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戦中の虎  作者: 小城
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プロローグ

 この物語は、フィクションであり、実在の人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。

 山間の僻地に虎がいるという噂が立っていた。甲斐、遠江、駿河に隣接する山中でのことである。

「虎という物は、遠く唐国にいる獣。かような本邦の山中におるはずなかろう。」

 山下に住まう領主、朝比奈志摩守は、家来を引き連れて、山に入ったところ、やはり、そのような獣は見られなかった。

「虎とな……。」

 朝比奈の所に逗留していた兵法者の熊谷鹿衛門という男も、その噂の真偽を確かめんとして、山中に分け入った一人であった。

「虎なあ……。」

 この熊谷という男。東国から流れて来た新当流の使い手である。兵法天下無双を目指し、道中、野試合をしては、この駿河の山麓まで来た。それで生き残っているということは、なかなかの手練れには相違なかろう。彼は、この山間の僻地の虎を退治してみたいと思った。

「いた。」

 川の石が転がる河原の端に、見たことのない獣がいる。熊や猪とは違ったその獣は、黄色に黒の縞模様をしていた。もちろん、熊谷は虎という唐国の獣を知らない。この山中に住む民も虎という獣がどういう物なのかを知ることはない。それが、何故、今回の虎騒ぎに至ったのだろうか。

 その真相は、つまり、山中を徘徊する樵が、斬殺された獣の死骸を見たことによる。獣自体は、鹿や猪の類なのだが、獣は、ひどい裂き傷が元で亡くなっていた。

「それは、もしや虎にやられたのかもしれぬな。」

 樵から話を聞いた山寺の和尚は、漢書にある虎という獣を引き合いに出して語った。それが噂となって伝播したに過ぎなかった。

「虎よ。逃げるまいぞ。」

 それでは、今、この熊谷の目の前にいる縞模様の皮を被った物の正体は何なのであろうか。それは、偶然にも、虎の皮を被った人間であった。

「えいとお!!」

 熊谷は刀を振った。しかし、次の瞬間に斬られていたのは、熊谷自身であった。


 熊谷は目を覚ました。そこは、板の上に敷かれた筵の上であった。

「息を吹き返したか、小童。」

 熊谷の視線の先に、老爺が一人、座っていた。そして、その視認と同時に、腹に熱い痛みを感じた。

「今、動かば死ぬぞ。」

「己は、何者じゃ……。」

 息を吐く度に、腹が焼かれそうになるのが分かった。

「虎は……。何処におる……。」

「虎などおる訳なかろう。」

「何……?」

 熊谷は、自分がてっきり虎に返り討ちにされたと思っていた。そして、この老爺に助けられたのだと。

「目の先を左に向けて見よ。」

 老爺は狡猾そうに物を言った。熊谷が、言われるがまま、視線を左に向けると、そこにあったのは、あの縞模様の獣の皮が、壁に掛けてある光景であった。

「俺を斬ったのは己か……!!」

 虎の皮を着た老爺。それが、自らの腹を斬った。熊谷は、虎の皮を視認した刹那に、そう解釈した。

「ひゃはは。まぬけだの。お主は。」

「己……!!許すまいぞ。」

「やめておけ。死ぬだけだ。」

 熊谷は、腹の焼けるような痛みと死を覚悟して、体を起こそうとした。そして、その試みは、ある程度までは成功した。即ち、上体を起こすところまではできた。しかし、その後、老爺の右手の中の指が、熊谷の額に軽く触れた瞬間、彼は、腹の激痛と、何か不可思議な作用により、背中を筵の上に叩きつけられる羽目にあったのだった。

「お主は殺さぬ。お主は殺さぬよ……。見た所、多少の腕は持っているようだからな。今は、傷を治せ。満月の頃までには、動けるようになる。恨みを晴らすのは、その後でよかろう。ひゃははは……。」

 老爺の笑い声が響いた。その音が止むまでに、熊谷は意を決した。それは、今は、老爺の言い分に従おうということであった。


 十日が過ぎると、老爺の言うとおり、熊谷の傷は癒えた。

「殺さば、殺せよ。」

 老爺は言った。己の腹を斬られた意趣返しをせよということである。しかし、床に伏せっている十日の間に、熊谷は、いろいろなことを知った。そのひとつが、照姫と呼ばれる十五、六の娘の存在であった。

