24話 光風の剣士
宿を出たアルトを待っていたのは、眩いばかりの「善意」だった。
石畳の通りを歩けば、向かいから来る商人が「おはよう、見ない顔だね!」と快活に声をかけてくる。エリュシオンの隔離区では、視線が合えば石を投げられるか、持っているものを奪われるのが常だったアルトにとって、それは奇跡のような光景だった。
「これ、焼きたてだよ。坊や、食べていきな」
「あ……ありがとうございます!」
露店のおばさんから手渡された、温かな蒸しパン。その柔らかさと甘さに心を震わせながら、アルトは街の中心へと歩を進めた。
街のどこからでも見える、あの白亜の尖塔。近づくにつれ、そこから放たれる魔力の奔流が、肌をチリチリと刺すような感覚を覚える。それは決して攻撃的なものではなく、万物を包み込み、静めるような、穏やかで強大な拒絶の波だった。
『――不快だ。主よ、この檻は何だ……。私の力が、貴殿の影の底に縫い付けられている』
脳内に、最強の影の忌々しげな声が響く。これまではアルトの意志とは無関係に這い出そうとしていた影が、今は実体化することさえままならず、主の足元で激しく蠢いている。
「……ハンスさんが言っていた結界だね。レベルを隠すだけじゃなく、外からの不浄な力を抑え込む役割もあるんだ」
アルトは尖塔を見上げ、そっと呟いた。
「影……。もしかしたら、この場所なら君の力は必要ないのかもしれない。ここでは誰もが、ただの人間として笑っていられるんだから」
『……傲慢な。光が強ければ、その分だけ闇も深くなるというのに』
影は不服そうに沈黙した。アルトの心は、街の優しさに触れるたび、少しずつ解きほぐされていくようだった。
そのまま街の散策を続け、アルトは街の外縁部、草原へと続く門の近くまで辿り着いた。平和な空気感に、つい警戒を緩めていた、その時。
「ギギィッ!」
茂みを突き破り、灰色の皮膚を持つ低級魔物が一体、アルトの目の前に躍り出た。
かつての自分なら腰を抜かして逃げていただろう。だが、数々の死線を越えてきた今のアルトは、恐怖よりも先に「戦わなければ」と、冷静に拳を握りしめることができた。
(……分隊、壱! 弐!)
心の中で命じる。しかし、影は足元で波打つだけで、形を成すことができない。フェルゼンの結界が、アルトの異能を「異常」として強く封じ込めていた。
「くっ、自分で行くしかないか……!」
アルトは地を蹴り、無防備な魔物の腹部へ向けて拳を突き出した。
だが、その一撃は乾いた音を立てて弾かれた。Lv0の少年の筋力。魔物の皮膚を凹ませることさえできず、ゴブリンは「ギャハハ」と嘲笑うかのように、鋭い爪を振り上げた。
(レベルの差は、やっぱり僕一人じゃ……!)
一時撤退を考え、足に力を込めた瞬間――。
一筋の「風」が、アルトの横を通り抜けた。
「……はぁ、迂闊でしたね」
清涼感のある、それでいて芯の通った声。
次の瞬間、アルトの目の前にいた魔物は、何が起きたのかさえ理解できぬまま、無数の細かい粒子となって大気に霧散した。
「影……?」
思わず呟くが、違う。
アルトの前には、陽光を反射する輝く白銀の軽装鎧を纏った、一人の好青年が立っていた。透き通るような金髪をなびかせ、彼は手にした細身のレイピアを、流れるような所作で鞘に収めたところだった。
「やれやれ……。私としたことが、こんな小型の魔物の侵入を見落とすなんて。騎士団の面目が立ちませんね」
青年はそう自嘲気味に呟くと、アルトの方を向き、優しく微笑みかけた。
「怪我はありませんか、少年。驚かせてしまいましたね」
「あ……はい、ありがとうございます。助かりました」
アルトが深々と頭を下げると、青年は「市民を守るのは当然の務めですから」と言い残し、風のように爽やかに去っていった。その歩き方、魔力の纏わせ方、すべてが洗練されていた。
(フェルゼンには、あんなに強い人がいるんだ……。やっぱり、僕が戦わなくても大丈夫なんだ)
安堵と、自分自身の無力さに対する微かな寂しさ。
複雑な思いを抱えながら、アルトは夕暮れに染まり始めた赤煉瓦の道を、ハンスの待つ宿へと戻っていった。




