ランガとサハニ
道中、ランガはふと、王女との初めての出会いを思い出した。
まだ五歳だった頃――父が亡くなって二年が経ち、ランガは商人たちを手伝うために働き始めていた。
その夜、フェルティル・テリトリー王国では建国記念日を祝う盛大な祭りが開かれていた。
王宮では貴族たちが集い夜会が催され、街では市民たちが夜市を楽しみ、賑やかな声が響き渡っていた。
フェルティル・テリトリー王国は、豊かな大地に恵まれた国である。
四季折々の作物が実り、広大な牧場では家畜がゆったりと草を食む。
交易の拠点としても栄えており、一定の季節には周辺諸国から商人たちが集まり、大市が開かれるほどだ。
その肥沃さと賑わいから、人々はこの国をこう呼ぶ。
――「豊穣の王国」と。
その街角で、まだ幼いランガは、商人から受け取ったわずかな賃金を手に、賑やかな夜市を歩いていた。
ふと、路地裏の暗がりで、ひとり泣いている少女を見つける。
「ねえ……どうしたの?」
ランガは小さな声で、恐る恐る問いかけた。
「ひっく……わたし、お城なんて大っ嫌い……」
涙を拭いながら、少女は答える。
「お城に住んでるの?」
「うん……ひっく……パパは王様なの……」
その言葉を聞いたランガは、遠くにそびえる城を見上げた。
夜空に浮かぶ星のように輝く城を、幼い瞳でじっと見つめながら、ぽつりと呟いた――
「王様の娘でも、悲しくなるんだね……。じゃあ、僕たち普通の人はどうすればいいの?」
ランガは首をかしげながら問いかけた。
「え……? どういう意味?」
少女は涙を拭き、少し戸惑いながら聞き返す。
ランガはにかっと笑い、そっと手を差し伸べた。
「ほら……こんなににぎやかな夜市だよ。みんな楽しそうにしてるのに、君だけ泣いてるのはもったいないだろ?」
少女は一瞬ためらいながらも、恐る恐るその手を取ろうとした。
するとランガが先にぎゅっと握り、力強く引き起こした。
「僕はランガ・サントソ! よろしく! 君の名前は?」
その無邪気な笑顔に、少女は思わず息を呑んだ。
これまで彼女に近づいてきた貴族や大人たちは、皆、仮面を被ったような笑顔で、心を隠していた。
しかし目の前の少年は――ただ純粋に、彼女を誘っているだけだった。
それでもランガの笑顔は変わらなかった。
王の娘だと知っても、彼はただまっすぐに微笑んでいた。
その姿に、少女は思わず心を奪われる。
「どうして……そんなに素直に笑えるの? 私、王様の娘だよ?」
少女は不思議そうに問いかける。
「母さんが言ってたんだ。僕たちはまだ子どもだから、難しいことや悲しいことをするより、笑って楽しんだ方がいいって」
ランガは胸を張って答える。
「王様の娘でも?」
「もちろんさ。君、ちょっと堅すぎるよ。今ここにいるのは“王の娘”じゃなくて、僕の新しい友達だ。えへへっ」
その言葉に、少女は思わず顔を赤らめ、ランガの手をぎゅっと握り返す。
頬が熱くなり、自然と笑みがこぼれた。
「……私、サハニ・ラジニ・マクスウェル。よろしくね、ランガ」
「よし、じゃあサハニ! 一緒に夜市を楽しもう!」
ランガは彼女の手を引き、二人は賑やかな夜の人混みの中へと駆け出していった。
その頃、王都では王の命令で兵士たちが行方不明になった王女を探し回っていた。
しかし、サハニとランガは人気のない路地裏で身を隠し、楽しそうに屋台を巡っていた。
やがて真夜中になり、ランガはサハニを誰も知らない抜け道へ案内した。
王宮へ戻る前、サハニは立ち止まり、振り返る。
「……また会えるよね?」
不安げにサハニが尋ねる。
「うん。サハニが会いたいときはいつでも。もし君が僕を見つけられなくても、僕が君を見つけるから」
ランガは迷いなく言い切った。
その言葉にサハニはぱっと笑顔になり、小指を差し出した。
「約束だよ、ランガ」
「うん、約束する」
二人は小指を絡め、約束を交わした。
その夜、サハニは王宮へ戻り、以後も暇を見つけてはこっそり抜け出し、ランガと会うようになった。
毎日ランガはサハニを探したが、見つからなければ家へ帰るだけ。
その噂はやがて、サハニ付きの騎士であるハンスの耳にも届き、彼は苛立ちを隠さなかった――。
「王女と一緒にいられるのは俺だけだ……あのゴミは絶対に叩き潰す!」
ハンスは怒りを押し殺しながら、拳を握りしめた。
当時七歳のハンスは、すでにレベル10の〈王女護衛騎士〉となっていた。
まだ見習いだったパンドゥとジャヤを連れ、ランガを見つけるや否や――ためらいなく殴りかかった。
「おい! 何するんだよ!!」
ランガが怒鳴る間もなく、ハンスの拳がみぞおちにめり込む。
「ぐっ……!」
続けざまに膝蹴りが何度もランガの腹を打ち、少年は地面にうずくまった。
「無礼者め……俺は王女サハニ様の護衛騎士だぞ。礼儀はどうした?」
冷たい視線でハンスが見下ろす。
「礼儀? お前の方がよっぽどひどいだろ、サハニより……!」
ランガが歯を食いしばって言い返すと――
バシィッ!
