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戦中の虎  作者: 小城
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駿河甲斐編

 この物語は、フィクションであり、実在の人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。

 魔王の領地では死者が生き返る。巷で噂されていたことは、真であった。

「まさか信じられぬ……。」

 熊谷は照姫の手を引いて、山谷の森を走った。

「もうよい。鹿衛門。痛い。」

 照姫がつないでいた手を振り払った。

「見たか。あれを。」

「ああ。昼間の者たちだな。」

 しばし、二人は沈黙した。

「これで分かった。この地、いや、駿河辺りは、既に、織田領となってしまったのだ。」

「これからどうする……。」

「古府へ向かう。」

「どこだそれは?」

「甲斐だ。山を越えて行く。甲斐には、いまだ武田が持ちこたえているだろう。」

 二人は山の奥に分け入った。それは、正常な判断に欠く決断であった。それでも、熊谷は、その決断を敢行しようとしたし、照姫もそれを拒むことはなかった。そうした正常な判断を欠く行動をすることこそが、死人が動くという、ただそのひとつの出来事に相対した二人ができうることであった。それは、異常な状況の中にあっては、正常であることの方が異常であるということの証左だったのかもしれない。


 夜を通して、二人は、山の中を歩いていた。朝日が顔を出してからも、少し休んだだけで、再び歩き出していた。かと言って、先頭を切っていたのは熊谷であり、照姫は、後を付いて行くだけだった。

