2-2 竜のいない《黄昏》
黄昏せまるフォルミーカの町は賑やかだった。
鉱脈の町といえば、舗装もされず砂埃にすすけた街が想像されるが、それは昔の話だ。いまは整然と石畳の敷かれた道を馬車がひっきりなしにすれ違っている。通りを挿みこむように赤煉瓦の建物がならんでいた。どの建物も一階は店舗らしく、硝子張りの棚には華やかな靴や洋服が飾られている。二階の窓にはこの地域のものではない花が飾られ、都の香りがしみついた織物の幕が掛かっていた。
活気に満ちた広場では市が催されていた。都から運ばれた鶏の燻製やら野菜やらが荷車に積まれている。つけられた値は相場の約二倍だが、輸入の駄賃を考えれば妥当だろう。
商人は競うように仕事帰りの雑踏に声を掛けている。
紫がかった銀糸の髪が、騒がしい人波を縫うようにすり抜けていく。
果敢なげな美貌に異国情緒のある薄紫の服。童話から抜けだしてきた妖精のような姿はひとに埋めつくされた町のなかでも視線を集めた。時には振りかえるものさえいたが、メリュは気にとめず、町を進む。
町角に差し掛かったところで声を掛けられた。
「まったく、待ちくたびれたよ」
闇を身に纏ったような青年が、建物の壁にもたれかかっていた。黒銀の釦がついた外套に頭まで覆われている。僅かに覗いた双眸は赤く輝いていた。ラグスだ。
彼は視線を動かして、メリュの提げた重そうな革の袋を一瞥する。
「ふうん、ずいぶんと稼いできたみたいじゃないか」
賞金稼ぎのために竜を殺していたのかと、遠まわしに棘を刺しているのだ。嫌味を理解しながらも、彼女はなごやかな表情で革袋を差しだす。
「差しあげましょうか。ありすぎてこまっているんです」
「はあ、なにをいって」
意表がえしのつもりかと、ラグスがまなじりをとがらせた。
「馬車に積んであった、木箱があったでしょう。全部がこれなんです」
メリュの馬車には確かに、旅の荷に加えて、重い木箱が三個ほど乗せられていた。ラグスはてっきり、竜を殺すための武器かなにかだとおもっていたのだが。
「あれが全部?」
「ええ、全部。銀貨や銅貨もまざっていますが」
ラグスは驚き、続けて心底あきれたようだった。
「おまえ、頭が沸いているんじゃないの?」
額にして数百万、いや数千万か。それだけの硬貨を乗せて旅をすれば、そうとうな危険をともなうはずだ。ましてや若い娘のひとり旅だ。野宿することもある。盗賊に襲われたらひとたまりも、いや、メリュならば、そうかんたんに殺されたりはしないだろうが、それにしてもだ。
いまも馬車は門の厩に預けてある。積み荷が盗まれないともかぎらない。
「盗まれてこまるものはないっていってたくせに」
「ええ、路銀は別途に保管しています。誰にも盗まれないように。ですがそれを超える額は。もちすぎていても、使い道がわからないんです」
かたちのよい眉を垂らして、メリュはこまったように微笑んだ。ほんとうにもてあましてしまっているのがうかがえる。
「欲しいものとかはないの。洋服とか宝飾とか、菓子とかさ。おまえくらいの娘が欲しがるようなものは、こんな町ならいくらでもあるだろ」
ラグスが歩きはじめながら、町にある様々な店舗を指差す。
店の硝子棚にはいろとりどりの洋服や首飾り、耳飾りが飾られている。隣には苺や林檎の乗ったきらきらとした菓子がならんでいた。どれも年頃の娘が欲しがるものばかりだ。
「旅の邪魔になるだけですし、食べ物は食べられればなんでも」
「なんていうか」
ため息を落とす。
「枯れてるね」
「そう、ですかね。ほんとうに興味がなくて」
メリュは人差し指を唇にあてて、きょとんと首を傾げた。
「はあ。ならせめて、銀行にでも預けなよ。それくらいはできるだろ」
「預けても預けても増えてしまうんです。銀行のある都に度々立ち寄るのも面倒でして」
いったい、彼女の財産はどれくらいあるのだろうか。呆れて物もいえないと、ラグスは黒髪を掻きあげて再度、ため息をついた。
遠くから汽笛が響いてきた。
「列車か」
ラグスのつぶやきにうながされ、メリュが振りかえる。
繁華街の裏には鉄道の線路が敷かれていた。時計塔のある広場に駅があり、週に数度、貨物列車と旅客列車が帝国の都までの往復を繰りかえしているとか。
車輪の轟きが凄まじい勢いでせまり、斜陽の帳を破って建物のあいだに列車が姿を現した。