「御師様。」

 と娘は老爺のことを呼ぶ。普段、照姫は老爺や自らの身の世話をしているが、床に伏した熊谷の看病も、彼女の仕事であった。

「お前たちは何者か。」

「……?」

 熊谷がそう娘に聞いたところ、彼女は質問の意味が分からないというような様子でいた。

「名は何と言うか。」

「照。」

「てる……?」

「御師様は、照姫と、わしのことを呼ぶ。」

 色白の少女は、口から八重歯を覗かせていた。


「(夜か……。)」

 傷が癒えた初日。満月の明かりが夜空に浮かんでいた。熊谷がいるのは、山中にある荒れ果てた山寺であった。それが老爺と照姫の住み家である。古の昔、日の本全土を国王が治めていた頃に、どこぞの聖人が建てたのであろう仏法の宿地も、乱世の最中にあっては、どこの馬の骨とも知らぬ輩の根倉になっていた。

「(あやつめは向こうか……。)」

 熊谷は本堂の内陣に伏していた。老爺と照姫は、外陣にいる。幸い、刀は内陣の床に置いてあった。

「(死ねい……!!)」

 闇討ちは本懐ではなかった。しかし、ああまで恥を掻かせられたならば、最早、恨みを晴らすだけであり、手段は選ばなかった。熊谷は、筵の上に寝ている老爺の体に、刃を突き立てた。老爺を殺した後は、照姫を連れて山を下りて、彼女に熊谷の身の回りの世話をさせるつもりだった。

「くっ……。」

 しかし、その算段は叶うことはなかった。

「おのれ、小娘、離せ!!」

 熊谷は、照姫に組み伏せられていた。本堂の床の上に、刀を持ったまま後ろ手に右手を絞められ、背中の上に、照姫が乗っていた。

「何故、動かぬ!!」

 たかが十五、六の小娘の体である。壮年の熊谷がその気になれば、簡単に組み替えすことはできるはずだった。しかし、それが、どうしてもできなかった。少女の体は、まるで、鉄の塊にでもなったかのように、熊谷の腹を床板に圧していた。

「動け!!動けえい!!」

「ひゃははは。まぬけよのう。お主は。真にまぬけよのう。ひゃははは。」

「くそう!!貴様ら、この俺を斯くまで愚弄するとは。おのれ、許すまいぞ!!殺してやる!!」

 熊谷は、文字通りじたばたとしたが、無駄であった。

「まぬけじゃ。まぬけじゃ。そのようなまな板の魚のような格好で、殺せるものならば、殺してみよ。ひゃははは。まぬけ面よのう。お主は。」

「おのれ、畜生!!何故、動かぬのだ!!」

「御師様。」

 照姫が気の毒そうな声を出した。

「絞めておけ。」

「うん。」

 老爺の言葉とともに、照姫の細い腕が熊谷の首に絡み付くと、そのまま熊谷は、意識を失った。


 熊谷が気が付いたのは、翌朝であった。

「気付いたか。」

 傍らに照姫が座っていた。

「お前たちは、何者だ……。」

 目覚めて一番に発した言葉がそれであった。

「……。」

 以前と同じ質問を受けられた照姫も困惑していた。

「そういう、お前は何者なのだ?」

 言葉に窮した末の照姫の返答であった。

「俺か?」

 熊谷の目には、この少女や老爺の存在は理解の届かぬ異質の存在として映っていた。しかし、彼らにとっては自分自身の存在など、ごく普通の存在であり、当たり前に、この世の中に存在しているものである。そして、その存在に対して、尊敬や利己心といった心を伴わず、単純な疑問を以て、問いかけるのであれば、それは、質問者自身の存在に対して、問い掛けていることと、同じであるとも言える。

「兵法者。」

「ひょうほうしゃ。」

 乱世を生き、糧を得る方便として、己の腕と技を磨く。熊谷が、そのことを決意したのは、三年前のことである。それは、己の生活に窮しての末ではあったが、元来の性質からか、斬り合い、死合い続けて、今日まで、生きて来ることができていた。それが、熊谷にとっての自己証明であり、驕慢となっていた。

