第三話『お月様が見ている』
肩を揺らし、息を切らしながら彼に追いつくと、彼は顔を背けて「すみません」とだけ呟いた。
それからしばらくの間私たちの間を静寂が埋めていたが、夕陽に染まる帰り道の途中に、彼は突然言った。
「ソフィア様、少しだけ寄り道したいところが」
「ああ、構わないぞ。しかし、珍しいな。お前から私に話しかけてくるとは」
「そうですね」
私の中にあるという魔王の力に価値を抱いてくれたのだろうか。
それで、和平反対派と上手くやれるなら願ったり叶ったりだ、と思わず笑みをこぼしそうになる。
だが、私のそんな表情には興味ないとばかりに、彼は街の外れ、森の中へと入っていく。
そこから間も無くして木々を抜けると、壁が半壊してしまっている小屋と崖にある墓が姿を表した。
その墓の背後には、夕日が映っていて、思わず「美しいな」と、感嘆の声を漏らしてしまう。
彼はそんな私を横目にちらと見た後、目の前にある墓に手を合わせた。
少しだけ劣化した墓石に刻まれている名。
『メイリィ』という少女の名と……『賢者ハイン』という名。
その意図を彼に聞こうとすると……、
「……最初から、こうすれば良かったんだ」
彼は冷たく、つぶやく。
そう言い切るがはやいか、ハインリヒは私の首を片手で持ち上げた。
「……が、ぁっ! な、ぜ……」
「お願いです。死んでください、ソフィア様」
彼の目に宿るのは、怒りと、絶望。
それが何に対する絶望なのか。それを状況が物語っていた。
「あなたが、いや貴様が声を上げなかったせいで、どれほどの命が失われたと思ってる……!」
「……ぐ、っ」
「争いは、我々魔族の誇りを示すため必要な行動だった。しかし、貴様のせいで彼らは誇りさえ示ず、犬のように死んでいった」
「や、めっ……」
「奴らがどれだけ屈辱的な思いだったのか……わからないだろうな、誇りも何も持たない貴様には!」
更に力が込められる。
制止しようにも、助けを求めようにも、声が出せない。チカチカと、視界が点滅する。
息ができない。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。
……怖い。
その時、ハインリヒのものでも、ましてや私のものでもない声が響いた。
「……やめるっス、ハインリヒ」
「邪魔をするな、リオンっ!」
「いいから、やめろって言ってるんスよ。あんただって聞いただろ、魔王様には力があるって」
「……っ、貴様は、知っていたのか」
「まあ、伊達に長生きしてないんで」
私の首にかけられていた力が抜けると同時に、不足していた酸素が肺の中に押し寄せる。
咳をしながらゆっくりと呼吸を整えてると、リオンがハインリヒとの間に立ち、零した。
「……あんたが、いろんな魔族が殺されてる事実について、よく思ってないってことは知ってるっス」
「なら……!」
「でも、ここで魔王様を殺してアンタが魔王になったって、前の魔王様と同じ末路を辿るだけだって、あんただってわかってるだろ?」
「……っ」
リオンの聞いたこともないような真剣な声。
その声は幼い少年には不相応な程に成熟していた。
「……だから、オレは今の魔王様に賭けてるんスよ。争いもなく、魔族が平和に暮らせる世の中になるって」
「戦わずして魔族の誇りを示せと言うのか? 綺麗事も……」
「綺麗事っスよね。でも、オレはこうも考えるんスよ。綺麗事だけが、綺麗な世界を作れるって」
彼はそう言って半歩引くと、私に視線を合わせて微笑む。
「この魔王様は魔王とは思えないほど臆病で、貧弱で、頭も弱くて……そして、優しい」
「一応確認するが、褒めてるんだよな?」
「勿論っス。……だからオレは、こんなどこにもいそうにない魔王だから、どこにもありそうにない綺麗な世界を作れるって、信じてる」
「……だが、そいつは我々が殺される事を是とした、魔族の恥だ!」
「本当に……いや、これは魔王様の口から言うことっスね」
リオンが振り向く。
私がこれから何を言おうとしてるのか、まるでわかっているかのような、確信に満ちた笑みを浮かべると――、
「魔王様、あなたは本当に同族の命について何とも思ってないんスか?」
「違うっ! 私はただ、みんなに死んで欲しくないだけだっ!」