 その昼夜兼行は二人の体力を奪ったが、逆に、熊谷の思考を冷静なものにするという反作用を得た。

「夜半に眠るのは危うかろう。日暮れまで、しばらく休もうではないか。」

「ああ。そうしてくれ。おれは疲れた。」

 そういうと照姫は地面に横になり、倒れた。それに続いて、熊谷もまた、木の幹に体を預けて、目を閉じた。


「おい。鹿衛門、起きろ。」

 梟の声が聞こえた。辺りは深更である。二人は、再び、山の中を歩き出した。

「何だ、これは……?石か。」

 先頭を歩いていた照姫の足下に違和感を感じた。

「石畳だ。近くに寺があるやも知れぬ。」

 闇夜の中を、二人が探すと、それはまさに寺の門前であった。門内は暗く静まり返っているが、そこにある建物は、山中で立派に、木々を背負って鎮座していた。

「灯りだ。鹿衛門。」

 寺域内に立ち入った二人。目の遠くには、朧気に、蝋燭の灯りであろうか。それがあった。


「かような所に人が来るとはな……。」

 灯りの元は、本堂の奥の院にあった。その灯りに照らされた暗闇の中の四畳半に、人影が一人、鎮座していた。

「我らは駿河から来た。甲斐の武田のもとへ行きたい。仏の慈悲と思って、宿と糧を恵んではくれぬか。」

 暗闇の主は、この寺の住持であろうと、熊谷は思った。しかし、本心は誰でも良かった。それは文字通り、地獄で仏に出会ったような心地だったであろう。

「糧か……。用意はできぬ。庫裏から好きに持ってこい。宿は…好きにつかうがよい。」

「有難い。」

 熊谷と照姫は丸一日、何も食ってはいなかった。あまり、空腹が続くと、今度は、体が食物を受け付けなくなる。そうなる前に、何か飯を食っておきたかった。

「来い。照姫。庫裏を探すぞ。」

 熊谷は照姫を連れて行った。幸い、庫裏はすぐに見つかった。そこには漬物や糒が置いてあった。


「御坊に礼を言わねばならぬな。」

 食物を見つけて安心したのだろうか。熊谷は、それらの食物には手を付けず、再び、照姫を連れて、奥の院へ戻ることにした。

「どうかしたか?」

「……。」

 先ほどから、照姫は沈黙していた。熊谷が尋ねても答えなかった。

「御坊。礼を言い忘れていた。すまぬ。」

 奥の院では、蝋燭の灯りが、未だ灯っていた。

「鹿衛門……。よせ。」

 照姫が、熊谷の袖を引いた。その顔は、恐怖と警戒心が入り混じったような表情であった。

「おまえたちは、生者か。」

 暗闇の僧が言った。

「織田から逃れてきたのか。」

「そうだ。」

「ならば、あの者たちには会ったのか。」

「あの者とは。」

 熊谷も無論、違和感は感じていた。しかし、照姫の制止も関わらず、僧と問答を続けた。

「亡者どもト……よ。」

「動く屍か。魔王の領地では死者が蘇るというのは真だったのだな。」

「彼らは亡者よ。骸……。成仏できぬヲン念が骸をうごかしているにすぎぬ……。朝日がノボれば止まり、夜になればサマヨう。魔王に殺された、うかばれぬ魂がそうしているにすぎヌ……。」

「日の本は、今、どうなっておるのだ。」

「魔王は闇にスみ、亡者をしえきする。日の本は東西にワかたれて、ヲンしんを知れぬ。人びとは魔王を恐れ、おのが身を保つことでいっぱいだ……。」

「……信長は何を求めておる?」

「あれをミよ。」

 暗闇の中、蝋燭の灯りに、火灯窓が照らされた。おそらく、僧が示したであろう、その窓を、熊谷は開けた。その窓の外に、月明かりに照らされて、浮かび上がったのは、堂内の建物の内外で彷徨う亡者の骸たちであった。それらは、この寺の僧であり、小僧たちであった。

「カレらは織田に殺されたモノたち。浮かばれず、知恵をモたず、煩悩にシタガい、喰らうこともなく、サマヨうのみ。朝日がノボれば止まり、夜になるとうごき出す……。」

 月明かりに照らされた亡者たちは呻きながら歩いていた。中には、傷を負い、朽ち、腐り、四肢を失い、骨を露わにして、はいずりまわっている者もいた。そして、熊谷の隣に座り、今しがた語っていた住持らしき僧もまた、既に死した骸であることを、熊谷は知った。それでも、熊谷は、この山中で出会った唯一の話し相手に恐れを抱くことはなく、語りかけた。

「我らは何処へ行けばよいか。」

「武田はすでに滅んで亡いやも知れぬ……。されど、もしやしたら、未だ甲斐に有るかも知れぬ……。」

「左様か。最後に何か、望むことはあるか。」

「あの者たちを救ってくれ……。亡者どもは朝日がのぼれば止まる……。その間に、ワレラを、骸を、火にかけて、こぼちて欲しい……。」

「承った。」

「アリガたい……。お前たちに仏の加護があらんことを……。南無……。」

 そうして、僧は黙って、読経を始め出した。その声にならぬ声を後に、熊谷と照姫は、奥の院を立ち去った。


 翌日、日が昇ると骸が散乱していた。あの僧は、奥の院で、昨夜と変わらぬ姿で鎮座していた。二人は、院内の骸を集めて、奥の院に安置すると、そのまま、建物に火を付けて、骸を火葬した。

「甲斐に行くぞ。」

 二人は山道を進んだ。

 寺で得た食糧や品物のおかげで道中の旅路は、幾分か楽になった。替えの草鞋や草木を払う鉈も手に入った。山の中は、二人の他は虫魚草木しかいない。鳥や獣の姿も見なかった。

 そのような静まり返った道中で、熊谷はゆっくりと考えていた。何故、このような世の中になったのかと。

「俺が知らずにいただけで、もとより世の中は、このようであったのだろうか……。」

「知らぬ。」

 そのような独り言とも言える熊谷の言葉にも、照姫は返事をしてくれる。彼女も、また、山道の旅に、疲れているはずなのだが。


 信長を討つという、当初の目的は、熊谷にとって興のあるものではなかった。しかし、今は、そのことを、知らず知らずの内に、熊谷自身が求めて、それに向かって身を動かしていることに、熊谷自身も気付いてはいなかった。それは、彼の中にある純粋な興味によるものであった。

