10話 夏海に依頼された。
買い物から帰宅すると、日はとっぷり暮れ、辺りは真っ暗になっていた。時刻はすでに午後七時を回っている。
まあ、隣の市まで行っていたのだから無理もない。むしろ、徒歩であることを考えると早めに帰宅できたほうではないだろうか。
家の扉を開けて中に入った途端、桜が疲労困憊といった様子で玄関に両手をついた。
「あ、足が痛い……もう歩きたくないよぉ……」
「ほら見たことか。だから近場のスーパーにしようと行ったのに」
「うぅ……でも、色々楽しかったから良しとする。また一緒に行こうね」
「かまわんが、今度は市内で頼むぞ?」
「うむ、了解した」
「……桜の中で、俺の物まねがブームなのか?」
「……正確には、クロウ自身がブームって感じ」
「? 俺自身がブームとは?」
「えへへ、企業秘密でーす」
またも俺の台詞をまねて買い物袋を手に取ると、脱兎のごとくリビングに逃げていく桜。
足が痛いとボヤいていたが、あの調子なら問題なさそうだな。
「……っと、そうだった」
桜の後を追うようにリビングに向かう最中。俺は片手でスマホを取り出し、クラウド上の監視カメラ映像の確認に入る。
これからは、この確認作業を毎日徹底して行っていかなければ。俺が不在のときは特に念入りに、だ。
録画されていたのは、午後五時十二分に帰宅してきた、三女秋樹の映像だけだった。
映像の中の秋樹に特に変わった様子はない。帰宅後、手洗いを経て二階で部屋着に着替えると、いつものルーチンなのだろう、慣れた足取りで一階のあの書斎に向かっていく姿が映し出されていた。
録画はそこで途切れているから、おそらく秋樹はまだ書斎にこもっているのだろう。
(……しかし、これはどうしたものかな)
いまさらではあるが……なんというか、こうして監視カメラで撮影していると、三姉妹のプライベートを著しく侵害しているような気持ちになってくる。
彼女たちの様子を逐一確認するのも大事な任務だが、不審者が侵入していないのであれば、三姉妹をわざわざ録画する必要はない気もしてきた。
カメラの感知モードを切ることはできないから、三姉妹だけ録画しないように設定しておくか?
彼女たちのスマホデータを俺のスマホに登録すればそれも可能だが……しかし、不審者が三姉妹のスマホを手にしたまま家に侵入してきたら、監視カメラはただの飾りに成り下がることになる。
というか、第三者にスマホを奪われている時点でアウトだが。
(危険をすぐに察知するためにも、常時録画は必須か……)
プライベート侵害になってしまうが、どうか許してくれ。
三姉妹に胸中でそっと謝罪しつつ、俺は監視カメラ映像の確認を終え、リビングに足を踏み入れる。
すると。買い物袋から食材を取り出していた桜が、俺の手に持つスマホに視線を向けて。
「あれ? クロウ、スマホ持ってたの?」
「ん? ああ、言っていなかったか。日本に来たのと同時に契約しておいたんだ。連絡先がないと履歴書も書けないからな」
「って、そうか……たしかに言われてみれば履歴書の電話番号の欄にも書いてあったっけ――じゃあじゃあ、私と『RINE』交換しようよ!」
「RINE?」
「メッセージのやり取りとか通話とかが全部無料でできちゃうアプリのこと。私たち三姉妹もRINEやってるから、クロウも一緒にやろうよ!」
「ふむ……ちなみに、そのアプリはどこの企業が提供しているんだ?」
「え? ど、どこの企業って……どこだろう?」
「怪しい企業ではないだろうな? その企業が個人情報を盗み取る、あくどい企業の可能性もあるんだぞ? 事実、俺は過去にそういった企業と相対したことがあって――」
「もー、そんなわけないじゃん! 心配しすぎだよ! ほら、いいからインストールして!」
「なッ……こら、俺のスマホを取ろうとするな! わかった、わかったから、せめて俺の手でインストールさせてくれ!」
間違って監視カメラの映像を見られでもすれば、俺は一発で家政夫解雇だ。
わーわー、と俺のスマホに手を伸ばしてくる桜を背に回し、件のRINEとやらを検索してみる。
ふむ。RINEの企業情報を見るに、どうやら怪しい企業ではなさそうだ。この辺りの見極め方は、スパイ時代に培った経験則が役に立つ。企業に限らず、怪しいものというのは自身の潔白を証明するため、押しなべて情報過多になりやすいのだ。
数分とかからずにRINEをインストールし終えると、桜が自身のスマホをスカートのポケットから取り出した。
「終わったわね。それじゃあ、せっかくだし『フリフリ』で交換しよっか」
「なんだ? その珍妙な言葉は」