「死んで欲しくないだと? 貴様のことを、どれだけその魔族が嫌っていると思っている!」
「わかっているさ! だけど、私は忘れられないんだよ! お前たちが私に昔、優しくしてくれたことを!」
私の叫びが森に響く。
私の父は、勇者に殺された。
それも、一撃で。反撃する暇すらなく。
私はただ隠れていることしかできなかった。
怖かったのだ、目の前にいる圧倒的な存在が。
その傷つき震えた心を癒してくれたのは、魔族のみんなだった。
特に、ハインリヒはよく私の世話を焼いてくれていた。
勉強や食事。遊びなども、彼から学んだ。
和平を望んだその日までは。
「お前たちが私を憎んでも、私はお前たちのことが大好きのままなんだ。どうか、わかってくれ……」
「……っ」
「これでわかっただろ、この子がどんな思いを抱いていたのか。なあ、ハインリヒ。……いや、『賢者ハイン』」
「……っ、何故その名を!」
「言ったっスよ。伊達に長く生きてないって」
その名を聞いた途端、大きく後ずさるハインリヒ。
賢者、というこの世の全てを知った存在がこの世界にいるということは知っている。
しかし、賢者は話では死んだと記録にあった。
だが、リオンにもふざけている様子はない。
それどころか、真剣な表情のままだ。
「ハイン、あの事について気にしてるのなら、ヒトコト言っとくっス。あの事については誰も悪くない」
「……そんなことはわかってはいる。だが、納得がいくわけないだろう」
彼はそれだけ言うと、私たちの間をすり抜け、墓石に向かい合う形で私たちに背中を見せる。
そのまま、彼はつぶやいた。
「……もう、話しても良い頃合いかもしれないな」
「ハインリヒ、あの事って……?」
「ソフィア様。少しだけ、ほんの少しだけ、昔話に付き合ってもらいたい」
「ああ、構わないぞ」
「私は……かつて、賢者と呼ばれていた。何もかも知り尽くした私が唯一抱いていた感情は、絶望だった」
「絶望って、どうして?」
「世界の果てが見えたのですよ。全てを知り尽くした私に、もう生きる価値はない。この本を読み終えたら死のうと、そう考えていた時でした。彼女が……メイリィが、私のところにやってきたのです」
彼は寂しそうに墓石を撫でる。
「彼女は、難病を抱えていた人間でした。どこの医者でも治せないからと、私……賢者の元へと、やってきたというのです」
「ハインリヒは、その病気のことについて……」
「勿論、知っていました。同時に、治すことは不可能ということも」
「……じゃあ、その病気でメイリィさんは」
「いえ。彼女が死んだのは病気ではなく……自殺です」
振り返り、寂しそうに笑うハインリヒ。
その目に怒りはなく、無力感だけが宿っていた。
「私とメイリィは、ずっと一緒に暮らし、治療法を探しました。最初の頃は時間があれば、という風なおざなりな気持でしたが……次第に、私は本気で探すようになったのです」
「どうして、本気で探すようになったんだ?」
「どうしてでしょうね。気が向いたのか、はたまた魔族である私にも明るく接してくれる彼女に恋していたのか、今となってはわかりません」
「……仲が良かったんだな」
「ええ。少なくとも私はそう思ってました」
また、表情にかげりが出る。
……その表情と言葉が、彼がメイリィについてどういう気持ちを抱いていたのか、何となくわかってしまう。
「一緒に食事を食べて、一緒の話題で笑って、一緒に病気について研究する。……だから、でしょうね。私は気が付けば、自分は魔族で、彼女との間には壁があるということを忘れてしまっていた。その傲慢さに、神とやらは怒ったのでしょう」
「お前が魔族なのが、何の関係があるんだ?」
「彼女の病気が進行し、起きるのもやっとという段階まで来た時です。ある日、彼女は苦痛に耐えかねたのか、そこの崖から飛び降り、自殺しました。結局のところ、私は信頼されていなかったんですよ。『所詮魔族なのだ』、と」
「……それは」
「空っぽの部屋を見て、私は叫びました。何故魔族というだけで、こんな思いをしなくてはならないのか、と。その叫びと共に、あの日の賢者ハインは死に、私は魔王軍参謀ハインリヒとなり、人間に我々の優位性を示そうと決心したのです」
