第2話
私はまず、イリス・アイリスフォールという自分の名前の聞き取りと発音、書くことを必死に覚えた。
なんとか人が私を呼ぶ声が分かるようになると安心する。
イリス・アイリスフォール。
新しい私の名前。
新しい私の人生。
今度は家族の名前を覚えた。
それとは別にお父様、お母様、お兄様の呼び名も覚えた。
最初はお可哀想にと涙を拭いていたメイドも、寝込んでしまっていたお母様も、沈痛な面持ちだったお父様やお兄様達も、私が必死に覚えようとする姿に心を打たれたのか、私が指を指しながら物を訊ねるとノートに品物の名前を書き記し発音を教えてくれた。
ノートはかなり溜まっていった。
単語のみだけれど、少しの会話なら出来るようになってきた頃には医師から唇に指を一本を当てて内緒のポーズでクッキーを分け与えてくれた。
おやつの時間以外のクッキーは背徳の味がしてとても美味しかった。
私の勉強…ともいえるか分からない程度の勉強は、医師が思っていた以上のようだった。
ノートを一冊ずつ読みながらなんとなく褒めてくれる気がした。
そこで私は肝心なことを忘れていたことに気づいた。
この、厄介な患者の面倒を真剣に心底丁寧に取り扱ってくれている医師の名前すらまだ聞いていなかったのだから。
私は重要なこと…自分の名前や家族の名前なんかが書き記してあるノートを持ってきて医師に名前を書いてくれるように頼んだ。
初めて困った顔を見せられたけれど、とうとう根負けして几帳面な文字で医師の名前が書き記された。
「僕の名前はルノーです」
医師の名前は発音がまだ分からなかったけれど、何度もその単語を繰り返し呟いて練習をして、幼児向けの言葉の学習の本を読み比べて、医師がルノーということを知った。
ルノー先生。
私を面倒みてくれる、奇特なお医者様。
私にはその几帳面な文字が特別なものに感じて、何度も読み返した。
そうだ。
そもそも私は言語も文字も違う国に移住しようとしていたんだ。
そう思えばこの異世界もその延長線上みたいなものだ。
私の生活は家族と使用人と家庭教師とルノー先生を中心に回っていった。
私は誰にも可哀想なんて言われたくなくて一生懸命で、ノートもどんどん増えていった。
家族や使用人に家庭教師の先生、ルノー先生と会話の練習をしていく次第に簡単な会話も出来るようになっていった。
まだぎこちないし複雑な単語は分からないけれど、なんとなく相手が思っていること、言っていることを察せられるようになってきた。
そうすると、お母様は小さな茶会を開く練習をし始めた。
私とお母様と家庭教師の先生とルノー先生で中庭でお茶会をした。
マナーやルールも見様見真似と説明を受けてティータイムを設けられた。
「デビュタントは遅れますが、必ず立派なレディとして社交界に送り出してみせますからね、イリス」
お母様が張り切ってそう言った。
「ここまであなたが頑張ってきたんですもの。無駄にはしないわ」
そう仰る。
でもね、お母様。
私は思ったの。
前世で神童なんて言われて高いところまで祭り上げられてあっという間にやっかみで転落して、おまけに飛行機まで転落して…。
私はもう普通でいいんです。平凡でいいんです。
私は、平穏にイリス・アイリスフォールとして新たな人生を過ごすことに専念したいんです。
でもそうね。
ここはどうやら貴族のお家のようだし、いい家に嫁ぐのがお仕事なのかしら?
紅茶を飲みながら考える。
ルノー先生が着いてきてくれたら、どんな家に嫁ぐことになっても安心できるのに。
何故かそんなことを考えながらお茶会は進んでいった。
初めてのお茶会はなんとか及第点だったらしい。
お母様に褒められた。
もう少し会話に慣れたら同じ年頃の子が集まるパーティーに参加させられるらしい。
「ルノー先生、大丈夫でしょうか?」
不安をルノー先生に吐露すると頭を撫でられ励まされる。
「大丈夫ですよ。このまま頑張れば立派な淑女になれますよ。それまで僕も応援しています。一緒に頑張りましょう」
「……はい!」
ルノー先生に説得されて、私は余計に勉強に打ち込んだ。
会話が出来るだけじゃ駄目だ。
もっと勉強も出来なくては。
この世界には魔法もある。
会話と文章が完璧になったら魔法も覚えたい。
もっと、もっと、私なら出来るはず!
平穏で普通を望んだ筈なのに、マイナススタートだったせいか言語や文章の習得、この世界の常識や勉強にお茶会の作法を習得していった。
ルノー先生に褒められる度に力が湧いてくるから仕方がない。
私は、数年後には誰からも可哀想とは言われなくなっていっていた。