「貴様のやっていることなど、ただの太刀打ちだ。武道ではない。」

「御師様。」

 二人のもとに老爺がやって来た。

「魚か。」

山女(やまめ)だ。」

 老爺の手には、痩せた山女が三匹、吊り下げられていた。

「お前は、先ほど、武道と言ったのか。」

「ああ。武道というのが嫌ならば、何とでも呼ぶが良い。技、術、それこそ兵法とでもな。」

「仙人か何かなのか、お前たちは。」

「好きなように呼べば良い。」

 老爺は釣ってきたばかりの魚を木の枝に刺して、囲炉裏端に並べた。それから、この三人の奇妙な共同生活が始まった。


「山谷の中に立ち続けて三年。」

 老爺は魚を喰らっている。

「それで、あの不可思議な術が身に付くのか?」

「それは、お前次第よ。我らはひたすらに天地の機を感じるのよ。然らば、行く行くは、天地人神、全ての気を感じることができるようになる。技はその後だ。」

「仙人の術だな。」

「照姫は、かれこれ十年来、技を磨き続けている。」

「それほどの月日を経なければ、あれだけの域には達せずということか。」

「もとより、お前に、斯様な域に達することを求めてはおらぬ。貴様には、頼みたいことがあるのだ。」

「頼みたいこと?」

「一年の内に、儂は死ぬ。その後、お前には、照姫の手伝いをしてもらいたい。」

 老爺の食っていた魚は骨まで食われて、跡形もなく、老爺の胃の中に収められて行った。熊谷は、この老爺が一年の内に死ぬという、自らの予言については関心がなかった。乱世に兵法者として生きて来たからか、熊谷は、この世に生きる人の生死には、無頓着であった。

「何の手伝いだ?」

 熊谷も魚を喰らい終えた。彼の木の枝には、青白い魚の肉がこびりついて取れなかった。

「魔王を討て。」

「……。」

「魔王を討て。殺すのは照姫がやる。お前は、こやつを魔王のもとまで案内すればよい。」

「魔王とは織田のことか。」

「他に誰がいる。」

 魔王、織田信長。この日の本で乱世を作り出した張本人であり、それらを支配している存在である。二十年前、尾張から天下に躍り出た信長は、国王を廃し、自らが王を称していた。彼は、軍を率いて、各地を蹂躙しつつある。その所業は、残忍を極め、世の人々は、信長のことを、魔王と呼んだ。

「魔王を討つ。それは、おぬしの望みか?それとも、照姫の望みか?」

「天下の望みだ。貴様も、今の世の中のいたましさを知らぬわけではあるまい。遠江より西、かつての京、畿内辺りは、魔王の巣窟よ。山は枯れ、水は汚れ、人や獣は苦しんでいる。東国、西国も、いずれは、同じ憂き目に遭うだろう。」

「魔王の本城に忍び込めるとは思えぬ。」

「誰が城に忍び込めと言うたか。戦場で、魔王を討つのだ。」


 日の本は、かつてないほど荒廃していた。それは、全て、魔王、織田信長が原因であることは、誰の目にも明らかであった。

「貴様には、見返りとして、組み、打ち、突き、いずれかの技を教えてやろう。」

 老爺の言うことには、組みは、腕一本で相手を倒す。打ちは、太刀で相手の骨を砕く。突きは、槍で、鎧を通すことができるという。

「どれがよいか。」

 熊谷は素直だった。無頼漢とはいえども、彼もまた、新当流の使い手であり、一流を学ぶという気概はあった。

「組みがよい。」

「承知した。」

 熊谷は、あっさりしていた。というのも、刀槍の術は既に知っているつもりであった。それに、老爺に出会って、熊谷が、一番驚かされたのが、照姫に組み伏せられて、手も足も出なかったときのことだった。彼は、そのからくりを知りたかった。


「天地神明の機気を感ぜよ。」

 老爺の教えはそれだけだった。後は、山谷渓谷を走り、滝に打たれ、鳥獣木花を採る。そして、時折、老爺や照姫と手合わせをする。組み、打ち、突く。その中で、己や人の中に流れる精気を知る。それが老爺の稽古であった。

「お前は、若い故、女の気が欲しかろう。照姫に相手をしてもらえ。」

「良いのか?」

「馬鹿なことを……。」

 そう言って、老爺は深更の渓谷に出て行った。荒れ寺の内陣では、残された男女二人がお互いの精気を求めて、絡み合っていた。


 一年はあっという間に過ぎ去った。熊谷はと言うと、この間の修行の成果は実感していなかった。それに、初めて、照姫とまぐわって以来、いつの間にか、老爺の姿は消えていた。

「……。」

 山を降りなければならない。熊谷はそう考えていた。その一方で、山を降りなければならないなどということはないとも考えていた。それらの選択は、もう既に、彼の自由であった。

「お前はどうしたいか?」

 熊谷が照姫に尋ねた。

「きさまに任せる。」

 躰を合わせた日から、照姫は女になった。今でも、新月と満月の晩には、お互いに躰を求め合っていた。このまま、この山谷の中、夫婦として暮らすのも良い。わざわざ、里へ降りて行くことなどない。