 亡者が動くなどというこの世の現実を前にして、その理と原因を探ろうとする探求者に、熊谷は、なっていた。

「里だ。」

 人里であった。山間の盆地にその集落はあった。しかし、その集落も、既に廃墟と化していた。その夜、二人は、そこに宿を取ることにした。

「先に眠るがよい。」

 二人は、交代で眠った。夜の月は廃墟と化した空き家の隙間から、その姿を覗かせていた。

「可愛い寝顔だな……。」

 まだ小娘とも言える照姫のことを熊谷は考えた。照姫と熊谷とは、体の契りを結んでいる。しかし、ここに来るまで、熊谷は照姫の素性というものに思いを巡らすことがなかった。


「おぬしの身内ではないのか?」

 いつだったか、老爺と暮らしていたときに、彼に尋ねたことがあった。

「そうだ。」

 老爺は、ただ一言だけそう言って、再び、稽古に入った。


「起きたのか。」

「ああ。今度は鹿衛門が眠る番だ。」

「そうか……。では、任せるとしよう。何かあれば、すぐに起こせよ。」

「分かっている。」

 鹿衛門は、刀を抱き床に伏した。なんだかんだ言っても、照姫は鹿衛門より腕が立つ。それは、触れただけで相手を倒し、刀で打てば鎧の上からでも、相手は卒倒し、槍を取れば、兜すらも貫き通せる技である。その原理は、鹿衛門には分からない。かじる程度には体得したのだが、初学者のそれである。

「立って構えるのに三年の時を費やす。」

 老爺はそう言っていたが、鹿衛門は、それを一年終えただけに過ぎない。それに比べて、老爺の話では照姫は、もう十余年の時を、技の修業に費やしているという。修業と言っても、彼らのそれは、太刀を振るったり、相手を組み伏せたりといったこともするにはするのだが、それよりも常住坐臥の全てを包括する概念らしかった。


 一夜を終えて、二人は再び、東へ向かった。結局、この辺りに亡者は現れなかった。それでも、今、どこにいるのか分からない二人にとっては、このまま東へ向かうしかない。

「甲斐が駄目ならば、相模、それより、東。東国を目指すのだ。」

 魔王は西にいる。日の本を包む闇もまた西からやって来るのである。


「抜けた!!抜けたぞ。あれは甲斐の山並みだ。見覚えがある。」

 山中を来て、幾日過ぎただろうか。熊谷と照姫の二人は、富士川の上流、甲府盆地に辿り着くことができた。

「武田の館はどうなっておるか。」

 熊谷は、諸国流浪の途中に、甲斐に寄ったことがあった。その時は、武田家の臣の館に泊めてもらった。

「曲者!!待たれよ。」

 稲を刈り終えた水田の畦道を走って行くと、向こうから騎馬武者一騎と槍を持った足軽が数人、二人のもとに駆けて来た。

「そこな二人は何者か、名乗られよ!!」

 馬上、騎馬武者が大音声で叫んだ。

「我らは、旅の兵法者に御座る。諸国武者修行の途次。かの地は、甲斐武田家の所領と心得るが、如何。」

「兵法者?」

 騎馬武者は照姫を見た。女連れの兵法者とは、なかなかいない。

「何れにせよ、詮議致す故、関まで来られよ。」

「承知仕った。」

 熊谷と照姫は、足軽たちに囲まれながら、大人しく、騎馬武者の後を付いて行った。


「たわけ者!」

「何だ?」

 関所へ向かう途中、後ろを向くと、足軽の一人が照姫に組み伏せられていた。

「こやつ、悪戯しおった。」

「離せ!小娘。誰か己などに悪戯するものか!!」

 組み伏せられていたのは最後尾の足軽であった。熊谷は中央にいたので、子細は分からない。

「誠か。」

「誠だ。」

 いつの間にか、騎馬武者が馬を操って、最後尾までやって来ていた。

「娘。離してやるがよい。」

「ふん……。」

 照姫は、ねじ上げていた足軽の腕を離した。そして、その代わりに、騎馬武者の操る馬の蹄が、足軽の体を地面に腹ばいさせたと思うと、騎馬武者の持っていた手槍が、そのままうつ伏せに馬の蹄に踏まれている足軽の盆の窪を突き刺し、絶命させた。

