2話 泥の洗礼
重厚な鉄門の向こう側――そこは、太陽の光さえも届かない「棄てられた地」だった。
聖王都エリュシオンの華やかさは、ここには微塵もない。立ち並ぶ建物は崩れ落ち、湿った石壁には黒カビがこびりついている。漂うのは、腐敗した生ゴミと、排泄物、そして死の臭いだ。
「はぁ、はぁ……っ……」
アルトは泥にまみれた体を引きずりながら、壁沿いを歩いていた。
《下層存在》として追放されてから、わずか数時間。だが、彼がこの場所で学んだ「現実」は、これまでの人生を根底から覆すほど過酷だった。
道端には、痩せ細った子供たちが虚ろな目で転がっている。彼らの上には蝿が群がっているが、追い払う気力すら残っていないようだ。さらに奥へ進めば、低レベルの《労働階級》からさらに零れ落ちた者たちが、ゴミを漁り、時には「同類」の死体から衣服を剥ぎ取っている。
ここは、レベルが低いから虐げられる場所ではない。
レベルという概念すら失った者たちが、ただ生存という本能だけで食らいつく地獄だ。
「おい、見ろよ。新顔だぜ」
「まともな靴を履いてやがる。ありゃあ『上』の余り物か?」
路地の暗がりから、いくつものぎらついた視線が突き刺さる。ほとんどがLv1と頭上に表記されている。
アルトは背筋が凍るのを感じ、俯いて歩を早めた。だが、その足元は泥に足を取られ、思うように進まない。
「……っ!」
角を曲がろうとした瞬間、アルトの胸ぐらが強引に掴み上げられた。
「どこへ行くんだ、お坊ちゃんよぉ」
目の前にいたのは、顔に大きな傷跡がある大男だった。
男の背後には、同じように薄汚れた男たちが三人。
アルトが震える目で見つめると、男の首筋にある「刻印」が薄らと光った。
「ヒヒッ……無駄だ。俺はLv8。この辺じゃあマシな方なんだよ」
男のステータスが空中に透けて見える。
《下層存在》の中では上位、だが市民にもなれない「使い捨ての暴力」。
男はアルトの痩せた体躯を値踏みするように眺め、鼻で笑った。
「さて、神託の儀で何が出た? 言ってみろ。Lv3か? それともLv1か?」
「僕は……っ、レベルは、ない……」
アルトが絞り出すように答えると、男たちの顔が歪んだ。
「あぁん? 『ない』だと?」
「《計測不能》……Lv0だと宣告されたんだ」
一瞬の静寂の後、男たちは腹を抱えて爆笑した。
「ギャハハハ! 0だってよ! 欠陥品じゃねえか!」
「Lv1以下のゴミなんて初めて見たぜ。おい、そんな奴から何が奪える?」
「……命くらいはあるだろ」
リーダー格の男の目が、急に冷酷な色に変わった。
男は腰から錆びた短剣を引き抜く。その切っ先がアルトの喉元をなぞった。
「いいか、小僧。この区画じゃあな、レベルが特に低い奴は『人間』じゃない。ただの『肉の塊』だ。お前のその服も、その若い臓物も、ここでは金になるんだよ」
「やめて、くれ……僕は、ただ……っ」
「死ねよ。それがお前に残された、唯一の役割だ」
男が短剣を振り上げた。
アルトは反射的に目を閉じる。
(死ぬ。殺される。何もできずに、誰にも知られず、こんな泥の中で……!)
