3-3 竜信仰の《因習》と竜を怨む男
宿屋の地下室には所せましと木樽がならべられていた。
壁に備えつけられた棚に収まりきらないものは部屋のあちらこちらに積みあげられている。綺麗に掃除され、薄暗いが埃はない。かび臭さもなく、濃い木の香りだけが漂っていた。
ここは葡萄酒の貯蔵庫だ。
貯蔵庫の隅では、積みあげられた樽の裏に隠れるようにして、若者がまだ幼さの残る娘を抱き締めていた。強く腕をまわしているが、恋愛らしいふんいきはまるでない。
それもそのはず、ふたりは兄妹だからだ。
癖のある赤茶けた髪とまなじりの垂れた瞳が、ふたりに血縁のあることを顕著にしていた。兄が齢十七、妹は十三歳になったばかりだ。若者は鍛えているのか非常に体格がよく、上背があった。娘はただでさえ背も低く痩せているのに、ひと際小さく縮んでみえる。
「こんなの、俺は許さない。許せるものか!」
若者は震えながら、声を荒らげた。
「なんでっ、おまえが……選ばれなきゃいけないんだ」
若者の手には羽根のついた矢が握られていた。彼はそれをちからまかせに握りつぶす。折れた木が刺さり血潮が滴っても、彼はこぶしを緩めなかった。
「おにい……わたしは、だいじょうぶだから」
妹がなだめながら矢を取りあげようとするが、若者はそれを振りはらい、彼女の細いからだを抱きすくめた。
「いやだ。おまえまで奪われてたまるか。なにが風習だ、なにが竜だ、なにが葡萄のためだッ」
若者は渇いた喉を振りしぼる。
「竜を殺す、刺し違えてでもだッ」
張りつめた糸を切るようにかたんと、階段を踏む靴音が響いた。
続けて、場違いな声が掛けられる。
「誰もいないのかな、泊まりたいんだけど」
若者が驚いて階段を振りかえる。
濡れた鴉の羽根のような髪をした青年が、階段の手すりから身を乗りだすようにして顔をのぞかせた。彼は葡萄酒樽の裏に隠れきれていない若者の背をみつけて、地下室におりてきた。
「ああ、いたいた。宿はここだよね」
ラグスは敢えてなにも聴こえていなかったかのように笑いかけた。
客の登場に若者は面食らい、戸惑っていたが、慌てて妹から距離を取り平静をよそおった。
「あ、ああ、すまん。旅人さんか」
町の者ではなかったことに安堵したのか、宿屋の若者は愛想のいい笑顔を取り繕う。
「おいそがしいところ、すみません。今晩泊まらせていただけますか」
続けてメリュが階段をおりてきた。異境のふんいきを漂わせた衣装に白銀の髪をなびかせた彼女は、薄暗がりのなかでも際だっている。黒服に身をかためた青年とは真逆だ。妖精のような娘の容姿に若者はたじろぎながらも、いえいえと頭をさげた。
「いやあ、旅人さんなんか、どれくらい振りだろうな」
「あ、おにい。あたし、すぐに部屋を準備してくるね」
町娘は杖をつきながらも、慣れた脚運びで階段をあがっていった。
ちいさな背が遠ざかっていくのを眺め、ラグスがふうんと声をあげる。
「兄妹で宿を経営しているのか。たいへんだね」
「それが、暇すぎてこまるくらいなんだ。旅人なんかめったにこない町の宿屋だもんで。とりあえず、あがってくれ。宿泊の受けつけを済ませて、荷物を預かろう」
「助かるよ。それはそうと」
ラグスは階段にあがりかけて振りかえる。
「竜を殺す、か。ずいぶんと物騒な話じゃないか」
てっきりなにも聴かれていなかったものとおもっていた若者は、動揺して身構える。
地下室の床を踏みしめて、メリュが若者の前に進みいでた。
「竜がなにか、わざわいをなしているのですか」
若者は視線を彷徨わせ、うつむいた。言い難そうに言葉を濁しながら拒絶する。
「悪いが、これは町の問題なんだよ。旅人さんには係わりのないことだ」
「そうですか。確かにわたしは、この町とはなんの係わりもありません。一泊の宿をお借りするだけの身で、明朝には町を離れます」
「なら、聴かなかったことに」
「ですが竜にかんしては、浅からぬ縁と知識があります。なのでひとつだけお教えしたくて」
メリュは影のある微笑を湛えながらいった。
「竜は、殺せませんよ」
静かだが、剣で薙ぐような強い語調だった。
若者は一瞬だけ、呼吸をつまらせ、だがすぐに言いかえしてきた。
「誰も、竜を殺そうだなんて考えもしなかった。それだけのことだろ」
彼なりに真剣に反論したのだろうが、メリュは口の端を緩めずにはいられなかった。ずいぶんと時代錯誤なことをいうものだと。唇からふっと息が落ちる。嘲りというにはあまりにも疲れはてたようなため息だったが、若者は馬鹿にされたと感じたようで太い眉じりをとがらせた。
「なっ、なんだよ」
「あなたは町の外にいったことがありますか」
「田舎者扱いするつもりかよ、いったい……」
何様のつもりだと息を巻きかけて、若者は今度こそ絶句する。
娘の瞳が凄絶なまでの嘆きに覆われていたからだ。涙を湛えていたわけではない。それならばまだ、驚きはしても、みるものの背筋を凍らせるようなことはなかっただろう。
彼女はいまもまだ、微笑んでいるのだ。
頬を持ちあげ、唇の端を綻ばせているのに、瞳だけがひどく絶望している。このせかいにるありとあらゆる不幸を嘆くように。
「竜を殺そうと考えるものは後を絶ちませんよ。数えきれないほど。ですが、竜は殺せない」
若者は顔をひずませた。握り締めたままだった折れた矢が、ばらばらと倉庫の暗がりに落ちる。からになったこぶしをみて、若者はぎりと奥歯をかみ締めた。
潰えかけた悲憤を再度燃やすように、彼は喉を猛らせる。
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ! 竜が欲しがるままに妹を捧げろっていうのか!」
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