黒い鉄の獣だ。森を喰らい、山を刳り貫き、進軍し続ける文明という獣。この獣が竜の棲み処だったあの森を食い荒らしたのだ。
メリュがぎゅっと唇を僅かにかみ締め、けれどもすぐに緩めた。
列車は建物のあいまからきれぎれになって通りすぎ、町の駅に停まったようだった。車輪と線路の軋みに押しやられていた町の喧騒が戻ってくる。
日が暮れはじめても、町にはひとがあふれていた。
市場では売れ残ったものをさばこうと商人が声を張りあげており、客は夕餉をどうするか考えながら荷車をみてまわっている。婦人が集まって、賑やかに噂話を喋り続けていた。子どもたちは遊びながら家路をたどり、道端には手風琴を奏でる吟遊詩人がいる。語られるは姫と騎士の旧い物語だ。夜のために着飾った娼婦たちが通りすぎたと想えば、馬車に乗った令嬢がそれを嫌がり、窓の垂れ幕をさげた。路地裏では少年が紳士の靴を磨いている。
町のあちらこちらには金糸雀がとまり、綺麗に囀っていた。
金糸雀の歌は平穏の証だ。毒を検知するために鉱坑に持ちこまれた金糸雀が増えすぎて、いつからか、町に暮らすようになったのだ。金糸雀はか弱い愛玩鳥という印象が強いが、せまい篭のなかで暮らせるというのは、裏がえせばそれだけ環境に適応できるということだ。
ありふれた町の風景を眺めながら、メリュがぽつりとつぶやいた。
「町は賑やかですね。竜と別たれても。竜の恵みがなくなっても」
あてどなく転がされた言葉を拾いあげて、ラグスは双眸を細めた。
「ひとは強いからね。竜のいない暮らしにもすぐに慣れた。森から豊かな恵みがなくなっても畑を耕して作物を育てるし、獣が獲れなくなっても牧畜をする。そもそも竜の棲み処いがいは、土地が枯渇するわけでも朽ちるわけでもないんだ」
「それでも《竜の冬》の頃は、ひどかったそうですけれど」
「あの頃はまだ、農耕の知識も牧畜という概念もなかったからね。いまから、五十年ほど前のことだ。いまとなっては、当時の苦難を覚えているものもずいぶんと減ったはずだ」
戦争がはじまり、竜が暴れだしてあらゆる恵みが絶えた激震の数十年間を差して《竜の冬》という。農耕と牧畜が興り、人類が竜の恵みに頼らずとも食物を生産できるようになるまで、大陸は飢饉と竜による天変地異に見舞われた。
戦火に焼かれながら、恵みの枯渇とも戦い続けねばならなかったひとびとの苦難は幾ばくのものか。その後、終戦を経て、文明は輝かしく躍進した。
「ひとびとは、暗黒の時を乗り越えたのですね」
「ああ、まったくもって、誇るべき偉業だね」
にがいものをかみ潰すようにいい、ラグスは遠くに視線をやる。
ちょうどふたりは聖ヨルゴス教会の前を通りがかっていた。赤煉瓦ばかりの町のなかで教会だけが白壁だ。屋根や鐘のついた塔には豪奢な飾りが施されているが、白を基調としているせいもあって洗練されていた。
教会は扉を開放して、演説の最中だった。
「いまこそ、人類の啓蒙を。竜の呪縛から解きはなたれる時が訪れたのです」
教会は説く。竜は人類を堕落させる、邪なるものの遣いであると。
竜がいたから、人類は文明を発展させることもなく、何千年にも渡り停滞し続けてきた。終戦から約半世紀が経とうとしている。いまこそ竜の誘惑を断ち、人類の繁栄を築くのだ。
司教は朗々と語り続ける。ふたりは遠巻きに教会を眺めた。
「竜は悪か。ずいぶんと勝手なことをいってくれるよね」
ラグスが吐き棄てた。
唇の端は持ちあがっているが、双眸は僅かも笑っておらず、ひたすらに濁っていた。
ああ、あの双眸だとメリュは想った。
赤い琥珀のなかに黒暗の焔がゆらゆらと燃えているような。泉のなかで腕を取られたときにも彼の双眸は凍てつくように燃えていた。あれは憎しみだったと、彼女は考える。なにゆえのものかはわからずとも。
出逢ったときに、彼は語った。竜には縁があるのだと。
どのような縁なのか、彼女はあらためて尋ねることはなかった。尋ねるほどの関係ではないと考えていたし、彼が竜をどう想っているのかさえわかれば事の仔細など構わないことだった。
「さあ、いきましょうか」
ラグスに声を掛け、メリュが歩きだそうとしたのがはやいか。
後ろから勢いよく誰かがぶつかってきて、メリュはよろめいた。もともと傷んでいたのか、革紐がきれ、背負っていた槍が地に転がる。
「っと、すみません、お嬢さん」
ぶつかってきた紳士が謝ってきた。紳士はすぐに槍を拾いあげ、彼女に差しだす。