強烈な死の恐怖。
その瞬間、アルトの心臓がドクンと大きく波打った。
体中の血液が沸騰するような、異常な熱。
それと同時に、足元から「冷気」が噴き出した。
「――え?」
振り下ろされるはずの刃が、来ない。
アルトが恐る恐る目を開けると、そこには奇妙な光景があった。
大男の動きが、完全に止まっていた。
いや、止まっているのではない。
男の影が――地面に張り付いているはずの影が、まるで鎖のように男の足を「掴んで」いたのだ。
「な……なんだ、これは!? 動けねえ……!」
大男が顔を引きつらせ、必死にもがく。
だが、影は粘着質な闇となって男の足首を侵食し、じわじわと体へと這い上がっていく。
「おい、何をしてる! 早くそいつを刺せ!」
仲間の男たちが叫び、駆け寄ろうとする。
しかし、彼らもまた、自分たちの「影」に足を絡め取られ、その場に縫い付けられた。
「うあああああ! 影が、影が俺を食おうとしてる!」
「助けてくれ! 誰だ、何をした!」
パニックに陥る男たち。
アルトは呆然と立ち尽くしていた。
自分は何もしていない。手も足も動かしていない。
ただ、自分の背後に「それ」がいるのを感じた。
それは、実体を持たない濃密な闇の塊。
形は、鎧を装備した歴戦の兵士のように見える。
アルト自身のシルエットによく似ている気がした。
だが、その背丈は二メートルを優しく超え、肩幅は広く、全身から「強者」特有の冷徹なプレッシャーを放っている。
アルトの意識の端に、ノイズのような声が響いた。
『――不快、なり』
それは言葉というより、直接脳を揺さぶる震動。
アルトの影から伸びた黒い腕が、大男の喉元に手をかけた。
「ひ……ひぃっ……!」
男の顔が恐怖で土色に染まる。
その時、アルトの心に「影」の感情が流れ込んできた。
冷酷、効率的、そして圧倒的な侮蔑。
影にとって、このLv8の男は、道端の石ころをどかすのと同程度の価値しかない。
(殺す。排除する。主を害する不純物は、一瞬で消し去るべきだ)
そんな無機質な意志が、アルトの思考を侵食しようとする。
「待って……っ!」
アルトは思わず叫んだ。
「殺さないで! 逃がしてやってくれ……!」
アルトの必死の制止に、影の動きがピタリと止まった。
影の輪郭がゆらりと揺れる。
次の瞬間、男たちを拘束していた闇が、潮が引くように地面へと戻っていった。
「……あ、あ、あああぁぁぁ!」
自由になった男たちは、腰を抜かしながらも、なりふり構わず路地の奥へと逃げ去っていった。
アルトは膝から崩れ落ち、激しく肩で息をする。
「今のは、一体……」
震える手で地面を触る。
そこにあるのは、何の変哲もない、太陽の光で伸びただけの「影」だ。
先ほどの圧倒的な威圧感も、黒い腕も、すべては幻だったかのように消えていた。
だが、アルトは確かに感じた。
自分の内側に、自分であって自分ではない「何か」が眠っていることを。
それは、どれだけ努力してもLv0から上がれない自分とは対極にある、凄まじい「力」の残滓。
「《影位存在》……」
突如として頭の中に流れてきたものを無意識に口に出す。
神託の儀で示された《計測不能》の正体。
それは、彼がもしこの不条理な世界のルールに縛られず、才能のすべてを開花させていたとしたら到達したであろう、自分自身の「完成形」。
救われた、のだろうか。
アルトは泥に汚れた自分の手を見つめる。
けれど、逃げていった男たちの目には、明らかな「恐怖」が宿っていた。
彼が見たのは、救い主などではなく、この世の理を壊す怪物を見る目だった。
「……お腹、空いたな」
一人残された暗い路地で、アルトは膝を抱えて呟いた。
奇跡のような力が芽生えても、腹の虫は鳴き、身分は《下層存在》のままだ。
影がどれほど無敵でも、彼がこの地獄に棄てられたという事実は何一つ変わらない。
雨が降り始めた。
酸性の冷たい雨が、アルトの傷ついた心をさらに冷やしていく。
その傍らで、彼の影はただ静かに、主の命に従って、闇の中に溶け込んでいた。




