第3話
僕は医師のルノー。
最近とある侯爵家のお抱え医師になった。
理由はその家のご令嬢が奇病に掛かったからだ。
彼女は数日間高熱に魘され、目が覚めたら言語も文字も分からず、かろうじてご自身のことや家族のことは分かるであろう程度だった。
それまでの貴族としての勉強ももちろん抜け落ちている。
ご自身と家族のことが分かるのが奇跡なくらいだ。もっとも、そのご自身と家族の名前を呼ぶことも出来ない状態であるのだけれど。
彼女は二度目に目を覚ますと身振り手振りで本を指差したりノートを手に持ち書き写す真似をして意思表示をしてくれた。
「これかい?」
通じないと分かっていながらも訊ねながら僕は彼女にペンとノートを渡した。
彼女は嬉しそうにして何事かを書き記した。
それはまったく見たこともない文字もようなものだった。
僕が理解出来ない素振りをすると彼女は目に見えて落胆した。
申し訳なさを覚えながらも、彼女の書いた文字らしきものが気になった。
翌日から彼女に家庭教師がつくようになった。
家庭教師は彼女のことを不憫がりつつ、しっかりと教えた。
イリス・アイリスフォール
彼女の名前。
彼女は自分の名前が書けるようになると、嬉しそうに僕に見せてくれた。
歪な文字だったが、彼女の努力がよく分かるだろう文字だった。
「すごいね」
こんな言葉もきっと彼女には伝わらない。
侯爵令嬢にこんなことをしては失礼だろうけれど、頭を撫でて褒めてあげた。
とても嬉しそうだったのを覚えている。
彼女は言葉や文字が分からない分、人の機微にとても敏感な気がする。
使用人が彼女のことを「可哀想」と憐れむ言葉を言えば睨み付ける姿を目撃した。
彼女は負けん気が強いらしい。
その後の彼女は陰口を叩いた使用人と平気な顔で喋れるようになったのだからたいしたものだと思った。
そして、お茶会の練習が始まった。
彼女と母親と家庭教師ともしもの時に備えて僕が参加者の内輪向けの小さなものだった。
これでも落ちぶれたとはいえ元は貴族だったことに感謝したことはない。
お茶会で何をやらかすこともなく済んだ。
彼女も必死に覚えようと努力をしていた。
時季の挨拶からなにまで、言語や文章を分からなかった頃を思い出すとよく言えるようになったものだ。
彼女の努力は評されるものだ。
少なくとも私は彼女のことを褒め称えよう。
彼女は同じ年頃の子供達が集まるお茶会が不安なようで僕に訊ねてくる。
「ルノー先生、大丈夫でしょうか?」
不安がる彼女の頭を撫でて落ち着かせる。
「大丈夫ですよ。このまま頑張れば立派な淑女になれますよ。それまで僕も応援しています。一緒に頑張りましょう」
「……はい!」
彼女はとても嬉しそうに微笑んだ。
その後の彼女の熱心さといったらそこら辺の秀才なんて目じゃないものだった。
事実、僕が医師免許を取るときでさえこんなに頑張らなかっただろう。
言語に文章、この世界の常識やマナーやダンスに勉強ときて次は魔法まで覚えようとしてくる。
彼女の勤勉さ…いや、憐れまれることへの苛立ちも含まれるだろその執念はとてつもないものだった。
心配していたお茶会も隅から見ていたが上出来だった。
多少の男子がイリス嬢に恋心を抱いたらしく、翌日には婚約の釣書が届いたらしくて彼女の母親は笑っていた。
僕はなんとなく面白くなかった。
何故かと聞かれたら何故かは分からない。
多分、これ以上頼れる人が現れるのが嫌なんだろう。
…その理由は考えたくはない。
今はまだ職を失いたくはない。
ぬるま湯のまま、彼女との時間を過ごす。
それだけで今はいいんだ。
そのうち思い出に変わる。
なによりまだ彼女は子供だ。侯爵家のご令嬢だ。落ちぶれた貴族の医師があいてになるはずもない。
数年後には学園にも入って友好関係も広がるだろう。
それまで。それまでの関係性なんだ。
彼女が貴族の令嬢として恥ずかしくないように、体調が万全であるように。
それが僕の仕事だ。
そして、彼女は数年後には誰からも可哀想とは言われなくなっていっていた。