1-3 せめても静かな《終焉》を、と少女は祈る
「助けてあげようか、竜殺しの娘」
言うなり、謎の青年はなにかを娘に投げ渡す。
娘の槍だ。彼女が槍をつかんだのを肯定と受け取ったのか、青年は短剣を構えて賊にむかっていった。娘は彼に声をかけようとしたが、いまは竜を護るのがさきだと槍を握りなおす。
竜の骸に群がる賊に斬りかかった。竜の背に乗りあげていた男の脚を裂き、服に斧頭を掛けてほうり投げる。敵を竜からひき剥がしてから、娘は竜の角が折られていないことを確かめ、安堵の息をついた。
あらためて、彼女はまわりを見まわす。
青年は暗闇に紛れて敵にせまり、すれ違いざまに斬りつけては離れ、また背後を取るという戦術を繰りかえしていた。敵からすれば、なにも見えない暗がりのなか、旋風に斬られているような、おそろしい心地がするに違いない。
逆転だ。なおも戦意を損なっていないのは首領だけだった。
娘は槍を携え、まっすぐ首領にむかっていく。娘をみて、賊の首領は大剣を振りかぶる。
「かえり討ちにしてやるぜ、小娘」
首領が斬り入ってきた。
娘は首領の間合に踏みこむぎりぎりで槍を地に突きたて、跳躍していた。
娘が、宙を舞う。娘の華麗な蹴りが首領の頭部を穿つ。凄まじい衝撃。いかに鍛えているとはいえども、頭にたいする衝撃にはかなわない。首領がふらついた。綺麗に着地した娘はすかさず腰をひねり、槍を衝きだしていた。
槍撃が吼える。
「かはッ……」
腹をえぐられ、首領はもんどりをうって倒れた。
後ろにあった樹木に頭を強かにうちつけ、それきり首領は動かなくなる。
「首領が……」「そんな」「首領ぉ」賊たちがいっせいに首領のもとにかけつけた。誰よりも強かったであろう首領が敗れたのをみて、男たちは怯えきって完璧に戦意を喪失する。
「殺してはいません」
娘は狼狽する賊たちにいった。
「斬りつけたのではなく、槍を素早くまわして裏側で衝いただけですから。倒れたときに頭をうちつけて、気絶してしまったみたいですが……じきに意識を取りもどすでしょう」
剣でいえば峰打ちだ。
槍の先端をまわりにむけ、娘は微笑みかけた。
「どうしますか。まだ戦いますか」
盗賊はもげそうな勢いで首を振り、動けなくなった仲間を担いで逃げだす。
「ちょっと待った。おまえたちに聞きたいことがある」
暗闇から現れた青年が賊の逃げ道を塞いだ。
「ななっ、なんだよ」
「角だけでも、とかいっていたね。竜の角を欲しがっている奴らでもいるのか」
「あ、ああ……ななな、なんでも角を渡せば、城が建つくらいの報酬がもらえるんだとか。そそ、そういう噂があって」
「欲しがっているのは誰?」
「く、詳しいことは知らねぇ。ほんとうだよ。嘘じゃない」
男が嘘をついているようにはおもえない。
「全部おまえらにやるから、なっ、見逃がしてくれよ。殺さないでくれ」
たいした情報は得られないと諦めたのか、青年は黙って道の端に避ける。賊は命からがら、黒にぬり潰された森のなかを逃げていった。盗賊の後ろ姿が暗闇に吸いこまれ、静まりかえってから、青年が娘を振りかえる。
「終わったね」
彼は頭を覆っていた外套を脱いだ。
さらりと黒髪が流れ、赤い双眸があらわになる。
燃える夕焼けが結晶になったような、それでいて熱のない眸。背筋が凍るほどに妖しく、綺麗だった。双眸の端はつりあがり、絶えずなにかを睨みつけるように輝いている。