「……それが、お前の怒りの理由だったんだな」
今、ようやく分かった。
彼が魔族の地位にこだわる理由が。
だけど、だけど……彼は、あまりにも悲しすぎる思い違いをしている。
「お分かりいただけましたか。魔族の権威さえあれば、彼女は自殺してなど――」
「――違う!」
力いっぱい、彼女の……メイリィの代わりに、彼の言葉を否定する。
その勘違いは、それほどに悲しいものだったから。そしてきっと、ここに眠っているメイリィを傷つけてしまうものだったから。
「メイリィさんは……ずっと、ハインリヒのことが大好きだったはずだ」
「……は、出鱈目を。なら、何故自殺した? 何故待てなかった?」
「ハインリヒ。お前は、その病気の解決策は見つけられたのか?」
「私の、力不足だったと?」
「違う、よく聞け。……メイリィさんは、お前が大好きだった。だからこそ、研究を続けても何も得られず、悲しそうな顔をするお前に、そしてその表情をさせる自分に耐えられなかったんだ」
考えれば、簡単なことだった。
どうして、立場の低い魔族と共に暮らしていたのか。
何故見捨てるのなら、まだ動けるうちに消えなかったのか。
「ずっと、最後まで。メイリィさんはハインリヒ……いや、ハインのことを信じていたんだよ」
「……」
「お前が魔族だとか、関係ない。彼女はお前に苦しんでほしくなくて、自殺したんだ」
「……っ、はははっ。ははははっ! なんだよそれ! なんだよ、それ……っ!」
目を覆い、大口を開けて笑い出す。
肩を震わせながら、頬に何かを伝わせながら。
「馬鹿だなぁ。本当に、馬鹿だなぁ……っ! はは、はははは……」
「……ハイン」
「ははははははっ! あっははははははっ……!」
それ以降、長い間彼は笑い続けた。
まるで、何かのタガが外れたかのように。
……違う、何かなんかじゃない。
それは、彼が封じ込めていた感情で、メイリィに向けられるべきモノ。
だから、私はただ黙って彼を眺めていた。
辺りが漆黒にそまり、彼は懐からランプを取り出し、微笑む。
「……さて、そろそろ暗くなってきましたし、帰りましょうか。魔王様」
「お前、今、なんて……」
今、私のことを魔王様と呼ばなかったか?
だが、確認しようとすると恥ずかしそうに頬を書き、呟いた。
「そう反応しないでくださいよ。こっちが恥ずかしいじゃないですか」
「……そうだったな、すまない」
言葉ではそういうものの、自然と頬が緩くなる。
彼はそんな私に咳払いをしたのち、周囲を見渡して言った。
「そういえば、リオンがいませんね」
「ん、ああ。あいつは以前も勝手に消えたからな。今回もそれだろう」
「……礼を言うつもりだったのですが」
「礼?」
彼は「はい」と言ってにこりと笑うと、私の隣に立ち、肩を置く。
「この魔王の甘さに気付かせてくれてありがとう、と」
「……舐めてるのか」
「ええ。だけど、そんなあなただからこそ、私は救われた」
彼はそう言うと、膝をついて頭を下げる。
そして、両手でナイフを差し出した。
見たところ、鏡のように磨かれ、美しい装飾が施されているところからかなり高いものなのだろう。
「……何のつもりだ?」
「あなた様に牙を剥いた反逆者に罰を」
その言葉を聞いた途端、理解した。
きっと、これは彼なりのケジメなのだろう。ならば、答えなくてはなけなしの王の器が廃る。
私はナイフを手に取り、そのまま振り下ろした。
情け容赦なく、今までの怒りをぶつけるように、無慈悲に。
空を切った。
「これにて反逆者ハインリヒは死んだ。魔王軍参謀が消え、また人手不足に近付いたわけだな」
「……本当に、甘いお方ですね」
「リオンに言われたからな。あり得そうもない世界を作るのは、あり得ない魔王みたいなことを、さ」
ナイフを反対の手に持ち、目の前の男に片手を差し伸べる。
「という訳で、今魔王軍では猫の手も借りたい状況なんだ。良かったら、私の側近になってほしい」
「お受けいたしますとも」
「ああ。……今後ともよろしくな、賢者ハイン」
「ええ。不肖ハイン、亡き友ハインリヒに誓い、必ずや魔王様のお役に立ちましょう」
地に膝をつき、頭を下げる彼の横顔を。
眩しい月の光が照らしていた。