第5話
お茶会は恙無く行われた。
『イリス・アイリスフォール』として完璧な私にミスなんてなかった。
この日のために勉強してきたんですもの、絶対に失敗なんて許されない。
お友達も何人か出来た。
婚約者候補は…どうしてもルノー先生と前世を考えると子供過ぎて恋愛対象外になってしまう。
でも、そのうち私の意志に関係なく家の都合で婚約者が決められるんだろうなとは思った。
ルノー先生に会いたかった。
イリス・アイリスフォールじゃなくて無性に『私』になりたかった。
ルノー先生の前では前のイリス・アイリスフォールを知らない。
『私』になれる。
貴族がどうとか、そんなこと私にはどうだっていい。
私は医師になりたい。
ううん。医師じゃなくても、人の心に添えられる仕事がしたい。
この世界ではまだ女が仕事なんて庶民なら許されているが貴族の子女がやるには趣味の延長線上としか思われていない。
でも、私は私としてきちんと仕事がしたい。
感謝されたいとかじゃない。
ルノー先生が例え仕事だからでも『私』に寄り添ってくれたから私はイリス・アイリスフォールとして生きていられる。
イリス・アイリスフォールならきっと平凡に平和的にどこかの貴族のご子息と婚姻して幸せな結婚生活を送るんだろう。
でも、『私』がイリス・アイリスフォールだ。
『私』の人生は『私』が決める。
……ごめんね、イリス・アイリスフォール。
あなたの人生を奪ってしまって。
でも、イリス・アイリスフォールはもう私になってしまったのだ。
だから私の人生を選ばせてください。
私はそれからは勉強に加えて魔法の授業として治癒術の魔法についても学んでいった。
ルノー先生も使えるらしい。
というか、医師なら大体が治癒術の魔法を使えるらしい。
医学書もあるが、魔法が主流のこの世界、魔法で治すことの方が多いそうだ。
でも、それは人体のことが分かっていないとより発揮できないものらしくて、やはり医学の勉強は必要らしい。
医師になるには医学の勉強と治癒術の魔法を勉強することが重要うなのだとか。
じゃあ、心は?
私がイリス・アイリスフォールの存在を失くしてしまって心のバランスを崩すようになったように、心を病む人とも多いだろう。
ボランティアで通っている教会で戦争孤児がまだ体だけじゃなくて心を痛めているのも知っている。
私はそれをなんとかしたい。
お父様やお母様は許してくださるかしら?
お兄様達も応援してくださるかしら?
侯爵家の令嬢が医師になりたいなんて、許されるんだろうか?
……許される、許されないじゃない。
なるんだ。
前世でもやると決めてやり通したじゃない。
夕食の席でその話をすると、沈黙が場を支配した。
両親は私の嫁入り先を探していただろうし、高熱を出してからどこかおかしい妹の扱いに困っていた兄達も今度こそ本気で困惑している。
「お願いします。どうしても医師になりたいんです。……いいえ、医師でなくても構いません。心を病んでる方のお力になりたいんです」
「それは、結婚してからの善行ではいけないのか?」
お父様に訊ねられる。
当然の言葉だったが、私は私の人生を歩みたい。
……イリス・アイリスフォールじゃないのにね。
「はい」
力強く頷いて答えると、お父様は眉間に寄った皺を手で揉み解した。
「……以前のイリスはそんなことを言わなかった。思えばお前は高熱を出してからおかしなことばかりだ」
その言葉にドキリとした。
「わたくしはイリス・アイリスフォールですわ」
嘘だ。
嘘の人生で人が救えるだろうか?
そんなことはやってみなくては分からない。
イリス・アイリスフォールがいなくなってしまった今、私がイリス・アイリスフォールだ。
お父様は深い溜め息を吐いた。
「考えておこう。その場合、平民になる覚悟もしておくことだ」
「かしこまりました」
それは家族の縁を切られるということだろう。
お母様とお兄様達は私とお父様の会話に忙しなく向き合いながら、やがて疲れたかのように食事を続けた。
無言の重苦しい夕食だった。
それからしばらくして、お父様から言われて一応、私は学園に通うことになった。
見聞を広めれば、同年代の女子とより親密になれば貴族の子女が職を持つなんて馬鹿げた考えがなくなると思っているんだろう。
でも、これはチャンスだ。
伝手を広げたり、私と同じ考えの子が居るかもしれない。
勉強や魔法のことももっとしたいと思っていた。
学園の図書室は充実していると聞く。
医学書があればこっそりお小遣いで高価な本を買わなくても済む。
他のことにもお金が回せる。
それはとても楽しみだ。
でも、ルノー先生と会えなくなるのは寂しく思えた。
『私』を肯定してくれるのは『私』しかいなくなってしまう。