ハンスの蹴りがランガの顔面を直撃し、鼻から鮮血が流れ落ちる。
「俺の性格だと? 笑わせるな。自分の立場を弁えろ、ゴミが。
貴様のような下賤の者が、王女を友達のように呼ぶなど許されん!」
怒号とともに、ハンスの視線はさらに冷たく鋭くなった。
その侮辱に、ランガは拳を握りしめ、立ち上がった。
「ふざけるな!」
勢いよく殴りかかるが――
ヒュッ、ヒュッ。
ハンスは一歩も動揺せず、すべての攻撃を軽々と避ける。
次の瞬間、鋭い蹴りがランガの体を捉え、少年の体は地面を転がり、遠くまで吹き飛ばされた。
「言ったはずだ……身の程を知れ、ゴミが」
ハンスは冷酷に吐き捨てる。
そのとき、近くにいた町の男が慌てて駆け寄り、二人の間に割って入ろうとした。
「おい、若造……さすがにやりすぎじゃないか?」
しかし――
ハンスの視線がギラリと光り、圧倒的な威圧感が男の全身を貫く。
男は一歩も近づけず、思わず後ずさった。
「おじさん、近づかない方がいい。俺たちは王女を守る任務を果たしてるだけだ」
パンドゥが低い声で忠告する。
「そうだ。こいつは王女様を何度も城から連れ出したんだ。父親が王妃を殺した裏切り者だったように、息子もろくな奴じゃない」
ジャヤが嘲るように言い放つと、周囲の人々はざわめき、ランガを見る目が冷たくなった。
人々の冷たい視線が突き刺さる中、ランガは声を出さずに泣いていた。
それを見たハンスが、あざ笑うように口角を歪める。
「はははっ……ゴミが泣いてやがる!」
ハンスはランガの髪を乱暴に掴み、顔を無理やり上げさせる。
その瞳がギラリと光り、圧倒的な威圧感が少年を押し潰した。
「おい、ゴミ。泣くなよ、根性なしが」
ハンスは冷酷に言い放つと、さらに言葉を重ねた。
「次はちゃんと覚えておけ。王女に近づくな。貴族や王族に会ったら頭を下げて礼を言え。そして、俺たち三人に会ったらこう言うんだ――
『光を守る三つ星に平和あれ……ゴミの俺は星の守護者に頭を垂れる』
分かったか?」
恐怖に震えながら、ランガは小さくうなずくしかなかった。
ハンスは髪を乱暴に放り、立ち上がる。
「じゃあ、やってみろ」
ランガは腹を押さえながらよろよろと立ち上がり、頭を深く下げ――
「……光を守る三つ星に、平和を――」
言いかけた瞬間、ハンスの靴がランガの頭を押さえつけ、地面に叩きつけた。
「頭を下げながら言え、って言ってんだろ?」
ハンスは冷酷に笑い、さらに力を込めて押しつける。
土の匂いと靴の重みが鼻先にのしかかる中、ランガは必死に声を絞り出した。
「光を守る三つ星に平和あれ……ゴミで卑しいこの身は、三つ星の守護者に頭を垂れます……」
その言葉を聞くと、ハンスは満足げに靴を離し、口の端を吊り上げた。
「いい子だ。覚えておけよ、その言葉を。次に俺たちに会ったときも、ちゃんと口にするんだ。」
*****
ランガは傷だらけの体で家へと帰った。足取りは重く、頬にこびりついた血が乾いていく。どうやってサハニ姫に顔向けすればいいのか、考えるだけで胸が苦しくなる。
そんな時、幼い頃の約束がふと脳裏によみがえった。あの夜、バザールで交わした小指の約束。そしてもう一つ、父の声が蘇る。
「ランガ……本物の男は決して約束を破らない。強くなれ、誰にも頭を下げさせられないほどに。」
その言葉が、今のランガの胸を貫いた。
涙が一筋、頬を伝う。しかしそれは悲しみの涙ではなく、決意の涙だった。
その日から、ランガは本格的に木こりとしての道を歩み始める。父の親友である熟練の木こりに弟子入りし、斧の握り方から学んだ。
毎日毎日、太いアラスの木を切り倒し、汗と血で手が裂けても止まらなかった。
村人たちは相変わらず彼を嘲笑い、時には憎しみをあらわにした。
