3-2 竜の《こころ》人知らず
ふたりは長老の邸を後にして、宿を捜しながらビタの町を散策する。
葡萄と醸造の町だけあって、町のむこうにある坂には葡萄畑が続いていた。棚に巻きついた葡萄の蔓は、遠くからみてもわかるほどにしおれている。雨は豊穣をもたらすが、こう晴れずに雨ばかりが降り続いていると植物も根からだめになってしまう。いまは夏の暮れだが、秋になっても実が結ぶかどうか。
そもそも、日が絶えているせいで、すでに秋のように寒々しかった。
町そのものが豊かではないのか、ふるびた石畳はがたがたに崩れかけていた。道を挿んで、黒煉瓦造りの家々がならんでいる。雑貨屋にぱん屋など素朴な店舗ばかりが軒を連ねていた。
「この町は竜葡萄の名産地なんだけれどね」
水たまりに神経をつかいながら進んでいたメリュが視線をあげた。いまはラグスだけではなく、メリュも濡れないように頭からすっぽりと革製の外套をかぶっている。
「竜葡萄、ですか。さきほどの長老さんの話にもありましたね。希少な葡萄なのですか」
「有名だよ。竜葡萄が取れるのは大陸でもこの地方だけだ。竜葡萄から造られた青酒は最上級の葡萄酒とされていてね、都でも貴族や富豪が愛飲してる。酒場で飲もうとすれば、どれくらい値が張るか、想像がつかないね。ほんとうに知らないのか」
「ごめんなさい、お酒には興味がなくて」
「おまえは、何にも興味がないだろ」
あきれたようにラグスがため息をついた。
「ビタは竜葡萄で潤った町だと聞いていたけれどね」
名産たる葡萄が竜の恵みならば、町が竜を信仰するのはもっともだ。
だがその割にはずいぶんと、鄙びた町だ。
窓から洩れるあかりだけが霧のなかにぼんやりと燈っていた。それをみて、メリュは気がつく。街燈がないのだ。今時はどんな町にも街燈くらいはあるものだ。それほどまでに貧しいのか、あるいは竜とともにあると語ったように不便でもひと昔前の暮らしぶりを続けているのか。
「竜とともに、か。そのわりには町のふんいきが濁っているね」
霧雨の帳に覆われた鈍色の町を眺めて、彼女は「残念ながら」といった。
「竜とひとがこころを通わせているのならば、こうも天候が荒れるはずはありません。竜の命数は二百年とも三百年とも語られますが、どれだけ老いても竜のちからが衰えることはないのです。竜が衰えるとすれば、それは嘆きに毒されたときだけです」
かといって、長老に騙すような素振りはなかった。
「おそらくは。この町には竜がともにある、恵みが絶えることはない、と信じていたいのだと思います。信仰とはそういうものですから」
「竜のこころも知らずに、か。愚かだね」
「昔は各地域に竜護の一族がいて竜の言葉を聴き、まわりに竜の意を報せることができましたが、いまは竜の言語を理解できるものもいなくなってしまいましたから」
広場に差し掛かる。広場は段差をおりたところにあり、すっかりと水没して池になってしまっていた。市が催され、子どもが遊んでいたであろう広場にはいま、魚の群れが泳いでいる。
このあたりには、ちらほらとひとの姿があった。
いまから買い物に出掛ける様子の婦人がいれば、濡れないように軒のあるところで薪を割っているものもいる。旅人がめずらしいのか、遠巻きに眺めながらも時に頭をさげて笑いかけてくれる。ひとりに声をかけ、宿屋はあるかと尋ねると坂のほうだと教えてくれた。
「間が悪かったねえ。こんなときじゃなけりゃ、ちゃんと旅人さんを歓迎できたんだが。よりによって祭りのときかい」
「どのような祭りなんですか」
祭りの準備か。棺のようなものを組みたてていた中年の男は眉根を寄せ、言葉を濁す。
「あ、ああ、どこにでもあるような町の伝統の祭りだよ。竜さんに葡萄の実りを頼むための。葡萄が実らんと、この町はどうにもならんからなあ。しかたがないよなあ」
男はやけに気の毒そうにいった。
「なにか、あるのですか」
「いやいや、そうじゃない、その。旅人さんのことだよ。ちょいといそがしいでな。まあ、なんだ、貧しい町なもんでたいしたもてなしもできないが、ゆっくりとしていってくれ」
そそくさと作業に戻ってしまった。
ラグスが不審げに男の後ろ姿を睨みつけていたが、しつこく詮索するわけにもいかず、メリュは取り敢えずは宿を捜しましょうとうながす。広場を迂回して宿屋があるという坂のほうにむかいながら、メリュは声を落として喋る。
「この町からは竜のにおいがほとんどしません」
「におい、ね。竜なんかにおいがするものじゃないだろ。血を流せば別だけれど」
「しますよ。ぼんやりとですが、気の循環するにおいがするんです。町に竜の恩恵が強くおよんでいるのならば、もっと竜が馨るはずです。この様子だと竜がいないか、竜がいても気が循環していないか」
「ふうん。やっぱり、おまえは興味ぶかいね」
彼の双眸がすうと昏くなるのをみて、メリュは曖昧に微笑んだ。
彼がなにを考えているのかは理解できないが、うわべだけの興味ではないのは確かだった。たんなる好奇であれば、あれほどまでに強いまなざしにはならない。
進んでいくと、三階建ての建物があった。
「ここが宿屋みたいだね」
指差されたさきには、寝台の模様が彫られたまるい看板が掛かっていた。
黒煉瓦と青煉瓦を組みあわせた壁は、雨雲をひきいる竜の鱗を彷彿とさせた。葉の落ちた裸の蔓と増えすぎた根が壁にすきまなく絡みつき、細かな罅が壁一面を覆っているかのようだ。
扉に手を掛けたメリュの袖を、不意にラグスがひき寄せた。
「静かにあけたほうがいい。ずいぶんと物騒なかんじの声が聴こえるからね」
「声、ですか。わたしにはなにも聴こえないのですが」
「僕は耳がいいからね」
慎重に扉のすきまからなかの様子をうかがった。
玄関は宿屋らしく開放感のある造りになっており、廊下からは食堂と階段が見えた。二階、三階が客室か。曇っているので昼からあかりがともされ、食堂にある暖炉が燃えていた。
「声は地下からだね」
玄関の脇には地下室におりる階段が取りつけられていた。
「勝手にいいんでしょうか」
「誰もいないのが悪いのさ」
濡れた外套を脱いで玄関の隅におき、ふるぼけた階段をおりていく。
薄暗く急な段差が続いているが、手すりが備えつけられているので危うげはない。段々とメリュの耳にも、男の激しく怒鳴る声が聞こえてきた。確かにただならぬふんいきだ。
「……なにが風習だ。なにが竜だ、なにが葡萄のためだッ」
男は声を荒らげる。言葉こそ強かったが、声の端々はやり場のない悲しみに震えていた。
「竜を殺す、刺し違えてでもだッ」
お読みいただき、ありがとうございます。
引き続き、更新を頑張りますので、楽しんでいただければ幸いです。
続きは25日(金)20時に投稿致します。