「行くぞ。」

 再び、一団は歩みを始めた。後には、荷車に踏まれた蛙のように身悶えする足軽の死体が残された。


「さて……。」

 二人は、水田から離れた丘の麓にある館へ連れて来られた。それは関所というよりも、この付近を監視する砦のようであった。

「兵法者というのは誠らしいが……。」

 馬上の騎馬武者は、馬から下りて、今は甲冑を着けたまま館の庭で床几に座っている。その前で、二人は跪かされていた。

「一体、何処から来られたか。」

「駿河より、山を越えて参った。」

 武者の質問には熊谷が答えた。

「山を越えて来たとは?」

「我等、故あって、師の下、山中にて一年の修業に励んでおったところ、久々に里へ降りたれば、俄に異変に出くわし、子細も知れず、かの地へ参った次第。この娘は、師の子にして、我が妻に御座る。」

 照姫のことを、師の子と言い、妻と言ったのは、その方が都合が良かったからだろう。一方の照姫は、熊谷のこの口上を黙って聞いていた。

「異変とのう……。」

 武者は髭を撫でていた。その言葉の意味は理解している様子である。

「其方らは、どこへ向かう?」

「某の生国が常陸に御座る故、東へ行きまする。」

 熊谷の生まれが常陸というのは真実である。しかし、彼らがこのまま東へ行くかどうかは、状況次第であった。

「この地は、今、織田殿が治めておられてな。」

「すると、貴殿は織田殿の士卒に御座候や。」

 予想は付いていた。道中立ち寄った寺院での様子などから、武田家は既に、織田に滅ぼされているのではないかという推測は十分可能である。

「去年の夏であったか。織田殿の軍兵が、俄に押し寄せてな。武田の大将は兵を集めて、一戦に及んだが、負けた。その戦、儂も加わっていたが、武田は織田に降った。もとより、儂はこの辺りの地頭。本貫は違うが、織田殿に降った後も、変わらずこの地を治めておる。」

 詮議はそれまでだった。その後、二人は館の一室を宛がわれて、それを宿とした。


 熊谷は不審を抱いていた。あの武者は、元からここを治める領主だと言っていた。しかし、熊谷の眼には、武者とこの土地との間に、絆のようなものが見られなかった。熊谷の感じたそれは、ただの卑屈な妄想なのかも知れないが、どこか腑に落ちなかった。

「鉄砲の音……。」

 夜半、熊谷は物音を聞いた。隣では照姫が寝ていた。


 ……ドン……。


 遠くから響く遠雷の音は、まさしく鉄砲を撃つ音である。熊谷は、床から起きて、その音がする元へ向かった。

「誰だ……。」

 鉄砲を撃っていたのは、あの武者であった。

「かような夜更けに何を撃っているか。」

 館の南西際にある塀の狭間から、武者は何か目掛けて、鉄砲を撃っていた。

「知らぬことはなかろう。」

 武者は鉄砲を肩に掛けて、身を退いた。その動作は熊谷に、狭間から外を覗けと言っていた。武者の提案に、熊谷は後ろを警戒しながら、ちらと、狭間に眼を近づけて外を覗いた。そこには、闇夜、月明かりの下に、昼間、武者の槍に盆の窪を突かれて死んだ足軽の死体が亡者となって、徘徊していた。

「あれは、昼間、お主が殺した相手ではないか。」

 熊谷は武者と相対した。


 ズドーン!!


 武者は熊谷の質問には答えず。再び、狭間から外に向かって、鉄砲を構え、引き金を引いた。そして、撃ち終わると、また、身を退いた。熊谷は、再度、狭間から外を見た。武者が撃った鉄砲の玉は、足軽の亡者の太股に当たったのだろうか。足軽は倒れていたが、動きを止めることはなく、両手で地を這いながら、塀から半町程、離れた泥田の中に入って行った。