だがランガは耐えた。黙々と木を切り続け、ただひたすら強くなるために。
数年後、村人たちは驚愕する。
まだ若いランガが、巨大なアラスの木をたった一撃で倒したのだ。
彼の木こりとしてのレベルはついに【Lv10】に達し、その腕力と斧さばきに人々は恐れを抱き始める。
だがランガはわかっていた。
──これでも、まだ足りない。
ハンスや騎士たちが自分を「ゴミ」と呼ぶ限り、もっと強くならなければならない。
もう二度と、誰にも頭を踏みつけさせないために。
大人の商人や農民、そして一般の労働者たちの平均レベルはせいぜい【Lv7】が限界だ。
そんな中、【Lv10】に達したランガの存在は村中の噂になり、やがて城にも届く。
その噂を耳にしたサハニ姫は、しばしば城を抜け出し、平民の服に身を包んでランガのもとへ向かうようになった。
サハニの気配は、時に騎士のハンスさえも欺くほどだった。
しかし、ランガはサハニを避けるようになってしまった。
理由は――王妃を殺したのが、自分の父だと知ってしまったからだ。
そんなランガの前に、再びサハニが現れる。
「……サハニ姫、どうしていつも俺のあとをつけるんだ?」
ランガは顔をそむけたまま、足を止めずに言った。
「つけちゃダメなの?」
サハニは少しむくれながらも、歩調を合わせて隣に並ぶ。
ランガの心は揺れ動く。
憎まれるべき存在の娘であるはずなのに、どうして彼女はここまで自分に近づこうとするのか。
「俺から離れてくれ……」
ランガは背を向けたまま、低い声で呟く。
「イヤ。」
サハニは即答した。
「行けよ……!」
「イヤだって言ってるでしょ!!」
サハニはついに声を張り上げ、頬を赤くして怒る。
ランガの足が止まる。
そして振り返り、苦しそうに叫んだ。
「どうしてわかってくれないんだ、姫様!? 俺の父親が……お前の母上を殺したんだぞ!」
沈黙。
サハニの大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「じゃあ……今までのことも全部、嘘だったの? 私を友達だと思ったことも?」
その言葉にランガは心臓を掴まれたような衝撃を受ける。
思わず駆け寄り、サハニの小さな手を掴んだ。
「違う! お前は……お前は俺の大切な友達だ。でも……俺たちは、あまりにも違いすぎるんだ……!」
サハニは首を横に振り、涙を拭った。
「友達に身分なんて関係ないでしょ? 友達は……友達を殺したりしないでしょ?」
「当たり前だ……!」
ランガは強く答えた。
サハニはふっと笑みを浮かべ、ランガの瞳を真っすぐに見つめた。
「だったら、そんな顔やめてよ。あなたは父上じゃない。母上を殺したのはあなただけど……じゃないでしょ?
だから私は、あなたを信じるの。」
ランガの胸の奥で、何かが溶けていくようだった。
サハニの言葉は重く、しかし優しく、彼の心に響いた。
ランガは頭をかきながら困った顔をしたが、
次の瞬間、にやりと笑った。
「王国の光に祝福を──
サハニ・ラジニ・マクスウェル姫殿下」
そう言って、片目でウインクする。
「もうっ……!」
サハニは頬を赤らめながら、ランガの背中をぴしゃりと叩いた。
──それが二人の関係を繋ぎ止めた瞬間だった。
あれからも、ランガとサハニの友情は続いていく。
二人は騎士や兵士の目を盗んで城を抜け出し、
貴族の図書館で本を読み、
森で木を切り、
川で水遊びをした。
その秘密を知るのは、サハニの専属侍女ただ一人。
ランガは、ハンスに殴られようと決してやり返さなかった。
それをあえて修行とし、耐え抜き、
木こりとしてLv10に到達するほどに強くなった。
──もっとも、本人はまだ知らない。
その肉体の成長の一端は、あの斧に秘密があるということを。