 それでも、熊谷は己の腕を試したいという欲求を持っていた。それに、熊谷自身は気付いていない。ただ、このまま、この荒れ寺に、じっとしていることができない。その反対衝動として、必要以上に、照姫の躰を求める自分がおり、その根底には、世間に自分が承認されることを求める熊谷の心があるのだが、熊谷はそうではなく、いずれは、この山寺を出なければならないだろうという愚かな自己欺瞞の気持ちとして、そのことを感じていた。

「次の満月が明けた朝に山を降りよう。」

「分かった。」

 照姫は頷いただけであった。そして、それまでの短い間を、熊谷は静かに過ごし、満月の晩には、これが最期であるかのように激しく、照姫の躰を抱いた。


 明くる日、熊谷と照姫の二人は山を降りた。

「朝比奈の所領に向かう。」

 この付近の山下に住む領主、朝比奈志摩守である。

「俺が逗留していた館がある。」

 朝比奈館に逗留中だった熊谷は、虎狩りの最中に忽然と姿を消した。それは、照姫らに出会ったことによるのだが、そのことを朝比奈は知らないはずだった。

「あの川の向こうが朝比奈の館だ。」

 荒れ寺を出てから、丸一日。二人は、山間の集落に出た。

「鹿衛門よ。ようすがおかしいぞ。」

 川裾の水田には何も植わっていなかった。それどころか全ての田で黒土が起こされて、泥沼となっている。

「焼かれたのか……。」

 集落は焦土と化していた。朝比奈の館も、炭と焼けた土に変わっていた。それよりも、熊谷の目に映ったのは、集落の中央に立てられた立ち杭であった。それは、一間程の長さの物が何十本も立てられており、その杭も、付近の土も焼けていた。そして、辺りには、おそらく、この集落の住人たちの物であろう人骨が散乱していた。

「織田の仕業か。」

 他人の生死に無頓着であるはずの熊谷も、目を見張った。魔王の軍は、行く先々の村々を焼き潰し、住人を殺戮するという噂は聞いていたが、その噂の真実が事実となって、今、熊谷の目の前に映っていた。

「焼かれて随分経つな……。」

 熊谷が朝比奈館を出て、間もなくの事であったのかもしれなかった。もし、その時、その場に、熊谷がいたらどうなっていただろうか。そのことを考えていた熊谷の横で、照姫は、人骨に手を合わせて祈っていた。

「早く行こう。鹿衛門。」

 照姫は言った。

「そうだな。」

 朝比奈志摩守は山間の小領主ではあったが、鹿衛門が逗留していた頃は、駿河を治めていた武田家と誼を結んでいた。この集落の惨状を見ると、もはや駿河は、魔王の掌中に収められてしまったのかもしれない。それでも、二人には、さらに山を降りて行くしか道はなかった。


 この広大な日の本の地の三分の一は、既に、魔王の領土となっているだろう。残された東西の領主たちは、連合して魔王の侵攻に立ち向かう時であった。しかし、元来が、お互い骨肉争いを繰り返して来た領主たちである。彼らは、目の前の脅威を感じつつも、なかなか、お互いに協力し合うことができなかった。

「(魔王を討つ……。)」

 熊谷は下流に向かって川原を歩いていた。魔王を討つというのは、熊谷自身の望みではない。照姫もそれを望んでいるのかは知れない。老爺は、天下がそれを望んでいると言ったが、実際に、天下などというものが存在するのだろうか。もし、存在するならば、それは織田の軍に焼かれた村人たちのことではないのだろうか。

「は……。」

 山裾に沿って川原を下って行くと、川の流れが急に曲がっている所の岩陰にある隠れた水の窪みに出た。その時、ちょうど、二人の目前に、軍兵が三人、胴丸を脱いだ褌姿で、水を浴びていた。

「女だ!!」

 突然、三人の軍兵は置いてあった刀を抜いて、二人に向かって来た。

「ひゃははは。娘!!」

 軍兵の一人の腕が照姫の体に触れた瞬間、その男は、体を転げて、川原の石の上に倒れていた。

「どうするのだ?」

 照姫が聞いた。

「殺せ。」

「分かった。」

 熊谷の答えを聞くと、照姫は倒れている男の背中に腰を降ろすや否や、その首を捻り、首の骨を折った。

「見事。」

「この野郎!!」

 もう相手は容赦をすることはない。二人を確実に殺しに来るだろう。熊谷がそう思った時、彼の腕は、刀を抜いていたし、何故か、その体は相手の男に向かって進んでいた。片手に持った刀から、袈裟に、打ち放たれた一撃は、男の顔面を斬った。続く二撃目は、男の腹を横薙ぎに斬り払い、その腸を白い石の上に落とさせた。

