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20話 境界の地平

沈黙の樹海が抱く空気は、もはや湿った静寂ではなかった。

四方八方の地平から押し寄せる、鋼が擦れ合う微かな不協和音。それは聖王都エリュシオンが放った【異端追討軍】の包囲網が、獲物の心臓を目がけて冷酷に、そして着実に絞り込まれている「死の足音」であった。

「遭遇率が上がっている……。僕たちの位置が、完全に把握され始めているんだ」

アルトは、棘のある茂みに服を裂かれながらも、必死に泥濘を蹴った。肺が焼けるように熱く、視界が恐怖で点滅する。

目指すは、この呪われた深緑を抜けた先。かつては聖王都の版図にありながら、現在は絶対的な独立を貫き、独自の魔導文明を謳歌する自由交易都市国家**『フェルゼン独立領』**。

レベルという神の階級制度に縛られず、個人の実力と商才こそが真理とされるその国ならば、Lv0という烙印を押された自分でも、明日を生きるための「居場所」が見つかるかもしれない――その、消え入りそうな微かな希望だけが、彼の足を前へと動かしていた。

「……っ、また後ろに気配が!」

アルトが恐怖に耐えかねて振り返ろうとした、その瞬間。背後の闇が、生き物のようにドロリと、不気味に波打った。

『――主よ。前だけを見ていなさい。羽虫の掃除は、既に私が済ませてあります』

アルトの後ろを歩く影の、氷の楔を打ち込むような冷徹な声。

アルトの後方数百メートル。音もなく迫っていた追討軍の精鋭たちは、その姿を主にさらすことさえ許されなかった。影の本体から解き放たれた、無数の闇の触手が、彼らが警告の叫びを上げるよりも速くその四肢を絡め取り、声ごと森の深淵へと引きずり込んでいく。

この絶対的な護衛が、アルトの影に潜んでいるおかげで、彼は一度も足を止めることなく、死の包囲網に空いたわずかな「空白」を矢のように突き進むことができた。

だが、森の出口を告げる眩い予兆が木々の隙間に見えたその時、前方の灌木が爆発したように揺れ、凶悪な牙が姿を現した。

「グルルルゥ……ッ!」

現れたのは、集団で死を運ぶ小型の捕食者――《影這いの野犬シャドウ・ハウンド》の群れ。その数、十数頭。各々の頭上には、無力な人間を絶望させるに足るLv19の数値が浮かんでいる。

かつてのアルトであれば、このうちの一頭と遭遇しただけで、自身の死を確信し、祈りを捧げることしかできなかったはずの強敵である。

「あ……」

アルトが身構え、影に助けを求めようとした、その刹那。

主の命令を待たず、三体の《影の分隊》が独断でアルトの影から弾け飛んだ。

「壱! 弐! 参!」

Lv22へと進化した分隊たちの挙動は、もはやアルトの動体視力で追える域を越えていた。

最強の影から分け与えられた、光を喰らう「影の兵装」を振りかざし、分隊たちは野犬の群れの真っ只中へと、死の旋風となって切り込む。漆黒の剣閃が空を裂き、影の長槍が魔物の心臓を正確無比に貫くたびに、Lv19の魔物たちは断末魔を上げる暇もなく、黒い霧となって霧散していった。

苦戦など、微塵もない。

それは一方的な「蹂躙」であり、冷徹な「剪定(せんてい)」であった。

アルトは、わずか数分で再び訪れた戦場の静寂を前に、呆然と立ち尽くした。

「すごい……。あんなに怖かった魔物が、今のこの子たちには、敵ですらないんだ……」

影の成長速度は、アルトの想像を絶する深淵に達していた。

レベルを一つ、また一つと積み重ね、自己補完能力を手に入れた彼らは、もはや一国の正規騎士団にも劣らぬ、苛烈なまでの戦闘集団へと変貌を遂げていたのだ。

「行こう。……もう、そこだ」

黒い霧となった野犬の死骸を乗り越え、アルトは森の境界を封じる最後の茂みを、残った力を振り絞って押し分けた。

その瞬間、彼の視界が爆発的な輝きに包まれた。

「……うわぁ……っ!」

沈黙の樹海の薄暗い閉塞感に慣れた瞳が、あまりの光量に焼け、アルトは思わず腕で目を覆った。

隙間から漏れ出た光の先に、彼が見たのは、これまで彼が知るどの景色とも異なる、対極の色彩であった。

眼下には、生命の輝きを宿した瑞々しい緑の平原が、地平線の彼方まで波打つように続いている。湿ったカビの匂いではなく、花の香りを孕んだ爽やかな風が、アルトの傷ついた頬を優しく撫で、その髪をなびかせた。

そして、その広大な平原の心臓部。

黄金の陽光を全身に浴びて白銀に輝く、威風堂々たる巨大な尖塔がそびえ立つ城塞都市。そこから四方へと血管のように伸び、人々の活気を運ぶ豊かな街道が見えた。

「フェルゼン……。あそこが、僕の……新しい場所」

聖王都エリュシオンという絶対的なレベルが支配する地を抜け、死の淵を渡りきった少年。

その瞳に、初めて「希望」という名の輝きが、白銀の都市と同じ色で宿った。

ー season2 完ー

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