鼻筋は細く、顎の輪郭も綺麗にとがっていた。細部に到るまで彫像のように整っているのに、唇の端だけがいびつにゆがんでいる。
あれは嘲笑だ。
癖のように湛えた悪辣な笑みが、彼の美貌に凄みをもたせていた。
「ありがとうございます。竜を、護ってくださって」
娘は臆さず、腰を折って綺麗に辞儀をする。青年が眉の端を持ちあげた。
「竜、ね。僕はおまえを助けてやったつもりなんだけれど。だいたい、護るもなにも竜なんかとっくに息絶えているじゃないか」
彼は息絶えた竜を振りかえり、続けて娘に視線をむけた。
「それに、あれはおまえが殺したんだろう」
赤い双眸がすがめられる。微笑を浮かべてはいるが、剣呑な光を漂わせていた。
竜の血潮にしとど濡れた花々を踏みつけて、彼は娘にせまる。
「教えてよ。どうやったら、竜を殺すなんてことができるのか」
竜を殺すことはできない。
そんな常識を無視して、青年は尋ねかけていた。彼は娘が竜を殺めたものと疑っていない。勘なのか。それとも遠くから、娘が竜を殺すのをみていたとでもいうのか。
娘は動じずに頷いた。たんたんと答える。
「槍で貫きました。竜の鱗は硬いので、項あたりの鱗を剥がしてから、喉までひといきに。ほんとうは心臓を貫きたかったのですが」
「そうじゃない」
青年が不機嫌そうに髪を掻きあげた。
「知らないとはいわせないよ。人類には竜は殺せない。時が遡らず、死者は甦らないように。黄昏の後には夜が巡るように。それが、遠い昔からの理だからだ」
彼の喋りかたには異境の言語がまざっているような、独特な響きがある。
娘はその言葉に微かだが、睫毛を震わせた。頬に睫毛の影が落ちる。
「殺せるから殺せるのです。それでは答えにはなりませんか」
「ならないね」
「こまりました」
娘は僅かもこまっていない口振りで首を横に振る。
「なぜ殺せるのかを考えたことはなかったので。敢えていうならば、そうですね」
言葉を択ぶように短い沈黙を挿んでから。
彼女は綺麗に微笑んだ。
「これはわたしのさだめなのだと」
在り様を語るにはいささか曖昧な言葉は、されども重く、静寂に響いた。
諦めをともなった、それは嘆きだった。とても、綺麗な。
彼女がなにを想い、なにを嘆いているのか。他者には読み解けない。ただ、彼女の嘆きは重かった。言葉では語れないなにかが、紫の双眸の奥底にはある。
彼もそれを察したのか。
「おまえのさだめ、ね……」
顎に指をやり、視線を逸らす。
眠るように息絶えた竜を睨み、金剛石の角を眺めた。六角形の角の表には娘の後ろ姿が、やけにぼやけて映っている。
「質問を変えようか。おまえはなんで、竜を殺すんだ」
「望まれるからです」
誰にか、と青年が尋ねかけようとする。
だが娘はふらりとよろめき、肩からぶつかるようにして、ちかくの幹にもたれた。
鱗の紋様が肌に拡がる。首筋から頬にまで侵食してきている。肩を抉られてもわき腹を斬られても表情ひとつ変えなかった娘が立ち続けてもいられないほどの激痛なのか。娘はみずからの腕に爪を喰いこませて、声だけはあげないようにこらえている。
そのうちに段々と紋様の明滅が鈍くなる。だが紋様が消えてなくなることはなかった。侵食が進んでいることはあきらかだ。
「それはなに」
眉根を寄せ、青年が尋ねる。
息も絶え絶えになりながら、娘が顔をあげる。唇には自嘲の微笑みが浮かんでいた。
「報い、ですよ」
いうなり、娘は胸もとをはだけさせた。
