第9話
「王子に軽々しく近寄らないでくださる?」
私がそう言われたのは中庭の片隅、人が到底通りそうもないところで複数人の女生徒に囲まれての事でした。
昼食時に見知らぬ女生徒に呼び止められた時から嫌な予感はしていたのです。
「王子だけではなくカレット様ともお親しいとか。女生徒との交友は然程でもないのに異性との交友はご盛んですのね」
派閥の違う侯爵家のご令嬢を筆頭に、ロッソ王子やカレット様に対して下卑た発言をされてしまいます。
「王子は友人の一人、カレット様は幼馴染ですわ。同性の他の友人もおります。変な勘繰りはやめていただけません?」
気丈に返しておりますが、正直前世でのことも思い出されて今すぐここから逃げ去りたいのが本音ですわ。
前世、あの時も高みを目指していたら褒め称えていてくださった筈の人々から転げ落ちるように足の引っ張り合いをされていた。嫌な思い出。
……こういう時、無性にルノー先生にお会いしたくなる。
でも、これは『わたくし』の問題。
ルノー先生は関係ない。わたくし個人の、貴族子女としての言動を示さなくてはならない。
「わたくしは、わたくしにも王子にもカレット様にも誰に対しても恥ずかしくないお付き合いをしております。節度を持った。あなた方にそう言われる謂れはありませんわ」
毅然と言い返せば相手がたじろぐのが分かりました。
今ですわ。
「それでは、失礼致します」
少し足早にその場を立ち去り、完全に姿が見えなくなったところでようやく息を吐き出せました。
手足が震える。逃げ出したというのが本当のところです。
前世のことが思ったよりもわたくしの心に深く刻まれているようですわ。
ルノー先生に相談できたら、と思うけれど先程も思った通りこれは『イリス•アイリスフォール』としてのわたくしの問題。
もう、言語や文字が分からないわたくしではないのです。
他人から可哀想と憐れまれ、陰で言われるわたくしは努力でこちらのことを学びました。
もう、誰からも傷つけられないようにしたい。
わたくしを守れるのはわたくしだけですわ。
……図書館に行きましょう。
勉強している間なら、すべてを忘れられる。
医師になる努力も一日として怠るべきではないですわ。
そうと決まれば早速向かいましょう。
わたくしは一歩ずつ平静を取り戻すように歩き出しました。
「おや、イリス嬢。本日はいつもより遅かったね」
図書館でいつもの席に向かうと既にロッソ王子が勉強中でした。
先程のことが思い出されましたが、ロッソ王子になんの罪も責任もありません。
「少し、用事がありまして……」
曖昧に誤魔化して、読みかけの医学書を手に取り読み進めます。
わたくしが平静を欠いたら医術も人の心に寄り添うことも出来なくなります。
「君はいつでも勤勉だね」
「ロッソ王子こそ、毎日王子としての責務に加えてお勉強を絶やさずしておりますではありませんか。おかげで主席争いも白熱してしまいますわ」
「王子が上に立つのは当然とされているからね。一生懸命なだけだよ。だからこそ息をつく暇もない」
その言葉で気付きました。
王子も人から高い所へ追いやられた方なのだと。
わたくしは自分の意思で高みを目指していましたが、王子は生まれた時から絶対的に上位者として君臨しなくてはいけないのだと。
「……王子は、医師になりたいというのはご本心なのでしょうか?」
それが王子にとって高い所から降りるための手段なのかもしれません。
わたくしの質問に王子は軽く返します。
「僕は、君とならなんでも楽しそうだと思って言っただけだよ」
「え?」
「本当だよ」
ロッソ王子がにこりと微笑まれます。
整った造形から人形のよう。
あまりの美しさに、その言葉に、頬に熱が集まるのが分かる。
「ロッソ王子、そう言って人を揶揄うものではありませんよ」
「ははは。だめか」
良かった。冗談なのね。
でも、少しドキドキしてしまいましたわ。
ロッソ王子はお人が悪い。
そんなことがあった数日後、また女生徒に囲まれてしまいました。
でも、前世のわたくしとは違うもの。
また震える手足を隠して毅然と立ち向かいます。
わたくしは、もう誰にも侮蔑されたり憐れまれたりしたくない。
わたくしのために。
わたくしを根気よく面倒見てくださったルノー先生のためにも、わたくしは貴族子女として恥ずかしくない言動をとらなければならないのですわ。
そうしてほんの少しの諍いをしてしまったところにロッソ王子が現れました。
「随分と楽しいことをしているようだね」
「王子……!」
それからは早く蜘蛛の子を散らすようにわたくしを取り囲んでいた方々が去っていきました。
「ごめんね、通り掛かったら声が聞こえたものだから」
「いいえ、ありがとうございました」
カーテシーをしてお礼を告げると王子は苦笑されました。
「手助けは要らなかったようだけど」
「わたくしは、わたくしを助けてくださったルノー先生に恥じない言動をとりたいと思っているだけですわ」
わたくしがそう申し上げたらロッソ王子から手を取られました。
「今だけは、ルノー先生じゃなくて僕を見てくれているかな?」
その言葉にロッソ王子を見るといつもの軽い口調とは裏腹に真摯な目をしておりました。
そうやって惑わせるようなことを仰らないでいただきたい。
困惑するわたくしを微笑みながら告げました。
「ルノー先生ばかりで少しやきもちを妬いてしまったんだ。ごめんよ」
ロッソ王子はお得意のウィンクで場を和ませようとしてくださいましたが、わたくしは上手く微笑み返すことが出来ませんでした。
それでもロッソ王子はにこやかに見守ってくださいました。