10話 境界の消失
下水道の湿った闇を、幾筋もの松明の光が強引に抉り出す。
「いたぞ! Lv0の異物だ!」
兵士たちの叫びが、狭い通路に反響する。アルトは逃げるのをやめた。ここで逃げ続けても、自分という存在がこの世界の「バグ」として処理される現実は変わらない。
「……やってやる」
アルトは震える拳を握りしめた。影の力ではない。自分自身の腕で、この不条理な現実に抗いたかった。彼は足元に転がっていた鉄パイプを掴み、迫りくる兵士へと立ち向かう。
「おおおおおっ!」
捨て身の一撃。だが、相手は訓練を積んだLv22の正規兵だ。
兵士は冷笑を浮かべ、最小限の動きでパイプをかわすと、重厚な甲冑に包まれた拳をアルトの腹部に叩き込んだ。
「がはっ……!」
肺の空気がすべて押し出され、視界が火花を散らす。レベルの差は、絶望的な身体能力の差となってアルトを打ちのめした。
「無駄だ。レベルのないゴミが、我々に届くはずがなかろう」
兵士がアルトの髪を掴み上げ、壁に叩きつける。石壁に頭を打ち、熱い液体が額を伝う。
(……ああ、やっぱり。僕だけじゃ、何も……)
意識が遠のく中、アルトの影が爆発的に膨れ上がった。
『――限界です。主よ、眠っていろ』
脳内に響く声。次の瞬間、アルトの背後から噴出した漆黒の触手が、兵士たちの五体を瞬時に拘束した。
「な、なんだこれは!? 影が……実体を持って……ぎゃあああ!」
尋問室での処刑と同じ、無慈悲なまでの「最適化」。だが、今回は目撃者が多すぎた。通路の奥から次々と現れる増援の兵士たちの前で、影はアルトを抱きかかえると、壁そのものを闇に溶かして消え去った。
「見たか……あの黒い怪物を……」
生き残った兵士が、震える声で呟いた。それは魔法でもスキルでもない、この世界の理を根底から揺るがす「何か」だった。
数時間後。聖王都エリュシオン、中央議事堂。
最高位の《上位存在階級》たちが集う円卓に、一つの報告書が叩きつけられた。
「レベル判定《計測不能》。隔離区にて魔物を瞬殺し、中級執行官の監視下から逃走。……これを見ろ」
魔導投影機が、地下水道で撮影された映像を映し出す。そこには、意識を失った少年を抱え、物理法則を無視して闇の中へ消えていく「巨大な影」の姿があった。
「レベル制度こそが神の秩序。それを否定し、数値を持たぬまま上位存在を屠るなど、あってはならぬことだ」
「この影は……我々が積み上げてきた文明そのものを食い破る『癌』である」
円卓の最上座に座る老将軍が、重々しく口を開いた。彼の頭上には、畏怖すべき**《Lv92》**の文字が静かに、だが圧倒的な威圧感を持って輝いている。
「本日付で、このLv0の少年アルト・クロムウェル、及び付随する怪異を**『指定広域危険存在』**に認定する」
将軍が宣告し、羊皮紙に真っ赤な印が押された。
「生け捕りは不要。これより、国家の総力を挙げて『影』を抹殺せよ」
隔離区のさらに外。王都を囲む広大な森の影で、アルトは目を覚ました。
傍らには、沈黙したまま自分を見つめる影がいる。
「……逃げられたんだね、また」
アルトの声は空虚だった。
都の尖塔からは、緊急事態を告げる鐘の音が、地を這うように響いてくる。
自分が守られれば守られるほど、世界は自分を「悪」と断定していく。
「救われていない……どころか、僕はもう、戻れないところまで来たんだ」
影は答えなかった。ただ、主の悲しみさえも糧にするように、その闇をより深く、より静かに広げていく。
一人の少年と、彼が至るはずだった最強の影。
世界の秩序を揺るがす孤独な逃亡劇は、今、始まったばかりだった。
season 1 完