「何が言いたいか。」

「知らぬ顔をするな。」

 武者は、鉄砲を杖にして、傍らに置いてあった床几に腰掛けた。その姿は、闇夜の中だからか、装束姿だからか、昼間見た時よりも、年老いて見えた。

「何のことだ。」

「今、見たであろう。」

「動く屍か?」

「呪いだ。」

「呪い?」

 武者が鉄砲の筒をふっと吹き、中の煤を払った。

「織田の軍兵が来て以来、この地は呪われてしまった。田畑は荒れ、百姓は逃げる。」

「動く屍など、昼間の内に焼いてしまえば良かろう。」

 熊谷は言った。それは、ここまで来る道中、山中の寺院で、彼がしたことであった。亡者が動くのは夜の内だけである。彼らを日のある内に、火葬してしまえば済む話だった。

「誠、知らぬのか。昼間の話は、本当であったか。」

「何がだ?」

「山奥にいたということだ。」

「ああ。誠のことだ。」

 てっきり、熊谷は、武者が自分の話を素直に受け容れてくれていたと思っていた。だからこそ、一夜の宿を用意したのだと。しかし、実際は違っていたらしかった。

 どうやら、武者は、熊谷たちの話の真実など、どうとでもよかったようだった。というよりも、彼は、既に、他人や、その他もろもろのことに対する興味関心を失っている様子であった。

「骸を焼いたとて、あれらの魂は成仏せぬ。彼等は魂魄となって、宙に漂うだけだ。」

「それではならぬのか?」

「成仏せぬ魂は、我等を呪い祟る。人々は死に、作物は育たぬ。夜になると、呻き声が聞こえ、やがて、人を狂わす。」

「真か?」

「信じぬならば良い。」

 熊谷は驚いた。もし、それが真実ならば、山中の寺で会った者たちは、未だ悪霊となって、漂っていることになる。


 月明かりの下、熊谷と武者の問答は続いていた。

「いつから世の中はこのように変わってしまったのだ。」

「織田の仕業よ。彼奴らが災いをもたらして来た。彼奴らは、綺羅を飾った軍兵を以て押し寄せ、村々を荒らし、火を点け、人々を殺して回った。役立つ者は、彼奴らの本拠へ連れて行かれ、残った者は、死を免れた足弱たちだけ。後には、呪いと祟りが残されたのだ。」

 武者はそう言うと、鉄砲を構え、狭間を覗き込んだ。


 ズドーン!!


 轟音が響いた。武者は、塀から体を引いた。熊谷が狭間を覗くと、塀から少し遠くで、頭の右半分を失った亡者が地を這っていた。

「見事な腕だな。このような暗闇の中で当てている。」

「この間合いならば造作もないわ。」

「いずれで、技を培ったのか。」

「旅の者からよ。それより後は、生来の物好き故、己で磨いた。然れど、儂には、これが限りよ。」

 鉄砲は足軽の武具だと言われている。名のある士卒で、これを巧みに扱うのは余程、思い入れがあり、技を磨いた者のみであろう。それを武者は、闇夜の下、月明かりを頼りに、半町離れた標的に命中させることができる。それは、並以上の腕前であった。それでも、その腕前を謙遜するのは、彼に撃ち方を教えた者の腕が余程の物であったのだろう。

「それ程までの腕の者だったのだな。その者は。」

「あの者の腕前は、凄まじかった。当てるだけならば二町離れた物にも当てていた。」

「それは神技。名は何と言うか。」

「名か……。蟻蜘蛛と呼ばれておったな。」

「蟻蜘蛛?」

「あの者の凄まじさは、ただ鉄砲の腕前だけではない。彼自身よ。あれは、関東を攻めた折のこと。彼の蟻蜘蛛は、敵の城戸から離れた地の上に、草と土を被り、ひと月も伏せて待ち、我等が城攻めに難渋し、退き始めた時、城戸から出て、我等の殿(しんがり)に追いすがる敵の大将首、目掛けて鉄砲を放ちおったのよ。その玉、ひとつで城方の大将は落命し、総崩れだ。」

「ひと月もその機を待ち伏せしていたのか。」

「左様。奴は、主も持たず、ただ己の鉄砲撃ちだけに息をしておった。それ故、大将を仕留めたことも、我等には告げず、そのまま、儂らは国へ舞い戻ってから、ことの子細を聞いたのだ。誠に変わった男だったわ。」

 武者の話に、熊谷は感動していた。得物は違えど、その蟻蜘蛛なる男は、兵法者であると思った。己の腕と技のみを頼りに生きる。それは、あの老爺も同じであったのかもしれない。そして、その中には、自分も、また含まれていると熊谷は、心中に思っていた。

「その蟻蜘蛛なる者は、今、何処におられるのか?」

「さあな……。」

 武者は鉄砲を構えた。


 ズドーン…!!