 

 勝負は決していた。熊谷が斬った男が、自らの臓物に顔を埋めて倒れたその隣では、照姫の刀から放たれた突きが、もう一人の男の水月から胸を貫いていた。

「どうした。鹿衛門。」

「体が勝手に動いた。」

「機を感じたのだろう。」

 三つの死体が辺りに横たわっている。照姫は冷静だった。おそらく、人を斬るのは初めてではあるまいのだろう。それは熊谷も同じである。しかし、照姫に関して、そのことを事実として認識した時、何故か、熊谷の胸の奥が締め付けられるような切なさを感じた。

「どこぞの者か、こいつらは。」

 照姫は、男の死体を蹴り上げた。

「お前のその足も、勝手に動いたのか?」

「は?」

 先ほど、村の住人の遺骨に手を合わせていた照姫の姿と、今の照姫の姿を同一の存在として、理解することが熊谷にはできなかった。

「近くに砦でもあるのだろう。」

 熊谷は、照姫の返答には反応することなく言葉を続けた。

「そこから逃げて来たのかもしれぬな。」

「ふ~ん……。」

 照姫は、深山幽谷の景色を眺めた。辺りは、常緑樹や落葉高木に覆われた林である。時折、鳥の鳴き声が聞こえる。

「刀を拾っていくぞ。」

 河原には、軍兵たちの荷が散乱していた。その中には、陣笠と胴具足、手槍、筵や兵糧があった。その荷を見ても、彼らが野武士や一揆ではなく、どこかの軍兵であることを感じさせた。

「着て行くのか?」

「ひとまずな。」

 熊谷は具足を着込み、陣笠を被った。

「鹿衛門。手槍も持っていけ。」

 照姫が、拾い上げた手槍を差し出してきた。

「使い方は同じだ。」

「そうか。」

 うすうす、熊谷も感じていたことではあった。老爺は組み、打ち、突きの内、熊谷の希望通りに組みの技を教えてくれた。しかし、その実、老爺の教えてくれたことの根本はひとつであり、それは全てに通じていた。


 日が落ちていった。熊谷と照姫は、山林の陰で筵を敷き、兵糧をむしっていた。木の上からは梟の声が聞こえている。

「寝たか?」

「いや。」

 空気が静かだった。辺りには、山谷の魑魅魍魎の鬼気が満ちていた。

「照姫よ。」

「しっ。」

 梟の鳴き声が止んだ。

「何か寄って来るぞ。」

 照姫は機気を感じていた。それは、木の上の梟も同じであった。熊谷だけは、未熟さ故に、それに気付けなかった。

「……。」

 二人は黙った。辺りは生物が死んだように静かになったが、熊谷の耳だけは生きていた。その耳には、小さな草摺の音が聞こえた。

「……。」

 辺りは尚も静かだった。その中に、熊谷は血の臭いを感じた。

「鹿衛門!!」

 その臭いが風に運ばれて来た時、照姫の叫び声が聞こえた。今まで、目を閉じていた熊谷は、照姫の、刹那の声に驚き、開眼した。その暗闇にぼやけた視界に移った物は、昼間、斬り捨てたはずのあの軍兵の姿であった。

「手槍を持て!!」

 照姫は、既に何者かと戦っているようだった。咄嗟に、熊谷は、横たえてあった手槍を持ち、片腕でそれを扱い、目の前の物を貫いた。

「お、…おん……な……。」

 槍の先から臓物の柔らかい感触と骨の硬い感触が伝わって来た。

「鹿衛門!!」

 照姫の助けを呼ぶ声がした。熊谷がそちらを見ると、そこには、やはり、昼間、死んだはずの足軽がいた。その一体は、首の骨が折れているのだろう。頭が地面を向いていた。しかし、それでも、それは動いて、刀を持ち、照姫を襲っていた。

「化け物め!!」

 鹿衛門は即座に、照姫のもとに駆け寄り、手槍の柄で、その生ける死体の頭を殴り倒した。

「逃げるぞ。」

 熊谷は照姫の手を握った。その手は、まだ、小さく、十七、八足らずの少女の手であった。

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