紋様は胸、正確には心の臓があるあたりから首筋を通り、頬にまで拡がっていた。それは竜が絡みついているようにも、そ言の葉を繁らせる蔓が動静脈に根を張っているかのようにも視えた。
彼女はなんのためらいもなく編みあげの帯をほどき、服を脱ぎ捨てた。
これにはさすがに驚いたのか、青年がなにかを言いかけたが、それを遮り、娘は喋り続けた。
「竜を殺めたわたしが、受けて然るべき報いです。放っておけば死に到るはずです。ですがわたしはまだ、旅を続けなければなりませんから」
娘は裸になり、竜の血潮が流れこんだ泉に踏みだしていく。
素脚に水銀色の血潮が絡む。しゃらしゃらと玲瓏な響きをともなって、細波が拡がった。娘はなおも泉を進み、胸のあたりまで浸かる。
徐々に、絡んだ蔓がほどけるようにして、紋様が薄れていく。
「竜の報いを妨げてくれるのが、竜の血潮だなんて、ひどい話でしょう」
娘は竜の側まで移動する。泉のほとりに項垂れたその鼻さきに頬を寄せた。
竜の亡骸を見詰める娘の視線は静かだ。竜にたいする殺意もなければ、恐怖も怨嗟も、ひとにぎりの欲望すらもなかった。
彼女は傷ついた竜の額を撫ぜ、血潮をふき取る。双眸を見張って息絶えた竜を憐れんでか、娘は竜の目蓋に触れて、塞いだ。娘の指は敬意と哀悼の意に満ちていた。
彼女は嘆いているのだ。竜の死を。
他でもない彼女が、竜を殺めたというのに。あるいは彼女が殺したからなのか。
「殺せるはずもない竜を殺す娘、か」
青年が双眸をゆがめる。
「ねえ」
声を掛けられ、娘は竜から青年に視線を移す。
青年は浅瀬のぎりぎりまで近寄り、娘に語りかけた。
「僕も竜には縁があってね。あるものを捜しているんだ。おまえといれば手掛かりが見つかりそうだ」
「手掛かり、ですか」
「旅をしているんだろう? 僕も連れていきなよ。護衛くらいはするよ。まあ、竜を殺せるような娘に護衛なんか要らなそうだけど。恩人の頼みを断るはずがないよね?」
「あまり、頼まれているようには、おもえないのですが」
青年が笑った。
「だろうね」
ふいに激しい風が吹きつけてきて、ふたりは黙った。
森が沈黙を破り、ごうごうと騒ぎだす。
はなびらが強い風に巻きあげられて、さながら黒い嵐のように吹き荒れた。枝がぼろぼろと崩れるように折れ、黒ずんだ幹には罅が入りはじめる。続けて地が震えた。地震か。否。森に張りめぐらされていた根が浮きあがりはじめたのだ。
「竜を喪った森が崩れるのか」
森は轟々と慨嘆の雄たけびをあげながら、死に絶えていく。
落葉の嵐をはらいのけ、青年は泉に浸っていた娘に腕を差しだす。
「連れていってくれないんだったら、勝手についていくまでだよ」
なかば捕らえるようにして、彼は娘の細腕を握り締めた。
強くひき寄せられ、赤い双眸がせまる。真紅の鏡に驚く娘の貌が映る。
「僕はおまえに興味が湧いた。逃がさないよ、竜殺しの娘」
娘を捕らえた眸はぞっとするほどに濁っていた。
凍てつくような激情が渦を巻いている。
娘はなにを想ったのか、すうと微笑を崩して。
「……メリュ」
柔らかく唇を震わせた。
「一緒に旅をするのならば、名乗らないと。竜殺しの娘でも、わたしは構いませんが」
長すぎるでしょうと、彼女はまた微笑で真意を覆い隠して、言葉の端を結んだ。
続く姓はジヌ。遠い御伽噺にだけ残されたまじないの綴りだ。
「旧い響きだね。おまえが考えたのか」
「産まれたばかりのこどもが、名乗るでしょうか」