 すぐ近くで、何かが弾ける音がした。熊谷が狭間から覗くと、塀のすぐ近くで、亡者の頭がはじけ飛んでいた。それでも、それは、塀の下の地面を、両手を使って這っていた。その瞬間、熊谷は、もとはと言えば、目の前の武者が、その足軽を亡者にした張本人であり、その男をまた、死してなおも、鉄砲の当て物にしているということを思い出した。戦国の世にあっては、それは狂気を伴うものなのであろうかを、筆者は知らない。しかし、熊谷もまた、目の前の武者に、得も言われぬおぞましさを感じざるを得なかった。

「あの男は、織田殿の所にいるかもしれぬな。」

「魔王の所か。」

「魔王か。世間は織田殿をそう呼んでいる……。まあ、あの男は、西へ向かっていた故、今は、魔王の領内にいるやもしれぬ。さて、風と曇が出てきた。やがて、亡者共の呻き声が聞こえて来る。お主も、気が狂わぬ内に屋内に戻れよ。」

 そう言って武者は、鉄砲を担ぎ、床几や荷を持って行ってしまった。亡者の呻き声とやらに、熊谷は興味があったが、月が曇に隠れる前に、照姫の元へ戻ることにした。


 翌る日も、熊谷と照姫は、彼の武者の館にいた。

「南無阿弥陀仏……。」

 塀の傍らに朽ちていた足軽の遺体を、熊谷は火葬していた。その煙は、青い空に昇って行く。

「穴山梅雪斎殿を存知ておるか?」

 熊谷が振り向いた先には、あの武者がいた。

「娘に聞いた。お前たちは、織田殿を討つつもりらしいな。」

 それを聞いた熊谷の体が強張った。

「照姫がそう言ったのか。」

「照姫というのか。あの娘は。」

 昨夜、寝床に帰ると照姫は、大人しく眠っていた。しかし、今朝は、熊谷よりも、早くに起きたらしく、今まで、姿を見ていない。

「あやつは何を申したのか。」

 熊谷の語気には怒りがこもっていた。彼の計算では、この土地で、十分な情報を集めた後、ことの成り行きを決めるつもりであった。それが、照姫の軽はずみな言動で、水泡に帰してしまったのだと熊谷は思った。

「娘を責めるな。問い詰めたのは、儂だ。」

 武者の言うことには、もとより、二人を怪しんでいた彼は、熊谷よりも、与しやすい照姫の方に鎌をかけたのだと言う。

「それに、儂は、お前たちを搦め捕るような真似はせぬよ。」

「それはどういうことかな?」

「この土地の本貫であられる梅雪斎殿に会わせてやろう。梅雪斎殿は、儂より、織田殿のことに詳らかである故な。」

「何故、そのようなことをする?」

「言わでものよ。」

 もともと、この悲しき武田の武者は、魔王、織田信長に忠節心などないのであろう。それは、人外境とも言えるこの土地の荒れ方を見れば当然のことである。

「聞き遅れたが、お手前、名は何と申されるか。」

縫殿(ぬいどの)右衛門だ。覚えておきやれ。」

 そう言って、縫殿は姿を消した。熊谷は館の部屋に戻った。そこには照姫が座っていた。

「照姫。遅かったな。何処にいたのだ?」

「鹿衛門こそ、どこにいた?」

「俺は右衛門殿と会っていた。」

「そうか。それはよかった。伝える手間がなくなった。」

「梅雪斎殿のことか。」

「ばいせつさい?」

 照姫が不審な顔をした。

「違うのか?」

「まあいい。」

 会話はそれきりだった。翌日、二人は、縫殿の案内で、穴山梅雪斎の館に向かった。

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