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22話 赤煉瓦の安らぎ

フェルゼン独立領の活気溢れる大通りから一歩外れた、夕暮れの路地裏。

アルトは、壁に背を預けたまま、ずるずるとその場に座り込んでしまった。

沈黙の樹海での死闘、そして不眠不休の強行軍。無限の魔力を持つ影を連れているとはいえ、アルト自身の肉体は、まだ成長期にある一人の少年に過ぎない。神経を張り詰めさせ、影の分隊を制御し続けた代償は、鉛のような疲労となって彼を襲っていた。

「……はぁ、……はぁ……」

視界がかすむ。漆黒のフードの隙間から見える石畳が、ぐにゃりと歪む。

最強の影が、主の衰弱を察知して闇の中から現れようとした、その時だった。

「おや、大丈夫かい? 随分と酷い顔色だ」

温かみのある声が、アルトの耳に届いた。

顔を上げると、そこには豊かな髭を蓄えた、恰幅の良い中年男性が立っていた。エリュシオンの兵士たちが浮かべていた冷酷な軽蔑も、隔離区の人々が持っていた飢えた刺々しさもない。ただ純粋に、道端で倒れそうな少年を案じる「人間」の目だった。

「あ、いえ……少し、疲れただけで……」

「ははあ、慣れない旅路ってやつかな。私はこの先で宿屋を営んでいるハンスという。これも何かの縁だ。今夜は空き部屋があるから、休んでいくといい。代金なんて、元気になってから考えればいいさ」

ハンスと名乗った男は、アルトの細い肩をそっと支えた。

エリュシオンでは考えられないことだった。Lv0の者に、対価もなく手を差し伸べる者など、あの国には存在しない。アルトは戸惑いながらも、ハンスの温もりに導かれるように、レンガ造りのこぢんまりとした宿屋へと足を踏み入れた。

案内された部屋は、アルトにとって衝撃的な場所だった。

窓からは街の灯りが見え、木製のベッドには清潔で柔らかなシーツが敷かれている。隅々まで手入れが行き届いたその空間は、冷たい石床や湿った泥の上で眠るのが当たり前だったアルトにとって、この世のものとは思えないほど美しかった。

「まずはこれを食べなさい。温かいうちにな」

ハンスが運んできたのは、湯気を立てる厚切りのベーコンが入ったシチューと、焼きたての白いパン、そして新鮮な果実だった。

アルトは震える手でスプーンを取り、一口運ぶ。

「……っ」

口の中に広がる、濃厚な乳製品のコクと肉の旨み。噛み締めるたびにパンの甘みが広がる。

隔離区で配られていた、砂が混じったような黒パンや、出涸らしのようなスープとは比較にならない「食事」だった。

「美味しい……。本当に、美味しいです……」

気づけば、アルトの目から大粒の涙が溢れ、シチューの中に落ちていた。

ただ美味しいからではない。

自分のような存在を「客」として迎え入れ、まともな食事を与えてくれる。生まれて初めて、一つの個として、一人の「人間」として認められたという実感が、凍てついていた彼の心を溶かしていく。

ハンスは、アルトが食べ終えるまで静かに傍で見守っていた。そして食後、空になった皿を片付けながら、ポツリポツリと語り始めた。

「驚いたかい? この街の自由さに。……だがね、坊や。この自由も、決して当たり前のものではなかったんだよ」

ハンスは窓の外、遠くに見えるエリュシオンの方角を見つめた。

「大昔、あの聖王都から生まれた『レベル』という概念は、瞬く間に世界を席巻した。強力な個人の力が仕組みを作り、階級を生み、それが支配の正当性となった。近隣の諸国はそのあまりの武力と支配力の強さに屈し、次々と聖王都に統合されていったんだ。ここ、フェルゼンもかつてはその一つだった」

ハンスの瞳に、わずかな憂いと誇りが宿る。

「だが、17年前に今のフェルゼンの国王陛下が即位された時、すべてが変わった。陛下は聖王都による『レベルによる支配』に真っ向から反対し、独自の国家制度――能力や出自ではなく、意思と共生を重んじる制度を築き上げ、再び独立を宣言されたんだ」

アルトは息を呑んだ。自分と同じように、あの絶対的な理に抗った場所があったのだ。

「もちろん、聖王都の現国王がそれを面白く思うはずがない。表向きは沈黙を守っているが、裏では関税の吊り上げや、魔物を意図的にこちらへ流し込むといった嫌がらせが今も続いている。……それでも、私たちはこの自由を、赤煉瓦の街並みを守り抜くつもりだよ」

ハンスは優しくアルトの頭を撫でると、皿を持って部屋を後にした。

「ゆっくり休み。明日はもっと良い日になる」

一人残された部屋で、アルトは自分の掌を見つめた。

自分を人間として扱ってくれたハンス。そして、理不尽な聖王都の理に抗い、この温かな場所を守り続けているこの国。

「……守りたい」

アルトの口から、自然とその言葉が漏れた。

これまで、自分を守るために影を振るってきた。生き残るために力を求めた。

だが今、初めて「自分のため」ではなく、この優しさをくれた「世界のため」に、その力を使いたいという決意が、胸の奥底で炎となって灯った。

もし聖王都の魔の手がここへ伸びるなら、僕は僕の深淵を解き放ってでも、この赤煉瓦の平和を護り抜く。

アルトの瞳に、かつてないほど強固な意志が宿った。

深夜。

フェルゼンの街が深い眠りに就く頃。

遥か遠く、国境付近の街道では、カツン、カツンと不気味に響く、硬い軍靴の音が石畳を叩いていた。

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