「珍妙って言うな! フリフリっていうのは、スマホを振り合ってRINEのIDを交換するシステムのこと。近くにいる友達としかできない交換方法なのよ」
「ほう」
「じゃあ、いくわよ。フリフリのボタンを押して……はい、フリフリー」
「フリフリー」
「ぶっ」
スマホを振る俺を見て、なぜか桜が吹き出した。
「なにがおかしい」
「あはは! だってクロウ、ものすごい真顔でスマホ振ってるから! あははは!」
「フリフリなのだからそりゃあ振るだろう。ほら、早くしろ。フリフリー」
「ぶはっ! ちょ、マジでやめて! 真顔で振りながら近づいてこないで! あはははは! わ、笑いすぎてお腹痛い!」
「今夜の晩ご飯はフリフリよー」
「意味わかんない進化を遂げたッ!? ちょ、ヤバい! もう本気でお腹痛いんですけど!」
「……楽しそうですね」
と。リビングの入り口付近から、そんなおしとやかな声が聴こえてきた。
本を片手に抱いている秋樹だ。桜の笑い声を聞きつけてか、書斎から出てきたらしい。
すると。お腹を押さえ、ひーひー、と笑い死にそうな桜が、秋樹の下に歩み寄って。
「ち、ちょっと秋樹! スマホ、いまスマホ持ってる?」
「う、うん、持ってるけど……どうして?」
「それ持って、フリフリ機能を起動してみて! ヤバい化け物が押し寄せてくるから!」
「? よくわかんないけど……はい、起動したよ?」
秋樹がフリフリを起動した瞬間。
「――フリフリー」
「ぶっ!」
俺がすばやく間合いを詰めて、サンバのリズムと共に目の前でスマホを振りまくると、秋樹は堪らずといった風に吹き出した。
「どうした? 秋樹。俺とRINEを交換しよう。さあ、フリフリー」
「ちょ……ふふふ、あの、か、顔が真剣すぎ……」
「フリフリー」
「ぶはっ! あ、あの、やめて……お、お腹が……ふふふ……」
見たこともない破顔っぷりを見せる秋樹。隣り合う桜も、腹を抱えて笑っている。
予想外な部分で笑いを取ってしまったが、彼女たちが楽しそうならなによりだ。
当然のことながら、このフリフリ交換会が思いがけず延長したことにより、夕飯の時間は大幅に遅れることとなった。
「クロウさん」
夕飯後。食べ終えた食器を洗っていると、秋樹が傍まで来て声をかけてきた。
その手には、今朝渡した弁当箱が握られている。
「お弁当、ごちそうさまでした。すごくおいしかったです」
「それはよかった」
言いながら受け取り、包みをほどいて弁当箱を開ける。
中身は、気持ちいいぐらいスッカラカンになっていた。
「悲しませずに済みました?」
すこしからかうような語調で、そう訊ねてくる秋樹。
俺は苦笑しつつ、弁当箱を洗い始めながら。
「ああ。悲しむどころか、うれしすぎて涙が出そうだよ」
「ふふ。泣かれちゃったら、今度はわたしが困っちゃいます」
「なら、我慢して泣かないようにしよう――そうだ。あとで二階に戻るとき、桜にも弁当箱を持ってくるように伝えておいてくれるか? アイツ、まだ持ってきてないみたいだから」
弁当箱を持って来もせず、桜はいま風呂に入っている。完全に弁当箱の存在を忘れているパターンだ。
「わかりました。あとで伝えておきますね……ところで、あの」
「? どうした」
「大したことではないんですが、クロウさんにちょっとお訊きしたいことがありまして」
「訊きたいこと?」
俺の言葉にうなずくと、秋樹は小首をかしげつつ口を開いた。
「今日、桜ちゃんの教室に乗り込んだ男のひとって、もしかしてクロウさんのことですか?」
「……それ、誰に聞いたんだ?」
「やっぱり、クロウさんだったんですね……」
納得だとばかりにつぶやき、秋樹は続けた。
「桜ちゃんは、わたしたちの高校では『桜姫』と呼ばれていて、ちょっとした有名人になっているんですよ。まあ、なぜかわたしもおかしなあだ名をつけられてしまっているんですが……ともあれ、だから、2ーAに乗り込んだ男性の話は、わたしたち一年生の耳にもすぐに届いてきたんです」
「なるほど、そういうことだったか……」
「どうしてまた、桜ちゃんの教室なんかに?」
「なんてことはない。コレを届けに行っただけだ」
そう言って、俺は洗い終えた弁当箱を水切りラックに置いた。
秋樹は驚きに目を見開いたのち、呆れたと言わんばかりに肩をすくませた。
「随分と大胆なことをするんですね、クロウさんは……」
「家政夫になってはじめての弁当だったからな。ちゃんと手渡ししたかったのさ……いまは、すこしやりすぎだったかと反省している」