遠まわしに偽称だろうといわれたのをメリュと名乗った娘は否定する。彼はなおも疑っているのか。僅かな沈黙を挿んでから、娘に続いた。
「僕はラグスだ。おまえと然して変わらない、旧い言葉だよ」
メリュは彼の腕に縋って泉からあがる。
森は崩壊を続けていた。
葉は嵐に揉まれてもとのかたちを喪い、黒い雪のように振り積もる。竜の眠りを妨げないよう、空から差す光を遠ざけていた連枝はその役割を終え、名残惜しさもなく落ちていった。幹だけ残された裸の樹木もまたなぐさめあうかのように縺れあいながら、倒れた。
崩壊に巻きこまれないうちに森を抜けるべきだ。メリュは服を掻き集め、槍を拾いあげた。
「取り敢えず、これを羽織りなよ」
ラグスから外套を渡され、彼女は裸にそれを巻きつけて走りだす。
最後に振りかえれば、竜の亡骸が崩れていくところだった。
竜は息絶えてまもなくすると、骨も残さずに崩れる。竜の血潮にはおそらく亡骸を地に還すちからがあるのだろう。
黄金の鱗がめくれあがり、いっせいに剥がれた。
それは、硬い莟がいっきに膨れあがり咲き誇っては、瞬きのうちに散りゆくようだった。
死に際の、春だ。悲しいほどに季節はずれな。それでも季節の絶えた森に、最後に甦った彩りの時だった。
竜はその死に様までもが美しく、それゆえに果敢なかった。
大いなる竜の死絶も、路傍の花の散り際と変わらないのだ。
砕けた輝石が風とともに舞いあがった。
羽搏けない翡翠の翼も、瑪瑙の脚も、金剛石の角までもが涙のように毀れ、天地へと還る。誰の欲望にも曝されぬままに。ぶわあと細かな光が吹きあがるさまは、竜の魂が召されていくようでもあった。
「せめても、静かな終焉を」
メリュが睫毛をふせ、哀悼の言葉を残す。
あとは振りむかずに走り続けた。落ちてきた枝を槍で薙ぎはらい、浮きあがる根に躓かないよう、細心の注意を払いながら移動する。草叢を踏むたびに星蛍が舞いあがった。
「竜が息絶えると、こんなふうになるのか」
「この森は竜の棲み処でしたから」
緑の息吹を喪い、黒ずんでいても。竜を護り、竜に護られた領域であることに変わりはなかった。竜が息絶えたいま、森が殉ずるのは条理だ。
黒い鹿の群れが、聴くだけでも胸が痛むような悲痛な声をあげながら逃げ惑っていた。
獣などは絶えたような森だったが、息を殺して棲んでいたのか。
黒い鱗に覆われた大蛇が根のあいまを縫うようにして這いまわる。影縫い梟が翼を羽搏かせ、困惑の鳴き声をあげていた。岩陰からは蜥蜴の群が噴きだして、黒潮のように森に満ちる。蜥蜴を踏まないように避けながらもふたりは急ぐ。
枝葉がなくなった森に朝日が差す。
振り仰げば薄明。黒い森にも朝が訪れる。
夜の帳を濃く残して、黄昏のような紫がかった東雲がたなびいていた。枝に残っていた最後の葉は、微かな光にも堪えかねて端から縮み、煤になる。朝に導かれるようにして、ふたりは森を抜けた。
車輪の轍を踏んだのがはやいか。
「森が」
蓋棺するように森が、崩れ落ちた。
樹木は折り重なり、身を寄せあって竜の陵墓となる。
最後の息をつくように巻きあがった黒い残滓が細かな光を纏って、悲しい祝福のように降りそそいだ。残響が満ち、暫しの時を経てそれも潰える。
祈りの言葉もなく、どこまでも静かに。
森が息絶えた。
お読みいただき、ありがとうございます。
続きは21日(月)20時更新致します。
物語はまだまだはじまったばかりです。
引き続き、おつきあいいただければ嬉しいです。