第1話
昔からなんでも出来た。
神童なんて呼ばれて、勉強も運動もなんでもできた。
出来るように努力もしてきた。
誰にも負けたことはなかったし、負ける気もなかった。
男の子、たまに女の子に告白されたこともあったけれど、恋愛なんて分からなかったし、断ってばかりいた。
高い、高いところまで祭り上げられて自分では降りられなくなっていった。
高いところは怖くて不安で降りたかった。
けれど、やがて次はお高くとまっていると言われ始めた。
私はどうしたらよかったんだろう?
こそこそひそひそ噂話をされるようになって、その噂がひとりでに歩き出すようになっていっていた。
私にはどうしようもなくなっていた。
私は逃げることにした。
親を説得し、前倒しで単位を取ることは難しかったけれど、必死に努力をして晴れて九月からは海外の大学に通うことになった。
さようなら、私を見てくれない皆さん。
私は新天地で元気に頑張ります。
そう思って飛行機に乗った。
まさかその飛行機が墜落するなんて思いもしなかった。
目が覚めると、ベッドにいた。
手足を動かしてみるときちんと動く。
普通、飛行機が墜落したら死ぬか大怪我して手足が動かないところだろうか。
何故動くんだろう?
奇跡的に軽傷で助けられたんだろうか?
考え込んでいるとノックの音が聞こえた。
反射的に「どうぞ」と答えると声が幼い。
ドアは慌てた様子で開かれた。
メイド服を来た女性が私を見ると慌ててまた大きな声を出して出ていった。
その言語が何語かは分からなかった。
私は先程の自身の幼い声もあり怖々と姿見を探したが、部屋の周囲をくるりと見回しただけで大きな全身が映るかのような姿見があった。
ベッドから降りるときも多分、私のものであろう小さな手足が見えた。
姿見の前に行き、ようやく自身の姿を見ると私は小さな女の子になっていた。
少し癖のあるボブカットは活発そうだった。
ピンクの髪色なんておかしい筈なのに、不思議と変だとは思えなかった。
それどころか私は私が分かる。
私はイリス・アイリスフォール侯爵令嬢。
アイリスフォール家の三番目の子であり長女。
厳格だが子煩悩な父とおっとりとした母とシスコン気味な兄二人に囲まれ健やかに育っていた。
私が姿見の前で呆然と立っていると、両親と兄の後ろに複数人の使用人が立て続けにやってきた。
色々言われたがやはり言語は分からない。
だけど、母に抱き締められた時の温もりは分かった。
何故見知らぬはずの女性を母と認識し安堵するのか、見知らぬ家族を家族と分かるのか、さっぱり分からなかった。
分からなくて、怖くて、私はまた気を失ってしまった。
再度目を覚ますとまたベッドの中だった。
両親と兄達が医師らしき男性と話をしている。
兄の一人が私が目を覚ましたのに気付いたのか声を掛けて全員の目がこちらを向く。
声を掛けられてもやはり何語を話しているのか分からなかった。
首を傾げる私に、医師が何かを紙に書き見せてきた。
文字も見たことがないものだ。
再度首を傾げ、横に振る。
医師は難しい顔をして家族に説明しだした。
多分、言語や文字が分からなくなっていることを伝えているのだろう。
母は段々と顔色が悪くなり、倒れる途中で父に抱き締められた。
医師が倒れた母を見て、父に何事かを言うと姫抱きのまま医師と私に何事か言い残して部屋を出た。
多分母を部屋に寝かせに行くんだろう。
仲のいい夫婦だ。
兄達はまだ私が言葉も文字も分からないのが受け入れられないのか、何事かを話し掛けてくる。
話し掛けられても私には分からないので、首を横に振るしかない。
やがて兄達は絶望したのか、何も喋らなくなった。
絶望したいのは私の方だ。
何故言葉も文字もわからない?
何もわからない?
医師は再び何事かを書き記すと文字と私を交互に指した。
多分、この書かれた文字が私の名前なんだろう。
私は大切にその紙を受け取った。
見たこともない世界、言語、文字。
確かに私は人生に疲れて新天地を求めたが、異世界なんて新天地過ぎるだろう。
かつての神童は、異世界では役立たずの平凡以下に成り下がってしまった。
まず、言語が分からない。
相手が何を言っているのか分からないし、何が書いてあるのか読めない。
これが現状一番の問題点だ。
幸い、何かのショックで記憶がなくなっていると思われている。
なら、それを利用しない手はない。
私は、身振り手振りで言語が分かるようになりたいと示した。
本を指差したりノートを手に持ち書き写す真似をして意思表示をした。
すると医師は何事かを言ってノートとペンを用意してくれた。
何を言ったかは分からないが、なんとなく通じてくれた気にはなった。
分からないなら分かるようになるしかない。
翌日から家庭教師に教わって発音から文字の書き方も教わった。
家庭教師も私の状態を不憫がって、でも厳しく教えてくれた。
前世の祖母を思い出す。
今の私は神童じゃない。
スタート地点どころでもない、マイナススタートなんだ。
それでも歩むしかない。
生きているなら、ここで生きるしかない。
幸い、勉強が出来るような家庭だ。
生前はなんでも出来たじゃないか。
今世もやってみてやろう。
イリス・アイリスフォールはかわいそうではない。
だって、私がいるのだから。
任せて、イリス。あなたの人生は私が受け継ぎます。