「まあでも、さっきの桜ちゃんの態度からするに、別に怒っているわけではなさそうですし。今後同じことをしなければ大丈夫なんじゃないでしょうか?」
「そうだといいがな――ところで、俺もいまの話を聞いて、ひとつ訊ねたいことができたんだが」
「? はい、なんでしょう?」
「桜の教室に乗り込んだ男が俺であると、どうしてわかったんだ?」
俺はあの教室で名前どころか、家政夫であることすら明かしていない。
桜の教室に男が乗り込んだ、という情報だけでは、その男が俺だと断定することはできないはずだ。
それこそ推理小説よろしく疑念を指摘すると、秋樹は「うっ」とわずかにたじろいだのち、うつむきがちにこう言った。
「わ、わたしがその騒動を知ったのは、噂好きのわたしの友人が教えてくれたからなんですが……その友人が、その、乗り込んできた男のひとは、すごい格好いいひとだった、と仰っていまして……」
「……えっと、つまり、だ」
情報を整理しながら蛇口を止め、濡れた手をエプロンで拭いながら、俺は問うた。
「格好いいという情報を聞き、乗り込んだ男が俺であると確信した、ということか?」
「……そ、そういうことになります」
「つまりは、秋樹は俺のことを格好いいと――」
「わ、わざわざ言わなくても大丈夫ですのでッ! そ、そこは、行間を読み取ってくだされば結構ですから!」
「行間と言われても……あ」
「そ、それでは、わたしはこれで! お弁当、本当にありがとうございました!」
口早に礼を言いおいて、小走りでリビングを後にする秋樹。
その真っ赤な顔の理由までは、読み取れそうになかった。
□
桜と秋樹が歯磨きを済ませ、二階に上がっていったあと。
ちょうど午後十一時半をすぎた辺りでようやく、ガチャリ、と玄関の鍵が開く音がした。
俺は安堵の息をつきつつ、リビングのソファを離れて出迎えに行く。
「おかえりだ。夏海」
「うにゅ? あー、イケメンのクロウくんじゃねえでしゅかー」
ずっと帰りを待っていた最後の三姉妹――長女の夏海は、ひどい酒気を帯びていた。こちらにまで酒の匂いが漂ってくるほどだ。
顔は紅潮していて、靴を脱ぐその動きもひどく危なっかしい。呂律も回っていないようだ。
「帰りが遅いから心配していたんだ。酒を飲んできたようだな?」
「んー、まあねー……へへ、講義終わりにダチと飲み屋に行って、ちょっとした愚痴聞いてもらっててさ。ほんとは、もっと早く切り上げる予定だったんらけどなー……」
「愚痴?」
「どうしようもねえ悩み事とかを、うだうだ吐き出すことらよー」
「いや、愚痴という言葉の意味は知っているが……って、おい、大丈夫か?」
「大丈夫、大丈夫ー」
まさしく千鳥足といった風に、夏海はリビングに向かっていく。
右へ左へ、フラフラと。いつ転倒してもおかしくない。
俺はため息をひとつ。夏海の肩を無言で支えて歩くと、ソファに静かに座らせてやった。
「へへ、サンキュー。やっぱイケメンはちげえや……」
「いま水を持ってきてやるから待っていろ。それですこしは酔いも覚めるだろ」
「……まだ、覚めたくねえよ」
ふわふわとしたその語調を急に固くして、夏海は俺のエプロンを握ってきた。
「覚めたら、またあの『面倒事』を考えなきゃいけなくなる……」
「面倒事?」
「ああ、バカみてえな面倒事だ……わたしは普通に講義を受けてえのに、それさえもできねえ状況になって……ああ、ほんと、マジでウゼえ……」
だから嫌いなんだ、男なんて。
そうつぶやき、夏海はその瞳に涙を溜めると、俺のエプロンをぐいっと引き寄せ、チーン、と豪快に鼻をかみはじめた。
……エプロンはティッシュではないんだが。
やってくれたな、この酔っ払い。
思わず呆れつつも、しかし、三姉妹を守る家政夫として、俺はこう声をかけていた。
「事情はよくわからんが、俺でよければ力になるぞ」
「……クロウが?」
「ああ。俺は冬子にお前たちを託された。家政夫業とはそれすなわち、お前たちを守る重要任務とも言い換えることができる――そして、その護衛対象である夏海が面倒事に巻き込まれているというのなら、俺が手を貸さない理由はない」
「へ、へへ……ほんと、あたしらとズレてるよなあ、クロウは……」
苦笑気味に言ったあと、夏海は急に、ソファの上に正座をしはじめた。
正座は、日本人が真面目な話をするときに取る体勢だと聞いている。
俺もすこし背筋を伸ばし、夏海の声に耳をそばだてた。
「クロウ。折り入って頼みがある」
「畏まるだなんて水臭い。遠慮なくなんでも言ってくれ」
「それじゃあ――クロウ、あたしの彼氏になってくれ」
「ああ、了解した」
……ん?
夏海、いまなんて言った?




