ……っ! なんだ、お前たちは……!?」

夜警の男が、暗闇の中で光る「銀色の鎧」と、その中央に刻まれたエリュシオンの紋章を見て声を上げた。

「――静かに。レベルの低い命は、音を立てる資格もありません」

影の中から現れた細い杖が、夜警の喉元を突く。

「あ……が、は……っ!」

叫び声は夜の静寂に吸い込まれ、一瞬でかき消された。

エリュシオンの【異端追討軍】、その先兵たちが、既にこの理想郷の深部へと入り込んでいた。

深い眠りの中で、アルトはまだその音に気づかない。

彼が夢見ている穏やかな朝のすぐ隣で、冷たい鉄と「絶望」の足音が、一歩、また一歩と赤煉瓦の道を汚しながら近づいていた。

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