石畳を転がったせいか鞘が取れている。槍を受け取り、メリュはこちらこそと頭をさげた。
「ごめんなさい、こんなところに立ちどまっていて」
紳士は格調高い服を纏い、腰には金細工が施された剣を帯びていた。服装からして貴族か、それにならぶ裕福な産まれのものだろうと想われる。金髪を項で結わえ、背に垂らしていた。
彼は細い瞳を見張って、娘の顔を眺める。
「なにか、わたしの顔についていますか」
「失礼を。あまりにもお美しかったので」
駅から列車の汽笛が響いてきた。
「おっと、いけない。急がなくては」
どうやら紳士は旅客列車に乗るつもりだったようだ。紳士は頭をさげ、最後に「幸運を」と挨拶を残して駅のほうにむかっていった。
取り敢えず紐をかた結んで、メリュは槍を背に掛けなおす。
「それで、おまえはこれから、どこにむかうつもりなの。決めてないなんてことはないよね」
「帝国領の東側にむかいます。雨のやまない町があるのだとか」
「ふうん、そこに竜が係わっていると?」
竜は天候を操る。竜のこころが壊れれば、天候もみだれる。黒い森のように土地が枯渇することもあるが、天候の異常というのが最も頻発する事例だ。
「もちろん、実際にいってみると竜とは係わりがないこともありますが、それでもいってみないことには始まりませんから。竜がいるのならば、いかないと」
「竜を殺しに?」
嫌味を振られても、メリュは微笑を絶やさずに頷いた。
繁華街を抜け、雑踏が疎らになってきた。
石畳の敷かれた坂を登るほどに喧騒が遠ざかる。夏季咲きの紫丁香花が道の端から枝垂れていた。噎せかえるほどにあまやかな香りがあたりに漂っている。
賑やかな花叢の影を踏みつけて、娘が緩い坂をあがる。
「竜がいなくても、人類は。いえ」
町長の言葉を思いだして、彼女は唇をひき結んだ。
「竜がいなくなってから、人類は繁栄を極めました」
その現実を敢えて、娘は言葉にする。かみ締めるために。
ラグスは黙って、娘の話に耳を傾けていた。
「斯くして」
娘はとんと、靴の先端で石畳を蹴る。
黄昏の風を巻きあげて、彼女は跳ぶように坂を駆けあがる。
髪が夕映えを映して華やかに拡がった。服に織りこまれた星の模様が、きらきらと輝きを散らす。彼女は坂をあがりきってから、軽やかにまわり、町を振りかえった。
「竜とひとは、別たれた」
娘は腕を拡げる。
黄昏を誘うように。
紫丁香花を踊らせて、ざあああと風が吹き渡る。
蜂蜜を垂らしたような黄金の町から、いっせいに金糸雀の群が飛びたった。
鳥篭のなかでなければ金糸雀は囀れないなんて誰がいったのだろうか。金糸雀たちは小さな翼を羽搏かせて風をつかみ、夕焼けに燃える雲を越えていく。歌いながら、競いながら。
「《輝く鉱脈の竜》が息絶えても、黒い森が崩れても、町は変わりません。線路が延長され、建物が増えて、ますますに栄華を極めていくはずです。ひとが竜を遠ざけ、竜がひとから遠ざかっても、せかいが変わらずにまわり続けたように」
町には数えきれないほどのひとびとが暮らしている。
平穏だとはいえない。幸せもあれば不幸もある。清濁をあわせて、ひとびとは巡り続ける。
奴隷のように扱われるものがいるかたわら、贅のかぎりをつくす富豪がいる。昔はなかった貧富の差というものが、いまは截然としていた。争いがあり、飢えがあり、欲望があり――それでも人類には、それらを乗り越えるだけの強さがある。
なべてことはなし、人類は繁栄を遂げた。
「例え、竜が滅んでも」
メリュは最後にそういって、言葉の端をきゅっと結んだ。
町を背にたたずんでいた彼は娘を見つめ、眸のなかに差す影を移ろわせた。視線は動かず、双眸に満ちた赤だけが、濃きから薄きに揺らいでいる。
嘆きなのか。怒りなのか。
あるいは夕焼けが映っているだけなのか。
「おまえは」
「なんでしょうか」
戸惑いを経て、ラグスは言葉を落とす。
「竜を殺すくせに、まるで竜を憐れんでいるみたいなことをいうね」
彼女は緩やかに微笑んだ。薄紅の頬を、柔らかな夕映えが濡らす。
日が暮れていく。黄金に紫に、移ろいながら。せかいが巡るかぎり、黄昏の後には夜の帳が訪れる。そうしてまた、朝がくるのだ。
黄昏の憂いも嘆きも、なかったことにして。
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